第三章:実在する手紙、あるいは恋の妄執について④
◆ シーン4:部屋の中の稲生瑠璃
稲生瑠璃の部屋には、外界がない。
窓はあるが開け放たれることはなく、カーテンは透ける白だが、光は極端に調整されていた。
部屋の空気はほんのりと紙とインクの香りを含んでおり、天井からは過去の手紙たちが風鈴のように吊るされていた。
まるで彼女の宇宙は、手紙によって構成されているかのようだった。
瑠璃は、ベッドの上に胡坐をかいて座っていた。
彼女の膝の上には便箋、手には黒インクのペン、脇には丸められた試し書きの紙束。
彼女は黙々と文字を書いていたが、時折ペンが止まり、ぼんやりと宙を見つめる。
それは、思考の深淵に向かうまばたきであり、言葉の海に潜るための息継ぎだった。
「……名前を書いたのは、やっぱり余計だったかもしれないな」
小さな声でそう呟き、瑠璃は眉を寄せた。
ペン先が文字をなぞるように揺れる。
「でも、ずっと黙っているのも、卑怯な気がしてた」
これまで、自分の名前を隠していたことに対して、罪悪感があった。
もちろん、相手だって名乗ってはいない――だが、彼は常に“自分”であろうとしていた。
屁理屈にまみれていても、そこには彼自身の「論理」があり、「寂しさ」があり、「誇り」があった。
瑠璃は思う。
あの人は――風に手紙を放り投げるような無茶をするのに、書いている言葉はいつも緻密だ。
まるで、世界を論破すれば救われるとでも思っているみたいに。
だけど、彼の言葉の中には、ときおり「痛み」が混ざっている。
それは瑠璃にとって、とても正直な痛みに思えた。
「……名乗ったからって、何が変わるわけじゃないよね。どうせ、もうこのやりとりも終わるかもしれないし」
瑠璃は手紙を折り、封筒に収めた。
けれど、それは“投げやり”ではなく、“祈るような慎重さ”に近かった。
部屋の窓の近く、彼女は特製の風の捕獲装置――つまり、細い糸と網と磁石で作った簡易トラップのようなもの――にそっと手紙を載せた。
そして、深く息を吸う。
「いってらっしゃい」
窓を開けたとき、彼女の髪がふわりと揺れた。
それは部屋の空気と、外の世界がわずかに交錯する瞬間。
まるで宇宙船のハッチが開かれたかのように、手紙が風に攫われていった。
窓が閉じられると、再び部屋は静寂に包まれる。
風の通った余韻だけが、天井の手紙を微かに揺らしていた。
瑠璃は、しばらく窓を見つめていた。
何も映っていないガラスの向こうを、まるで誰かの姿が見えるかのように。
それからぽつりと呟いた。
「……あなたが誰であっても、私はもう、あなたの言葉を待つようになってしまった」