第二章:文通は恋愛に非ず①
◆ シーン1:屁理屈男、文通に目覚める
夜である。
月は思慮深げに空に浮かび、街灯は哲学的に瞬いている。
私は机に向かい、ランプの灯をやや暗めに調節していた。
やや暗めというのが重要である。明るすぎると軽薄に見えるし、暗すぎると厨二病に見える。適度に思索的な光が、文通という行為には求められるのだ。
机の上には白紙の便箋、愛用の万年筆(インクは深緑)、そして──
例の、空から降ってきた手紙である。
私はそれを十一回目にして、再読していた。
……ああ、なんということか。
この手紙は読めば読むほど、奥行きを増してゆく。
一度目は知性に打たれ、二度目は抒情に胸が震え、三度目には“文体”の妙に感嘆し──十回目を迎える頃には、もはや私は全文を暗誦できるレベルに達していた。
「恋とは何か、私はまだわかりません……だが、問いかけずにはいられないのです」
そう。いられないのだ。
私も、いられないのだ。
私のこの手、この脳、このペン先が、いま、何かを書きたくてたまらないのである。
──だが、そこで私は我に返る。
「待て、落ち着け鹿間斎。
これは恋文ではない。これは文学的議論である。
対話であって、情熱ではない。
これはプラトン的対話篇であり、すなわち哲学である!」
その通り。私は屁理屈男である。
恋愛などという情動の海に漕ぎ出すような軟弱な精神は持ち合わせていない。
この行為は、文通ではない──観念の往復運動である。
私は自分に言い聞かせながら、便箋を三種類取り出して並べていた。
一枚目はクリーム色。誠実だが退屈。
二枚目は淡い水色。叙情的すぎる。恋心の匂いがする。却下。
三枚目は無地のアイボリー。うむ、これだ。シンプルにして深い。哲学の色である。
ついでにインクも選び直す。
黒ではつまらぬ。赤は下品。青は……情緒がありすぎる。
ここはやはり、深緑だ。思索の森に分け入るような色だ。
万年筆のキャップを開ける。
手は震えていない。むしろ軽やかだ。何だこれは。自分が少し気持ち悪い。
私は便箋に向かって、一字一字、丁寧に書き始めた。
拝啓 名もなき筆者殿
突然の手紙、失礼いたします。
私はあなたの手紙を、まさに「空からの問い」として受け取りました。
あなたの問い「恋とは何か」は、古来より数多の哲人が挑み、敗れ去ってきた難問です。
私は恋愛に否定的立場を取り続けてきた者ですが、あなたの言葉は、ただの感傷ではなく、明確な思考の跡をたどっておりました。
したがって、私はあなたとの対話を望みます。
これは、いわば「観念の文通」であり、知的な闘いであり、そして孤独な魂の摩擦であります。
次に、あなたが「誰かに届かなくても書かずにはいられない」と記したくだり──
その“切実なる無名性”に、私は震えました。
あなたは私か、私はあなたか。
以下、あなたの問いに対し、私なりの所見を述べたいと思います……
と、私は便箋に五枚目を書いているところで、ふと自問した。
「……もしかして、
これって、けっこう、楽しいのでは……?」
はっ!
「いや、違う! これは楽しいとか楽しくないとか、そういう次元ではなく、
論理的必然性に基づいた知的営みなのである!
私は楽しんでなどいない! 使命感で書いているのである!」
自分の顔が妙に火照っていることには、気づかないふりをした。
私は屁理屈男である。
これは恋などでは、断じてない。
私はただ──答えなければならないと思ったのだ。あの声に、あの問いに。
「これは恋文ではない。文通である。いや、文通ですらない。これは──」
私は天を仰いで、はっきりと口にした。
「これは……観念の手紙バトルである!!」
机の上でインクが乾いていく音が、かすかに聞こえた。