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第1話「画材屋の朝」

秋の光がルーエンの石畳を淡く染めていた。


遠くで荷馬車の車輪が軋む音がする。 パン屋の煙突から白い煙が立ち上り、朝の空気に焼きたての匂いが混じる。


辺境の街は、今日もいつも通りに目を覚ます。


ヴィオレッタ・デュランテは店の鎧戸を開けた。


蝶番が小さく軋む。 朝の冷気が頬を撫でて、彼女はわずかに目を細めた。


「……いい光」


思わず呟いた言葉は、画材屋の店主のものではなく、絵描きのそれだった。


通りに落ちる朝日の角度。 石壁に反射して生まれる柔らかな拡散光。 この光を捉えるなら、下地にナポリイエローを薄く敷いて——


「おはようさん、ヴィオレッタ」


声に思考が途切れた。


向かいの金物屋の親父が手を振っている。 ヴィオレッタは軽く会釈を返した。


「おはようございます、グスタフさん。今日も早いですね」


「お前さんほどじゃないよ。また夜明け前から絵を描いてたろう」


図星だった。 右手の人差し指と中指に、落としきれなかった絵具の痕がうっすら残っている。


ヴィオレッタは指先を袖口で隠しながら笑った。


「……少しだけ」


「少しだけ、ねえ」


グスタフは呆れたように笑い、自分の店に戻っていった。


画材屋「アトリエ・ルーエン」。


棚には顔料の瓶が色ごとに並び、筆は太さ別に仕切られた木箱に収まっている。 油彩用の亜麻仁油、松脂のワニス、膠の塊。 この街で絵を描く人間の数を考えれば、品揃えは明らかに過剰だった。


けれど、それでいい。


ここは私の城だ。


前世の記憶が甦るたび、ヴィオレッタはそう思う。


佐伯澄花という名前の、フリーランスのイラストレーターだった頃。 締め切りに追われ、クライアントの修正指示に翻弄され、納品と入金の狭間で擦り減っていった日々。


あの人生の終わりは突然だった。 そして目を覚ましたら、乙女ゲームの悪役令嬢になっていた。


ヴィオレッタ・デュランテ。 公爵家の令嬢にして、王太子エドヴァルドの婚約者。 ゲームのシナリオ通りなら、ヒロインへの嫌がらせを理由に断罪され、破滅する役。


だから——予定通りにした。


嫌がらせは最低限のポーズだけ。 断罪も受け入れた。 涙は流さなかった。 だって、知っていたから。 そこが終わりではなく、始まりだと。


あの夜の舞踏会の広間。 冷たい声で婚約破棄を宣言する王太子。 嘲笑する貴族たち。


そのすべてを、ヴィオレッタは静かに聞いていた。


そして広間を出た。 振り返らなかった。


あれから一年。


辺境都市ルーエン。 王都から早馬で五日。 父——デュランテ公爵からは「家名を汚さぬよう、静かに暮らせ」とだけ言い渡された。


護衛はつかなかった。 資金も最小限。


それでも十分だった。 前世のフリーランス経験がある。 商売の勘は身体が覚えている。


商業ギルドに登録し、画材を仕入れ、店を開いた。 一年かけて常連もついた。 風景画を描いては店の壁に飾り、時折それが売れる。


穏やかな日々。 望んでいた日々。


昼過ぎ、一人の旅商人が店を訪れた。


南方訛りの中年の男で、顔料の補充を求めてきた。 ヴィオレッタは注文を受けながら、男の話に耳を傾けた。


「いやあ、王都は今ちょっとした騒ぎでしてね」


男は群青色の顔料瓶を手に取りながら言った。


「宮廷画家が描いた絵が大評判なんですよ。断罪の場を描いたとかで。版画になって出回ってましてね、飛ぶように売れてるとか」


ヴィオレッタの手が一瞬止まった。


断罪の場。


その言葉が指す光景は、一つしかない。


「……どんな絵なんですか」


「さあ、私は実物は見てないんですがね。涙を堪える令嬢と、冷たく手を振り払う王太子——って話です。大層な美人に描かれてるらしい」


涙なんて堪えていない。 手を振り払われてもいない。


事実と違う。


けれど、そんなことを指摘する意味はない。


「……そうですか。面白い話ですね」


ヴィオレッタは微笑んで、顔料の代金を受け取った。


男が去った後、帳簿に目を落とす。 文字がうまく読めない。


視線が泳いでいることに気づいて、ヴィオレッタは小さく息を吐いた。


「……関係ない」


声に出して言った。


私の人生はもうあの場所にない。 王都にも。宮廷にも。あの広間にも。


ここにある。 この店に。この街に。この絵具の匂いの中に。


帳簿の数字に意識を戻す。 今月の仕入れ。亜麻仁油の在庫。筆の発注。


日常の計算が、揺れた心を静かに押し戻した。


夕刻、店を閉めようとした時だった。


「邪魔するよ」


聞き慣れた低い声。 テオドール・ルーエン。 この街の自治都市長であり、商業ギルドの長老でもある老人。


白髪交じりの髭を撫でながら、テオドールはカウンターの前に立った。 その手に、一枚の紙が握られていた。


「テオドールさん、いらっしゃいませ。今日は何か——」


「これを見てくれ」


テオドールは紙をカウンターに置いた。


版画だった。


銅版画の複製。 紙の質はそれほど良くない。 だが、刷りは丁寧で、原画の構図が忠実に写し取られていた。


広間の中央に立つ女。 背筋を伸ばし、正面を見据えている。 その横顔に、落陽の光が差している。


対面には一人の男。 王太子の正装。 冷たく、断定的な身振り。


女の目元には、光の加減で涙のように見える表現が施されていた。


事実とは違う。 あの夜、私は泣いていない。 涙を堪えてもいない。


それでも——


ヴィオレッタは版画に目を奪われた。


構図。 光の配置。 人物の対比。


画家としての目が、否応なく反応した。


この絵を描いた人間は、間違いなく一流だ。


落陽の光を女の横顔に集中させ、王太子側を影に沈める構図。 意図的に、残酷なまでに計算された明暗。


事実の記録ではない。 物語の創造だ。


「……すごい絵ですね」


感想が先に出た。 当事者としての感情より、画家としての評価が勝った。


テオドールが髭の奥で目を細めた。


「お前さんの感想はそっちか」


「すみません。つい」


「いや、いい。で——率直に聞くが」


テオドールは版画の中の女を指さした。


「このモデル、お前さんだろう」


沈黙が落ちた。


ヴィオレッタは版画の女をもう一度見た。 脚色されている。美化されている。 けれど、あの夜の構図は——間違いなく、自分がいた場所だ。


「……似ている人ですね」


「ヴィオレッタ」


テオドールの声に、商人特有の鋭さが混じった。


「この版画は王都だけじゃない。南部の港町でも出回り始めとる。遅かれ早かれ、この街にも届く。というか、もう届いた。儂の手にな」


ヴィオレッタは顔を上げた。


テオドールの目は穏やかだが、真剣だった。


「どうする。噂はすぐ広まる。この街の人間も、そのうち気づく。お前さんがあの絵の令嬢だと」


どうする。


その問いに、ヴィオレッタは静かに答えた。


「——何もしません」


テオドールが眉を上げた。


「あの絵は私が描いたものではありません。描かれた内容も事実とは異なります。肯定も否定も、する理由がありません」


言葉にしてみると、思ったより落ち着いていた。


前世の記憶がある。 この程度の逆風は、締め切り前夜のクライアントの全面修正指示に比べればまだ——


いや、比べるものではない。


「……私は画材屋の店主です。絵を描いて、画材を売って、この街で暮らしています。それだけです」


テオドールはしばらく黙っていた。


それから、短く笑った。


「そうか。まあ、お前さんがそう言うなら、儂は何も聞かなかったことにしよう。——ただな」


老人は立ち上がりながら言った。


「最近、妙に客が増えとるだろう。画材屋にしては、覗くだけの客がな」


ヴィオレッタは目を瞬いた。


言われてみれば——確かに、ここ数日、何も買わずに店を出る客が増えていた。 地元の人間ではない顔も混じっていた。


「理由がわかったろう」


テオドールはそう言い残して、店を出ていった。


一人になった店内に、蝋燭のちいさな炎が揺れた。


版画がカウンターの上に残されている。


落陽の光を浴びる、私ではない私。


ヴィオレッタはそれをそっと裏返した。


見なくていい。 あれは過去の話だ。 私の人生は、ここにある。


けれど——裏返した版画の下で、かすかに紙が軋む音がした。


まるで、過去が静かに寝返りを打ったように。

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