第三章:実在する手紙、あるいは恋の妄執について③
◆ シーン3:手紙に名前が書かれていた
午後の屋上には、毎度おなじみの風が吹いていた。
それは鹿間斎にとって、もはや空気ではなく郵便配達員のようなものだった。
「……そろそろ来る頃合いだ」
などと、誰にともなくつぶやきながら、彼は金網越しの空を見上げた。
何度も落ちてくる手紙を受け取っているうちに、彼は完全に風を信用し始めていた。
これはある種の宗教である。
そして、その信仰は今日も報われた。
空から、ふわりと白い封筒が舞い降りてきたのだ。
受け取った瞬間、鹿間は妙な緊張を覚えた。
封筒の手触りはいつもと同じ。紙質も、消印もない。
だが、何かが違う――予感である。
封を開け、手紙を引き出す。
文字はいつも通り、整っており、やや理屈っぽく、そして熱がある。
読めば読むほど、相手の姿が見えてくるような気がした。
そして、その文末に――
> 稲生 瑠璃
その署名が、確かに書かれていた。
「……な、名前……だと……?」
鹿間はしばし茫然自失となり、屋上の床にへたり込んだ。
封筒を手にしたまま、空を仰ぎ見て、呻いた。
「なぜ今さら……いや、そもそも今まで名乗っていなかったのが異常なのだ……。
そうだ、これは社会的には正常な手順……いやしかし……」
思考がねじれる。論理が軋む。
これはまるで、知性のやりとりの場に、突然“肉体”が侵入してきたかのようだった。
「『稲生 瑠璃』……。漢字三文字。名前がある。人格がある。人生がある……!
これではまるで、“誰か”ではないか!!」
声に出してしまったことに驚き、自分の口を押さえる。
彼にとって、これまでの手紙は**“論理のボトルメール”だった。
誰とも知れぬ相手と、名前も顔もなく、純粋に知性だけでやりとりする、まるで哲学者のディベート**。
だが、そこに名がついた瞬間、相手は霧の中から姿を現し、“他人”になってしまった。
鹿間は、自室へと駆け戻り、机に向かって便箋を広げた。
鉛筆を握る。何度も筆を走らせようとするが、書けない。
「……だめだ……何を書けばいい?」
今までは書けた。
「恋愛とは錯覚である」とか「群れとは思考停止の結果である」とか、屁理屈はいくらでも湧いた。
だが今は、ただ“稲生瑠璃”という名前が、文字の奥にじっと座っている。
「名前を知った途端、私はこのやりとりが怖くなってしまった。
名前のない知性には、自由があった。
だが、名のある知性には、重さがある。
これはもう、ゲームではない……!」
鹿間は机に突っ伏した。便箋は白紙のまま、ただ彼の体温を受けていた。
彼の頭の中には、知らぬ少女のイメージが勝手に育っていく。
風のように筆を走らせる、孤独な賢者。
窓辺に手紙を待つ、内気な文学少女。
もしくは、仮面の下に真実を隠す狡猾な策略家。
すべてが妄想である。
だが、名前が与えられた瞬間から、想像が現実に侵入する道が拓けた。
「……くそっ……これではまるで……恋ではないか……!」
彼はようやくそこまで自覚し、しかし全力でそれを否定した。
「いや違う。これは知性の躍動。あくまで文芸的な交歓!
たとえ名前を知っても、私は知性に恋しているだけなのだ!
これは、プラトニックの極北である!」
鹿間はそう叫びながら、結局その日は一文字も書けなかった。