猫と狐。そして憎たらしい狸娘。
官舎に帰ってくるともう何もする気力が無かった。飯を食う気にもなれなかった。腹が減っている気がしないのだ。仕事が忙しくて目が回りそうだった時もそうだし、鬱病だと診断された後もやっぱりそうだった。ただ、薬は食後に服用しなければならない。だから食事をしていたようなものだ。
上着を脱ぐと、梅がさっと受け取ってハンガーに掛けてクローゼットに仕舞った。
「夜食に何か簡単なものを拵えますが、どんなものが食べたいかリクエストは有りませんか?」
椿に聞かれたので、冷蔵庫に有る物を使ってくれたら良い、メニューは任せると言ったら少し困った顔をする。仕方が無いので冷蔵庫の中身を見る。
「野菜炒めかな。さっと火を通してくれれば良いや」
すると椿は張り切って調理を始めた。少し待てば出来上がりなのだが、その少しを待つのが少々きつかった。畳の上に寝転がってしまう。疲れた。そのまま眠ってしまいそうだ。鈴木の言う通り、無理は禁物だ。
「ああ、ダメだよう。ボクが後でお布団敷いてあげるから、それまで寝ちゃダメ!」
桜が右腕、梅が左腕を掴んで引っ張り、桃が背中を押す。3人がかりでゆっくりと体を起こされている最中、頭がぼうっとしてズキズキ痛み、何も考えられなくなりそうだった。元の木阿弥にさせるもんかという気持ちは起こってきたから、3人に支えてもらいながら立ち上がり、テーブルに座る。こういう風にしないと。今晩は夜食を食べて風呂に入って寝る。明日は6時に起きる。このサイクルを繰り返す。そうだ、そうしないと。だから気力を振り絞って、椿の作ってくれた夜食を食べた。その場には4人とも集まっていたので、笑顔を浮かべるメイドに見つめられながらの夜食になった。何だか無図かゆい。食べながら質問する。
「私のパソコン、どこにあるの?」
「はい。机の上に置いてありますよ」
梅は事も無げに言う。
「後でちょっと触ってみよう」
そう言ったら、桜が、
「なでなでするの?」
などと聞いてくる。3人は笑う。
「そんなわけないでしょう、兵長。少佐殿はお風呂が沸くまでの間、パソコンを少し使いたいって仰っているんですよ?」
椿が笑いながら言うのに桜は大いに反発する。
「そ、そんなこと知ってるもん!パソコンの蓋を開ける前になでなでするのか聞いただけだし!」
椿と取っ組みあいになりそうだったが、梅が羽交い絞めにしたので収まった。
「フン、だ」
桜は椿から目を反らし、むくれる。本当に子供の喧嘩だ。
「誰かお風呂入れて頂戴。その間に天気予報と今日のニュースを見ておくから」
それを聞くや、桜と梅は風呂場を目指してすっ飛んでいく。ああ、そうか。栓はしていないから。栓をする前に給湯器のスイッチを押しても仕方が無い。それにしても栓をするのも競争、スイッチを入れるのも競争。滑稽なくらい張り合っているがこんなものなのだろうか?いわゆる出世競争というやつは。どこかで止めるべきなのだろうか?人付き合いというものにとんと疎いので、どうにも対処法が分からない。弱った話だ。
だから今まで通りの対応、つまりは無視を決め込むことにした。洋間に据え付けた机に向かい、パソコンを起動する。こんなことは昨日やっておくべきだった。なんで疲れたことを理由にやるべきことをやらなかったのか?全く持って嫌になる。今晩は少なくともパソコンの中に入っている個人情報を引っ張り出すつもりだ。早速「お気に入り」をクリックすると色々なものが出てくる。何々?楽市証券。株やっているのか。岡田屋信用販売。クレジットカードのこと?官吏軍人恩給組合。開いてみると、保養所のページだった。どっか旅行行きたいよね。他にも色々あるからそれぞれチェックしたかったが、
「お風呂が沸きました」
と音声がしたら、取りあえずはこれまでだ。
「背中流しましょうか?」
今度は桃がそんなことを言い出して、又もや睨み合いが始まる。言い争う様に付き合いきれないので、
「じゃんけんで今後の当番を決めなさい。こんなことで喧嘩しないの」
といつもの口調で言ったまでなのだが、
「はい!」
皆震えがっている。怒らせてしまったと思っているのだろう。
こちらはさっさとパジャマと下着を持って風呂場へ向かう。そりゃ背中を流してくれた方が嬉しいが、なくても良い。と言うよりそれが当たり前だ。じゃんけんぽん!という声が響くのを尻目に風呂に入る。湯船に浸かっていると、暫し静かになった。そうこうする内に、ダッダッダッと勢いよく風呂へ駆けて来る音がした。さては桜か?それは想像通りだった。
「今日はボクが背中流してあげる!」
それはそれは良い笑顔だった。出し抜けたことがよほど嬉しいと見える。
「そう。金曜日は桜が当番?」
湯船から上がり、浴槽の縁に腰掛けてから尋ねると、
「えっ⁉」
などと鳩が豆鉄砲を食ったような顔になる。
「今後の当番を決めなさいといったよね?」
と言ってやったら、
「ごめんなさい。もっかいじゃんけんしてくる」
来た時と同じ勢いで去って行った。
風呂から上がってドライヤーで髪を乾かし終わっても、じゃんけんは続いていた。風呂の当番どころか、食事の支度から洗濯ものをしまう係、朝6時に起こす係まで。要するに俺が起きてから寝るまでの自宅における動作を細分化して、「どこで奉仕するか?」を競い合っていたのだった。押し付け合いじゃなく、奪い合い。巴と初めて会った時、お姫様抱っこで医務室へ連れて行くと言い出したが、断固として拒否したら「もっと奉仕したい、拒絶されているみたいでつらい」としょんぼりしていたことを思い出した。
半ば茫然として眺めていたら、梅がこちらに気付いて紙に書いて張り出すと言い出した。升目の一つ一つを自分の名前で埋め尽くすつもりなのだろう。夜のじゃんけん大会は続く。面映ゆい。俺に奉仕する値打ちは無いよ?思わずそう言いかけた。そして突然静に対する怒りが湧いてきた。理不尽?否、そんなことはない。断じてない。あの狸娘にはこんなにも健気に俺に尽くそうとする、猫と狐たちの心情などおよそ分かるまい。
一昨日、平成27年4月29日の15時30分過ぎに、俺の携帯電話に1通の電子メールが送信されてきた。鉄道貨物輸送公社から、龍華貨物駅に輸送依頼の有ったあなたの自家用車が到着したので、引き取りに来て欲しいとあった。どういう訳か尋ねると、静が全部自分が手配したと得意げに話し出す。おまけに当地に不案内だろうから自分が引率する、全部任せてくださいなどと鼻高々に宣う。本当に引率するなどと宣ったのだ。
地下鉄で森ノ宮駅か玉造駅まで乗ってから、大阪環状線で天王寺駅に行き、関西本線に乗り換えて久宝寺駅で降りれば良いと返したら、鯉の様に口をパクパクさせて、
「少佐殿って鉄道オタクですか?普通の女性は龍華貨物駅の最寄り駅なんて知りませんよ!」
とこちらを指差し悲鳴の如く述べるので、正体がばれたかと冷や汗が出る思いだった。
ではどう引率するのかと問うと、地下鉄に乗ったら蒲生4丁目駅で今里筋線に乗り換えて、鴫野駅で降りてから大阪城東線の奈良行き電車に乗り換えれば良いと言う。
「こうすれば京橋方面に一旦出る必要無いですよ。つまり天王寺駅でごった返す人混みの中を歩く必要が有りませんからね。どうですか?私のプレゼン。完璧でしょう?」
悦にいる静に反論するのも面倒だったので、意のままにさせることにした。しかし巴はそうするつもりは無いようで、
「おのれの方がよっぽど鉄道オタクやんけ!」
と噛みつき、しばし口喧嘩になった。
貨物駅の指定された場所に行ってみると、待ち受けてたのは俺の愛車。WRCブルーのインプレッサスポーツワゴン。そう、俺の愛車。この世界に有るはずないだろ!思わず声に出る所だった。でも、良く見るとナンバープレートが違う。何て読むんだこれ?愛?次の字は?両方ともかなり特殊な字体だぞ?首を捻ること約5秒。「愛知」のはずはないから「愛媛」だ!そうに違いない!係員と傷が無いか一緒にチェックした後、差し出してきた書類には「愛媛53・む・1628」と記入してあったから、間違いない。やった!ちょっとしたクイズに正解したような気分だ。
「これ、愛媛県教育委員会に勤務していらした時に購入したやつですよね?ほんの1日や2日で劇的に変化しませんよ?この車に身の回りの物を満載して、愛媛県から東京まで運転して帰ってきた、そんな相棒にも等しい存在でしょう?間違えるはずもないでしょう?」
静は何故こんなにも人を煽るような物言いなのか?本当に癪に障る。官舎への帰路もそうだ。高速道路の下を通れば帰りつくだろうと読んで走り出したら、
「高速道路代ケチるんですか?」
などと失礼千万な言い草。スーパーを見つけて買い物をするや、甘いものをカートにごく自然に放り込み、
「まさか可愛い部下に甘いものをご馳走するのが嫌だなんて、そんな料簡の狭いこと言いませんよね?」
ときた。
そんな泥船に乗せて沈めてやりたい部下と違って、純粋に俺の事を思う猫と狐。何故こうも違うのか?メイドロボットとしての奉仕の精神が、人工知能に刻み込まれているから?それが新型には無い?
最も、そんなことを考えても仕方ない。今はじゃんけん大会の模様を音に聞きながら、「六塚冬実」の個人情報に該当するものをパソコンから取り出すだけだ。俺の平成27年5月1日はそんな締めくくり方で良いや。




