第一章 屁理屈男、空から手紙を拾う②
◆ シーン2:空からの侵入者
風が変わった。
昼下がりの屋上に吹きすさぶのは、ただの気まぐれな空気の流れではない。これは、事件の前触れである。
私は自らの重厚な屁理屈をノートに記しながら、風のうねりに気を取られた。
「愛とは反社会的行動である──」
そう、これは私の最近の持論である。
愛とはしばしば、家庭を壊し、秩序を乱し、論理を破壊する。歴史をひもとけば、戦争の原因となった恋愛も、国家転覆に加担した情熱も存在する。
まさしく愛とは、理性と社会規範に対する宣戦布告にほかならない。
ノートにペンを走らせながら、私は満足げに鼻を鳴らした。
──と、そのときだった。
ふわり、と。
空から白い何かが、降ってきた。
……いや、これは比喩ではない。
まさしく、物理的な意味において「空から」何かが落ちてきたのである。
私は仰天した。
自販機でジュースが当たったときよりも、図書委員が私の存在を認識したときよりも、驚いた。
「……封筒、だと?」
その物体は、屋上の床に一度跳ね、静かに私の足元に止まった。
風のせいか、神の悪戯か。
いや、もっと悪質な──知的な何者かの仕掛けに違いない。
私はそっと屈み込んだ。封筒は真っ白で、表にも裏にも、何一つ書かれていない。宛名も差出人もなく、消印も見当たらない。完全なる無記名。
だが、そこには確かに、こう書かれている気がした。いや、そう書いてあるとしか思えない。
「読め」
……挑発である。
あるいは知的闘争の誘いである。
私は一瞬、屋上を見回した。誰もいない。上空にも、ドローンも天使も見えない。
私は封筒を拾い、じりじりと開封した。
こんなもの、読む価値があるかどうかもわからぬ。
だが、読みたい。否、読まねばならぬという予感が、背骨の奥で疼いた。
手紙は一枚の便箋にぎっしりと、万年筆か細字のペンで綴られていた。
文面に乱れはなく、几帳面で理性的だ。だが、そこには明らかな「熱」があった。言葉に火照りがあった。
恋愛というものは、私にとって未だ正体不明の霧のようなものです。
それは人の輪郭をあいまいにし、時間の速さを変え、言葉を沈黙に変える力を持っている。
そして、その不明瞭さに、私は抗えずにいるのです。
誰かと共に何かを感じたい、という衝動。
それが恋なのか、それとも孤独の言い訳なのか。
私には、まだわかりません。
ですが、それでも、私は書かずにはいられません。
この手紙が誰にも届かないとわかっていても、私は、書かずにはいられないのです。
なぜなら私は、世界に問いかけたいのです。
「恋愛とは何か?」
この問いに、誰かが、静かに耳を傾けてくれるかもしれないという希望だけで、私は書いています。
私は、手紙を読み終えて──しばし、沈黙した。
何だ、これは。
屁理屈ではない。だが、感傷だけでもない。
この手紙には、明確な知性の形があった。それは私のように理屈の塔を積み上げるものではなく、霧のなかで問い続ける知性──形にならないものに言葉を与えようとする、孤独な試みだ。
「これは、反論ではない……」
「……対話、だと……?」
ぞくり、と背筋が震えた。
この手紙を書いた者は、私と同じく孤独であり、言葉にすがっている。
ただし、その言葉は人を斬る剣ではなく、人に触れる指である。
「お前は……誰だ?」
私は手紙を握ったまま、風に向かって問いかけた。
答えは返ってこない。だが私は、初めて感じていた。
世界のどこかに、自分と知性の言語で会話できる存在がいるかもしれないという、奇妙な高揚。
私の屁理屈の塔のなかに、知らぬ誰かの窓が開いたような感覚だった。
そして、私はもう一度、便箋の最後の一行を読んだ。
「この言葉が、誰かに届きますように。」
届いたぞ。しかと、届いた。
鹿間斎、この屁理屈男の脳髄の奥深くにまで、まっすぐに。