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ゴブリンは、怒らない

目が覚めた瞬間、鼻が仕事をした。


湿った土。腐りかけの野菜。血の跡。


――ああ、ここは治安が悪い。


次に来たのは空腹だ。思考より先に腹が鳴る。これはたぶん、重要な情報だ。


目を動かすと、視界が低い。手が小さく、緑色で、指が太い。爪は黒い。


なるほど。


俺はゴブリンになっていた。


異世界転生だとか、そういう便利な言葉は後回しだ。


今は腹が減っている。それが一番の問題だった。


周囲には同類が数匹、転がっている。生きているのもいれば、そうでないのもいる。区別は難しいが、急ぐ話でもない。


地面に落ちていたのは、カビの生えたパンの欠片。


俺は拾って、即座に口に放り込んだ。


横から伸びてきた手があったが、途中で引っ込んだ。


ここでは、パン一欠片で命を賭けるほど、皆に余裕はない。


分かった。


ここは、**怒らない場所**だ。


---


底辺ゴブリンの生活は単純だった。


危険な仕事を押し付けられ、余った飯を奪い合い、死んだやつはそのまま。


怒るより、諦める方が長生きする。


この街で怒ったゴブリンは、次の瞬間には死んでいる。


とはいえ街のルールは単純だ。だからこそ、少し要領がいいだけで差が出る。


俺は前に出ない。怒鳴られたら即謝る。


危険区域には近づかず、飯の出る時間と場所を覚える。


余った分はすぐ食わず、隠す。


それだけで、生存率は目に見えて上がった。


それに隠しておくものは、メシだけじゃない。


瓦礫の影から、とがった骨を一本選んで拾う。


細い紐は、ほどけない結び目で梁の欠けた角に掛けておく。


油の染みた布は、火種にも目潰しにもなる。臭いが漏れないように丸めて、濡れ土の下へ。


逃げ道になる穴と、見つかったときに捨てる場所は、昼のうちに目星をつけてある。


普段から、使えそうなものは拾って、使える場所に置く。


こういう下準備みたいなことは、前世でもやっていた。仕事の癖だ。


メシに余裕が出てくる頃には、少しずつこの世界のことも分かってきた。


街の綺麗な方には人間だか、エルフだかもいること。


この糞溜めのボスはオーガとかいうデカい鬼みたいなやつだってこと。


この掃き溜めにいるだけだとわからなかったが、案外この世界は発展していること。


この間ゴミ廃棄場の仕事に出たときに、壊れた魔導灯ってものを初めて見た。


白い光が一瞬だけ脈打って、次の瞬間、焦げた油みたいな臭いと一緒に消えた。


はしゃいで近寄ったゴブリンは、破裂したガラス片で血まみれになっていた。


---


そんな中で、俺は一匹のゴブリンに目を付けた。


体がでかい。動きは鈍い。


いつも口を半開きにして、ぼーっとしている。


仕事は遅いが、文句は言わない。


殴られても怒らない。怒られた理由も、たぶん分かっていない。


――使える。


盾として、ちょうどいい。


俺は、余っていた飯を一つ持って近づいた。


「……食うか」


そいつは、少し間を置いてから頷いた。


「……ゴブタ」


「?」


「……おれの名前」


理由は聞かなかった。


この街で、名前に意味はない。


俺はパンを半分に割って、ゴブタに渡した。


「……いいの?」


「いい。食え」


ゴブタは両手で受け取り、嬉しそうに齧りついた。


「なんだ」


「……うまい」


味なんてしないはずだが、否定する気はなかった。


――メシを渡すと、懐く。


ゴブリンは単純で助かる。


---


それから、俺たちは一緒に動いた。


危ない仕事のときは、ゴブタを前に出す。


殴られそうになったら、俺が横から口を挟む。


「そいつは遅いが、壊れない」


意味が通らなくてもいい。


声を出すだけで、殴られる頻度は下がる。


仕事帰り、俺は余ったスープをゴブタに渡した。


「……くれる?」


「飲め」


「……楽しい」


「何がだ」


「……お前といると、メシ食える」


基準が低い。


だが、正直だ。


夜、瓦礫の下で休むときも、ゴブタは俺の近くに座った。


「近い」


「……あったかい」


まあいい。


盾は近い方が使いやすい。


気づくと、ゴブタは笑うようになっていた。


殴られても、飯を食うと笑う。


――楽しい、か。


この街で、そんな感想が出るのは珍しい。


---


ある日、戻ると、ゴブタが座っていた。


様子が違う。


皿が空だ。


いつも、半分だけ残していた安物のソーセージがない。


「ゴブタ」


「……取られた」


「誰に」


「……細いの」


名前は聞かなくても分かる。


俺たちゴブリンは、どうもいくつかの小さいグループに分かれて生活しているようだ。


俺たちのグループのリーダーが今回の犯人だ。


奴は俺たちが要領よくメシにありつけていることがどうやら面白くないらしい。


ゴブタは怒っていなかった。


ただ、少し困った顔をしていた。


「……また、働く」


立ち上がろうとするゴブタの腕を、俺は掴んだ。


「やめろ」


「……?」


「それは俺の仕事だ」


ゴブタは目を丸くした。


「……怒ってる?」


違う。


怒りは贅沢だ。


これは、**ルールの問題**だ。


仲間のメシを取ったやつは、次も取る。


それを許せば、奪われる生活が固定される。


俺はいつか使うだろうと思って隠し持っていた、とがった骨を拾った。


そのいつかが来たんだ。


刃物じゃない。


だが、十分だ。


「ゴブタ」


「……なに?」


「今日は、ここで待ってろ」


「……うん!」


返事がやけに元気だった。


――ああ、そうか。


ゴブタは、俺といると


**メシが食えて、楽しい**と思っている。


それを壊すやつがいるなら、


処理しないといけない。


復讐じゃない。


感情でもない。


生活を守るための作業だ。


俺は夜に紛れて、歩き出した。


ゴブリンは怒らない。


だから、怖い。

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