ゴブリンは、奪い取る
夜は、音が薄い。
昼の喧騒が引いたぶん、呼吸と足音がやけに目立つ。だから俺は、歩かない。
瓦礫の影から影へ。
濡れ土に爪先だけ置き、体重はあとからそっと乗せる。
ゴブリンの足は軽い。軽いから、しくじれば転ぶ。転べば、死ぬ。
背中に視線を感じる。
「……いく?」
ゴブタだ。でかいくせに、妙に静かについてくる。
俺は振り返らない。
「待てって言った」
「……でも」
「お前が死ぬと、メシが減る」
「……うん」
納得が早い。単純で助かる。
俺は昼に目星をつけた穴を覗いた。
細い穴だが、奥は人一匹――いや、ゴブリン三匹くらいは通れる。
逃げ道。
捨て場所。
隠し場所。
この街じゃ、地図より先にそれを作る。
「細いの」は、今夜も動く。
奪いに来るやつは腹が減ってる。腹の減ったやつは、だいたい規則正しい。
――飯時に現れる。
だから俺は、飯の出る場所の外側で待つ。
外側ってのは、命の外側だ。
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スラムの飯は、飯じゃない。
どろどろの何かを鍋からすくって配る。
配られる順番は、強いやつからだ。
強いやつってのは、腕力があるやつじゃない。
「殴る理由を持ってるやつ」だ。
「細いの」は、その名の通り細い。
腕も細い。足も細い。
その代わり、目がよく動く。口がよく回る。
周りの弱いやつを煽って殴らせ、自分は手を汚さない。
今日もやってる。
「おい。あいつら、最近いいメシ食ってるらしいぞ」
「なんでだよ。ズルしてんだろ」
「見ろよ、腹。太ってんじゃねぇか?」
言ってるのは取り巻きだ。
殴るのは、別のやつ。
俺は離れた影から眺めた。
焦らない。怒らない。
怒りは贅沢だ。
「……あれ」
ゴブタが指差した。
「細いの」は鍋から受け取ると、見せびらかすようにして少し離れた。
――いい。
食い物を持って動くやつは、足取りが雑になる。
油断する。
油断した瞬間だけ、世界は平等だ。
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――だから、待つだけじゃ足りない。
奴を罠にかける必要がある。
勝手に来るほど、世界は親切じゃない。
俺は昼のうちに、ひとつ仕込んでおいた。
配給の列が途切れにくい位置。
「細いの」が他人を殴らせやすい位置。
そこに、油の染みた布を――わざと落としておく。
臭いが強い。火もつく。
スラムのゴブリンにとっては宝だ。
取り巻きが見つければ、持っていく。
リーダーの耳にも入る。
「最近いいメシ」の噂と一緒に。
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追跡は簡単だ。
「細いの」は、後ろを気にしない。
気にするのは、自分より強いやつの前だけだ。
配給所の外れで、取り巻きが油布を物陰にねじ込んで隠すのを見た。
案の定、その夜。
「細いの」は取り巻きを二匹連れて、そっちへ向かった。
――狙い通り。
俺は先回りして、狭い通路の影に潜る。
左右は崩れた壁。
上は板切れ。
見通しが悪くて、逃げにくい。俺の好きな場所だ。
梁の欠けた角に、昼に掛けた紐がある。
ほどけない結び目。
こういう下準備みたいなことは、前世でもやっていた。仕事の癖だ。
足音が近づく。
三つ。
軽い。
軽いくせに、自分が軽いことを知らない歩き方だ。
「細いの」が先に入ってきた。
後ろに取り巻き。
「どこだ」
「ここらへんに……」
油布の臭いを追って、通路の奥へ。
俺は紐の端を足元で引いた。
紐が喉の高さを横切る。
首は飛ばない。
でも、転ぶ。
「細いの」は気づかないまま進んで――
ぐえっ、と変な声を出して前のめりに転んだ。
取り巻きが慌てて前に出る。
前に出たやつから、狭い通路に詰まる。
隠し持っていた魔導灯のゴミを、奴らにぶつける。
耳障りな音ともにガラスの破片が奴らを切り裂いた。
逃げ道が消える。混乱が生まれている。
俺は影から出ない。
出るのは、骨だ。
とがった骨を一本。
喉の下。
息の通り道。
声が出なくなる場所。
「細いの」は口をぱくぱくさせた。
目だけが動く。
手が動く。
でもその手は、俺の顔を掴むには遅い。
俺は顔を近づけて囁いた。
「取るなら、取り続けろよ。そういうルールだろ」
骨を抜く。
血が出る。
血は、この街じゃ珍しくない。
取り巻きが叫ぶ前に、俺はもう一回刺す。
声を出させないための作業だ。
「細いの」が崩れた。
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殺したあと、気づいた。
息が少し楽だ。
足が軽い。
さっきまで「重い」と思っていたこの体が、心なしか自分のものになった気がする。
気のせいか。
それとも、何かが変わったのか。
確かめる方法はない。
でも、悪くない。
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大事なのは、証拠だ。
俺は「細いの」の耳を片方、骨で切り落とした。
熱い。
ぬるい。
指がべたつく。
耳は油布に包んで、臭いを抑える。
死体は捨て場所へ。
濡れ土をかぶせる。
油布を戻す。
臭いは、土が食う。
取り巻きは――逃げた。
二匹とも通路の外へ転げ出て、暗がりへ消える。
追わない。
逃げるやつは腹が減ったら戻る。
戻るなら、その時にまた処理する。
今は、仕事の順番がある。
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次は、グループだ。
「細いの」がいなくなったら、取り巻きは騒ぐ。
騒いで、殴り合いになる。
殴り合いになったら、腹が減る。
腹が減ったら、配分を求める。
配分を求める先は、一つになる。
――仕事は、そこで終わる。
俺は配給所の近くに戻った。
騒ぎはもう始まっている。
「リーダーどこだよ!」
「さっきまでここにいたろ!」
「逃げたんじゃねぇのか!」
焦ってるやつは、群れをまとめられない。
俺は鍋の横に立った。
立っただけだ。
声を出す。
「騒ぐな」
何匹かが振り返った。
「誰だお前」って顔。
俺は油布の包みを、鍋の縁に置いた。
ほどく。
転がる。
切り落とした耳。
「『細いの』は死んだ」
空気が止まった。
腹の音まで止まる。
俺は続けた。
「俺の仲間のメシを取った。だから処理した」
「……ほんとか」
声が震えてる。
疑うのは当然だ。
この街で信じていいのは、メシだけだ。
俺は耳を指でつまんで持ち上げた。
「匂いで分かるだろ」
血の臭い。
あいつの油。
あいつの汚れ。
同じ鍋を覗いてたやつほど、分かる。
虐げられてたやつほど、息が戻る。
「……やったのか」
「やった」
頷かない。
頷くのはコストだ。
でも、言う。
言わないと、また誰かが殴る理由を作る。
それに今――リーダーが消えた群れは、腹の前でいちばん乱れる。
だから俺は、鍋の前に立つ。
ここを押さえれば、誰かが必ず「まとめ役」を呼びに行く。
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俺は鍋を指差した。
「メシはここだ。押し合えば、飯はないぞ!」
誰かが前に出かけて、止まる。
横から、ゴブタが立った。
でかい。
それだけで、殴る理由が消える。
俺は言った。
「決める。配る。守る。それだけでいい」
沈黙が落ちた。
沈黙は、腹の音で割れる。
その腹の音に、一匹が唾を飲み込んだ。
「……お前、やれるのか」
俺は頷かなかった。
責任はコストだ。
代わりに、鍋から一杯すくって皿に盛った。
それを一番近いゴブリンに渡す。
「並べ」
たったそれだけで、列ができる。
列ができると、殴りにくくなる。
殴りにくくなると、メシが増える。
俺は二杯目を盛った。
「次」
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配り終えたころ、背後で小さな声がした。
「……すごい」
ゴブタだ。
目が丸い。
「すごくない。普通だ」
「……でも、みんな、言うこと聞く」
「メシがあるからな」
ゴブタは少し考えてから、言った。
「……ボス」
その言葉が、夜の冷えた空気に落ちた。
俺は、否定しなかった。
否定する理由がなかった。
今夜、奪われる生活が一つ減った。
その代わり、守るべき生活が増えた。
体が軽い。
気のせいじゃない気がする。
怒りは贅沢だ。
だから俺は、怒らない。
代わりに――仕事をする。




