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俺って誰?

「松本君、君さあ、俺と一緒に年度末で辞めようよ、ね?」

部長がごく自然に切り出す。

「知っての通り、俺は年度末で定年退職なんだよね。ま、当然後任者への引き継ぎ書はきっちり作成するよ。その中には君の現状についても書くけどさあ、それはそれとして、君の方から後任者へ一から説明は必要だよね?残るつもりなら、そうなるよ?」

そして課長へと話を振る。

「君が病気と闘いながら勤務を続けてきたことは知っているし、大変だということがさ、僕らはちゃんと分かっているよ。ただそれはそれとして、君自身の目で君の勤務表を着て欲しいんだ。ほら」

見るも無残な勤務状況。数字は酷薄だ。現実をまざまざと見せつける。

「ねえ、どう思う?君が最初に病休を取ってから今月で87月経過しているわけだけれども、その間に君がちゃんと出勤できた日数って累計して32月分なんだよね。休職と復職の繰り返し。何度同じ状況になっているか、自分自身で確認してごらん。度重なる遅刻。それに連絡が遅れて無断欠勤状態になったことも、一度や二度じゃないよね?」

重苦しい空気に満ちる中、断罪にも似た非難の言葉は、残念ながら続いてゆく。

「もう定員の増える余地なんか無いんだよ、君も知っての通り。だから分かるだろう?育児休業じゃないわけだから。代替職員を期限付きで採用するってわけにはいかないだろう?業務は増えることはあっても減ることは無いから、君の代わりに誰かを席に就けさせたいわけだよ。こちらとしてはね。こんな勤務状況の職員を抱えている余裕は無いんだよ」

まあまあ、と部長は言い、判決文の読み上げにも等しい言葉を遮る。

「まあ、今課長がきついことを言ったのはさあ、君の度重なるミスのせいだろう。そうだろう?今は内輪のことで済んでいるから、俺なんかが事態の収拾に回れば済むことだけど、今後もそんなことを続けるわけにはいかないよね?当然、勤務評定にはそこら辺を反映せざるを得ないしね」

そして、ちょっと苦笑した後で言葉を繋げる。

「それにしても松本君、君、メモ帳を肌身離さず持っていても記入したことを忘れるようじゃ、意味が無いよ」

そして、もう一度笑い真剣な顔になる。

「ただね、そんな状態になってしまっているのは、本当に気の毒だと思うよ。本当に気の毒だよ。これは本当だよ。本当に気の毒だ。記憶が飛んでしまうなんてね。やっぱり働きながらじゃ病気は良くならないよ。一旦退職して療養に専念する必要があると思うよ、俺は。この先の長い人生のことを考えたらね。無理を続けるのは良くないよ」

ほんのちょっとだけなのか、或いは10分以上かもしれない沈黙が流れる。それを破ったのは課長で謝罪の意を表明してきた。

「うん、少し言い過ぎたのかもしれないね。すまなかった。うん、感情的になってしまっていたね。そんなつもりはなかったんだよ。ただね、理解はして欲しかった。それで言葉が過ぎてしまったと思う。悪かった」

課長は頭を下げてきた。この人はいつもこんな感じだ。

「メンタルヘルス対策については、僕も部長も当然研修を受けているけれど、やはり実感が湧かなかったのかもしれないね。君をどこまで上手くサポートできたかと言うと、内心忸怩たるものが有るけれども、まあ、それはとにかく、色々忘れてしまうことの対策としてメモ帳を持つよう指示したけれど、残念ながら功を奏さなかったわけだよね。やっぱり、部長が言うように限界なんじゃないかな?僕としては、君の病気がこれ以上悪化したらどうなるかと言うことが、凄く心配なんだよね。色々言って悪かったけれど、君も僕らの仲間だとは思っているよ。だからこそ、このまま勤務を続けて行って精神的にきつくなってしまってだ、追い詰められるようなことがあって、症状が悪化したらどうなる?そんなことが起きたらそれは、決して君の人生にプラスにはならないからね」

部長が言葉を繋げる。

「まあ、そういう事だね。君、まだ40かそこらだろ?さっきも言ったけれど、これからまだまだ人生は続いてゆくんだ。あきらめちゃ駄目だ。また仕事が出来るような状態になるためには、一旦立ち止まって、休まなきゃ。そうしなきゃ駄目だよ」

その上で課長と共に手元の資料を見て、何か二言三言確認した後、部長の締めの言葉が刃の如く飛んできた。

「今、障害共済年金3級を受給しているだろ?ドクターに診断書書いてもらいなさい。ね?事後重症ってことでさあ、障害共済年金2級ってことになるよ。2級ってことになればさあ、障害基礎年金が加算されるから、何とか生活が出来ないわけじゃないよ。確か官舎に住んでいたよね?当然出て行ってもらうことになるけど、実家に戻ればどうにかなるさ。大丈夫だよ。ドクターに相談して現状をきちんと説明すれば、診断書書いてくれるよ。だからさあ、俺と一緒に年度末で退職して療養に専念しよう。ね?俺とは違って君はまだ若い。人生先は長いんだよ。しっかり休んで再起を図る。それが君のためだよ」

この辺で意識は覚醒している。しかし、起きられない。起き上がれない。ずっと眠り続けたいという深層心理の表れなのか。ぼんやりと自分を起こそうとする声は聞こえていたが、なかなか瞼を開けられない。後頭部がズキズキと痛みを伝えてくる。渇きが急速に押し寄せてくる。起きて水を飲まなければ。自分を呼んでいる声がするなら、それに答えなければ。眠い目をこすりながら、ゆっくりと身を起こす。少し涙がにじんでいる。

「あ、起きてくれはった」

ほっとした顔の巴がベッドの横に佇んでいた。微笑みと共に。

「疲れ取れました?」

と尋ねてきた。大丈夫だ。いつも起きて暫くはボーっとしているが、いつの間にか意識がはっきりする。何だか真空管のようだ。ベッドサイドで靴を履き終えると、巴はごく自然に上着を着せてきた。

「ありがとう」

と言いつつ、何だか新婚夫婦のようだと思う。何せ巴は満面の笑みを浮かべているのだから。この笑顔のためなら、このままこの世界で女性のまま生きることになっても、悔いは無いと思った。

「取りあえずさっきの会議室へ戻りましょう。荷物はあっちに置いてありますよって」

巴がそう言うので会議室へ戻ると、

「やっと起きて頂けましたか。それでは、早速ブリーフィングを再開してから、大阪へ移動しましょう。まだ出発までは余裕は有りますが、急いでいただきたいです」

待ち構えていた静が声をかけてきた。

「おい、この狸娘!何言うとんねん、自分!少佐殿はお疲れなんやから、急かすような真似せんでもええやろ!」

静は心底呆れたという感情丸出しの、ある種蔑みの眼差しで巴を見ている。眼鏡の位置を直しながら、

「何というか、准尉殿は既に副官気取りなんですね。先に名前を付けてもらって良かったですね。早速少佐殿に寄り添われて大変結構ですけど、それよりやるべきことをして頂かねば」

と言い放つ様はいささか底冷えのするものだ。

「何やと!それのどこが悪いんじゃ、この狸娘!」

はあ、と静はため息をつく。

「狸だの狐だの、いちいち人を捕まえて変てこなあだ名付けるのは、止めにしませんか?と言うかお互いに命名して頂いたでしょう?」

心底うんざりしたという表情を見せる静に、巴は畳み掛ける。

「やかましい!己は狸面ぶら下げとるやないか!大体なあ、研究所のお偉いさんが狸娘言うてるんや!それに準拠して何が悪い!ボケナスっ!」

静はまた固まってしまった。公式にそう呼ばれていたとは、それはそれでなかなかきついものが有る。仲が悪いからではなかったというのは。

「な、何というか研究所の技官の方々の中には、ユーモアのセンスがある方がいらっしゃるのですね・・・でも、私は狸じゃないです。それだけは、はっきりと申し上げておきますよ?いいですね?」

静は眼鏡のフレームを摘まんだまま動揺した声を発っする。その答えに巴はゲラゲラと笑う。

「ほんまやわ。と言いたいとこやけど、見たまま言わはっただけやで。まあ、大阪着いたら尻尾の生えたほんまもんの子狸が、ようさん自分が来るのを首を長ごうして待ち構えてるで。ちゃんと面倒みたれよ?」

静の顔は怒りのせいか、恥ずかしさのせいか、朱を差したまま。巴に対して憎しみを持って睨みつけていた。両拳を固く握りしめて。

「ええ。そうなるでしょうね。何匹かの子狸ちゃんは、私が面倒みることになるでしょうね。下士官ですから兵どもの面倒はみないとね。ですけど、准尉殿は?一番中途半端な立場じゃないですか?私如きに構っている場合ですか?副官は貴女じゃありませんよ。貴女が勝手に立候補しないで下さい」

「何言うとんねん。ウチは大隊司令部配属で決定済みや。ウチはいつでも少佐殿の傍らにいてるで。自分はお外で頑張ってや」

静は相当驚いたようだ。いくらか自信を失ったのか少し俯いている。

「そんなわけないです!二神大尉が副官として少佐殿を支える。そうなっているはずです!」

「あの人は第一中隊長や。ま、実質そうなんかも知らんけど。けど傍らにいてるのはウチやで?」

親指で自身を指し示し、ウインクまでして得意げだ。

「むう、だからって物理的に傍にいるだけでしょ?貴女には特に権限は無いはずです!」

「羨ましいんやったら、素直にそう言えや」

「確かに羨ましいです。と言うか卑怯ですよ。誰を丸め込んだんですか?」

又も膨れっ面。だが眼鏡のフレームを摘まんで位置を直すや、

「そんなことはさておき、することはしておかないと」

「何やねんそれ?」

静はため息をつき、呆れかえったと言わんばかりの表情で巴を見る。

「リスケするの大変だったんですよ?切符の変更も少々面倒でしたし。誰かさんのせいでばっちり当初の予定が狂ったので」

「何やねん、あほくさ!副官希望するんやったら、それくらいでガチャガチャ言うな!」

「ちょっとぐらい手伝ってくれたって良いでしょう?少佐殿が起きてくるまで何もしないって、勝手に決めちゃって!」

「ええやんけ。待機せなあかんこともあるやろ?カリカリすんな」

むっとする二人。緊迫した空気が漂っている。

「女とスケベすることしか頭に無い連中の相手すんのが、自分の任務なんやからな。分かってんのか自分。退屈やなあって、そんなふりしてスマホ弄らなあかん。そんなこともあるやろ。リアルを追求せいや。こんなんも練習の内やで?」

「仕事サボるのが何の練習になるんですか!」

「うるさいやっちゃな。ウチらの隊はまだ正式には発足してないんやで?少々のことはかまへんやろ」

「もう、何ですか率先してサボりなんて・・・。まだレクチャーしなきゃならないこと、たくさん残ってますよ?どうするつもりですか?」

「そんなん別に夕食食べてもろうてる間に言うてもうたらええやんけ」

「何を言ってるんですか!時間足りませんよ!」

「どうせ大阪行ったら誰かがするやろそんなもん。それこそ二神大尉あたりが」

「あ!やっぱり二神大尉が副官なんじゃないですか!」

「アホ!話蒸し返すなや!」

「うっさい!旧型のデカ女!」

「何やねん!新型やから偉いって、そういう事か!」

「当然でしょ!」

いつ口を挟むか図りあぐねる。女同士の舌戦(本人たちの自己申告によれば、軍人ロボット同士の)にどうすれば良いのか全く分からない。こちらが針の筵に座らされているようだ。それにしても静の話し方って何かカチンとくるところがあるような・・・。

俺もあんな感じなのだろうな。ああいう甲高い声で理屈っぽいところが似ている気がしないでもない。

 でも、そういう態度で腕を組んでいるのは、可愛い女子高生とした思えない美少女なのだ。その娘が軍服着用で、メイド姿のスーパーモデルと睨み合っているのはとても滑稽で、全く笑えない。

 ええい、ままよ。上官の俺には逆らうまい。これ以上女同士?の意地の張り合いに付き合わされてたまるか。さっさっとやめさせよう。

「何時の新幹線に乗るの?」

うわ、声が上ずった。それに、そうじゃないだろ。ポカンとした顔でこちらを見た二人。しまった。やばい!この世界新幹線無いのか?嘘だろう?冷や汗が出てくるような気がする。雑談から怪しいと思われる。これもある意味致命的だ。もう少し気を付けるべきだった。

「いいえ、今夜の夜行列車ですよ。新宿駅22時30分発の『浪速5号』で大阪へ向かいます。本当なら、新幹線を使って夜半に到着というスケジュールを組んでいたんですけどね」

そのむすっとした静の答えに、巴は猛然と噛みつく。

「自分、何考えとんねん。まだ定時過ぎたことやないかい!夕飯ゆっくり食べてもろうても、十分時間余るやないかい!アホ!」

静も負けていない。

「リスケしたと言ったでしょ!のんびりしている場合ですか!」

いい加減頭にきた。女の子が、それも俺好みの凄すぎる美人と高校生の頃に出会えてたら毎日楽しかっただろうなあという、可愛い美少女が顔を歪めて罵り合うなんぞ、見たくもないし聞きたくもない。

「ちょっと!いつまで喧嘩をしているつもり!いいから黙って!」

場がたちまち静まり返り身震いしてしまった。まずい!やっちまった!言い過ぎだ!

「申し訳ありませんでした!少佐殿!」

45度の角度で礼をし、謝罪する静の姿を見て、猛烈に後悔の念が押し寄せ、

「すんまへん、すんまへん。全部アホの狸娘のせいです。堪忍してください」

コメツキバッタの如く頭を下げる巴の姿を見て、そう言えば夜汽車なんて乗るのは久しぶりだな。学生時代は良く乗ったものだったなどと、頓珍漢なことを思ってしまう。最後に乗ったのは、「サンライズ瀬戸」の上りだったな。朝も早よから東京方面へ向かうサラリーマンの列を見ながら、悠然と通過していくのは何だか優越感を感じたなあ。そんなことを考えながらも、言葉は一応出てくるから不思議なものだ。

「ごめんなさい。そんなつもりじゃないのよ。大きな声を出されると頭痛がするから、もう少し静かに話して欲しいだけなのよ」

そう謝ると凛とした声が返って来た。

「了解であります。今後、准尉殿との会話につきましては、電波通信に切り替えます」

敬礼しながらそう述べる静。電波通信?

「はっ、それにつきましては、文字通りであります。相互に連携を取るために電波を送受信できる機能が付いているのであります。今後准尉殿との不快な会話内容をお聞かせしないよう、そのように取り計らうよう努力します」

静の発言に巴は、

「今更何言うとんねん、自分。それなら最初からそうせんかい、アホ」

かなり呆れたようだ。しかし、静は静はでそんな巴に舌を出す。

 全く困ったものだ。どっちの味方もしづらいし冷戦状態を見守るしかないのか・・・。それにしても喉が渇いてしょうがない。おまけにトイレにも行きたい。よし、この隙にトイレの中で携帯電話なり、財布の中身をチェックしてしまおう。おそらくこのハンドバッグが所持品だろうと思われる、それが机の上に無造作に置かれていた。あれを持って行ってしばらくトイレに籠城だ。女性だから、持ち物はハンドバッグに大体詰め込んであるよなあ。上着の中に入っているものは、ハンカチとティッシュくらいだろう。

 御手洗いに行ってくるから、ここで待っているように。そう言い残し、給湯室で喉を潤してから女性用トイレに駆け込む。俺、今こんな顔をしているのか。洗面所の鏡に映った顔は、三十路で少々生意気そうな、やや釣り目の女性。肩にかかる長さの綺麗な栗色の髪は、恐らく染めたものではない。蒼い瞳からしてもハーフなのだろう。何というか、静が「狸娘」ならこちらは「女狐」。そんな印象だ。

 靴はローファーなのに男だった頃と目線が変わらない。だから少しかがんで鏡を見る。化粧はしていないようだ。多分。「違いの分からない男」なので、本当のところは分からない。

 少し眼鏡をずらしてみると忽ち視界がぼやける。元の俺と同じくかなりの近眼だ。ぼやける顔がはっきりと見えるまで鏡に近づいてみたが、眼鏡をかけている方が何故か様になっているような気がする。

 それはさておき個室内に籠る。まずは下着を下ろしながら腰かけて、小用を足してから始めよう。ああ、これが女性の感覚なのか。いや、感心している場合じゃないな。早速所持品検査だ。まずは財布にしようか、それとも携帯電話か。まあ、どちらでも良い。ハンドバッグの中から先に目についた方にしよう。

 小用を足し終わって下着を履いてから、ハンドバッグのファスナーを開けて中を見ると、長財布が目に留まった。開けてみるとクレジットカードらしきものが。ゴールドカードか。名前はなんと印字されているかな?「FUYUMI・MUTSUKA」となっている。よし!これで名前が分かった!良いぞ!裏面にきちんと署名してあるかな?そうすれば漢字も分かるぞ。裏面にひっくり返してみると、綺麗な書体で「六塚冬実」と署名してあった。おいおい、俺、こんな綺麗な字書けないぞ!筆跡鑑定なんてするわけないから、そう簡単に六塚冬実の中身が別人のおっさんなんて分かるわけないけれど、そうは言っても何だかやばいなあ。どうしよう。「官吏軍人恩給組合」と印字されているのを見つけ、さっき巴が、自分たちは軍部と共同開発されたと話していたのを思い出した。少なくとも「自衛隊」じゃないな。下の方に長ったらしい番号が。電子マネーのものだろうか?

 クレジットカードはもう一枚あったが、お次は身分証明書だろう。運転免許証なり、職員証なりが財布の中の何処かに有るはず。見つけて取り出してみたそれには「社会保障番号兼納税者番号証」と表示されている。貼付されている写真は紛れもなくさっき鏡に映ったもの。その写真の横に番号が表示されている。この番号だ!この番号で行政手続きを円滑にしようってやつだ。きっちり暗記しておかないと。現住所は、「東京府東京市目黒区駒場2丁目駒場合同宿舎12号棟3階321号室」か。届出書に、前住所地ってことで書く機会があるだろうから、これも覚えておかないと。

 何てこった!生年月日は「昭和59年2月29日」だって!11歳も若返っているじゃないか!多少若くなっているとは思っていたが、数字ではっきり突きつけられると物凄くショックだ。

 同期で一番若かったのが当時18歳の女の子で、昭和59年生まれだった。そんな昔のことを思い出してしまう。何故か涙が出てきた。その時自分は28歳だったからか?しかも6月になれば29歳だったから?それに引け目を感じていたから?いや、そんな感傷に浸っている場合かよ!目をこすりハンカチで涙を拭う。ついでと言わんばかりに出てきた鼻水も拭いて、平静な状態を取り戻すのにそれなりに時間を食ってしまった。財布の中身ぐらい全部調べたいし、携帯電話もチェックしたい。だけど、そんなに長くトイレに籠れるはずもない。そろそろ戻らなきゃ。

 トイレを出て歩きながらハンドバッグの中をまさぐってみる。携帯電話で今日の日付と現在の時刻くらいは確認しないと。有った。従来型の折りたたみ式だ。良かった。テンキー入力じゃないと使いづらいからな。さて、今日の日付と時刻はと、会議室の扉を開けながら確認した。平成27年4月28日。18時35分。なるほど。本来の俺は現時点で41歳。今の俺は31歳か。

「メールの確認をしておられたのですか、少佐殿?」

中に入るや静が声をかけてきた。

「ううん。時刻を確認していたの」

「腕時計をしておられるようですが?」

静は眼鏡のブリッジを押し、位置を修正した。あ、そう言えばそうだ。しまった!随分前から腕時計をしなくなっていたからな。少々面倒だがワイシャツのポケットから取り出せば済むことだったから。

「あ、いや、そのう、何ていうのかなあ、今日の日付をうん。後、後何曜日だったか度忘れしちゃって、あのう、あれよ、そのう、5月1日付けで大阪で仕事をすることになるわけでしょう?後何日だっかかなあって」

どういうわけか酷く動揺してしまって、自分でも訳が分からない答えをしてしまった。だから静は、嘲笑するような表情になったのだろう。

「別段慌てる必要はありませんよ、少佐殿。私が余裕を持った行動をお願いしたせいでしょうか?お話にしても行動にしても、もう少しゆっくりで結構ですよ?准尉殿のお名前をじっくり考える余裕があったわけですし」

ニヤニヤしながらそう言って、

「それにしても、今どきスマホをお持ちじゃなんですね」

くすりと笑った。

 ああ、そういう事か!可愛らしいお顔に誤魔化されてきたが、この慇懃無礼な態度!真面目な女子高生そのものと言える顔からこんな言葉が出てきたら、巴でなくてもイラッとするに決まっている。案の定そうだった。

「こらっ!鎌倉!何を嫌味たらしいことを言うとんねん!そろそろ夕飯の時間なんやから、そんな暇が有るんやったら今夜の夕飯、どこにするか探したらんかいや、おい!」

「え?それは、副官である貴女の仕事でしょう?」

また女の戦い勃発か?何故嫌味を述べる理由があるのか?というか、そんなことが出来る人工知能搭載なのか、この子は?

「このクソガキ、覚えとれよ!」

巴は静を睨みつけ、それでいながらこちらを振り返った時は、その綺麗な顔が一段と輝くような笑顔を振りまいている。感情?の起伏が激しいことだ。これもやっぱり、人工知能が計算しているのだろうか?

「夕飯どないしますう?和食ですか?それとも洋食?それ聞かずに探すのもなんでしょ?地下の職員用食堂で食べるのはちょっとね。どうですか?」

「そんな事より二人とも、私は揉め事は嫌いよ。御手洗いに行っている間に喧嘩していないでしょうね?」

「和食がええですか?それとも洋食?」

巴は同じ質問を繰り返す。

「う~ん、洋食かなあ。別に職員用食堂でも良いけれど」

そのせいか自然に声に出た。

「洋食でござんすね。ヘイ、かしこまり~」

どこからともなくタブレットを取り出し、何やら検索を始めたようだ。誤魔化されているのは分かっていたが、何となく追求するのはやめにした。

「こんなん、どないです?渋谷駅の近くで雰囲気良さげでっせ。口コミも評判ええみたいやし。予算も5千円以内でお手頃でしょう?」

やっぱり東京は何でも高いなあ。でもこんなものか。ん?ワインが自慢の店だって?

「せっかく探してくれたものを無下にはしたくないけれど、私、お酒飲めないから」

「えっ!そうなんでっか⁉」

驚く巴。そして次の瞬間その綺麗な顔が歪む。

「この狸娘!『副官気取っているくせに、少佐殿が服用されている薬が、全部アルコール類禁止だということをご存じないのですか?』やと!はんまに口の減らんやっちゃ!」

会議室の隅っこの方でそっぽを向いている静に掴みかからんばかりの勢いだ。

「やめなさい木曾川」

普通の声色のはずだが巴は飛び上がって縮こまった。

「あ、はい、すんまへん・・・」

その様を見て静はほくそ笑むので、こちらにも苦言を呈することに。

「鎌倉!何が面白いの?」

今度は静が姿勢を正して大隊長直々の指導に震え上がる番だった。

「電波通信で木曾川に何か言ったのね?いい加減二人ともいがみ合うのはやめなさい」

静は震えながら、

「も、申し訳ございません。少佐殿!」

と返答するのがやっとだった。

「本当にあなた達は仲が悪いわね。ついでに口も悪いし。どうして?」

二人とも相当気まずいのか、こちらから目を反らす。

「木曾川。質問に答えなさい」

「そのう、こいつに負けたくないです」

静を指差す。

「それで?何故喧嘩腰の対応になるのか?その答えになっていないわよ?もう少し上品な言葉遣いできるでしょう?それとも、あなたの人工知能ではそれが不可能なの?」

流石にそこまで言うと、巴は半べそをかいたような顔になった。

「すいません・・・。でもなんだか上手く説明できないですけど、こいつを蹴落としてでも少佐殿に気に入って頂きたいです・・・」

しおらしく、しょげている顔。さっきまでとは全然違う顔。物凄く興奮する。凄く「良い」のだ。抱きしめて、なでなでしてみたい。そう、叱られてしょげかえった大型犬みたいで可愛い。

「私が今言ったことへの答えになっていない。私が揉め事が嫌いと言ったことを無視しているの?標的の一つであるチンピラヤクザと同じような言動になるのは、そうとしかできないのかと聞いている。答えなさい」

しばしの沈黙。人工知能でも言葉を選ぶのだろうか?

「できないことは無いです。ただ、そのう、感情的な部分といいますか、う~ん面子ですかね。こいつに対してそんな対応できないと言いますか、新型だからって偉そうに突っかかってきやがるので、舐められたくないから、そうなりました。反省しています」

涙目になっている。凛々しい顔が悲しみに満ち、やや主張が強めの眉毛が垂れ下がっている。それだけにぞくぞくする。俺は「S」じゃないはずだが。

「分かった。次、鎌倉答えなさい。木曾川を小馬鹿にした対応をするのは何故か?」

静はむすっとしていた。尋問される謂れは無いと顔に書いてあるのはどうなのか?少し俯いて不服であることを隠そうともせず答える。

「いや、だって新型である私の方が性能上ですから。旧型、それも2世代前の型落ちにでかい面されるなんて納得いきません」

「それで?あなたは軍人ロボットよね?一階級上の木曾川に何故突っかかるの?」

ピクリと体が動いた。

「そ、それはですね、私が軍人ロボットの中心的役割を果たすべき存在だからです。軽んじられる謂れは無いです」

「つまり自分の方が上であり、尊重されるべきだと言う事?」

「はい」

ここで顔を上げる。自信に満ちた表情だ。自分は優等生で、だから劣等生と言うか不良に厳しい態度をとったことを咎められる謂れはありませんよ、先生。学級委員長にそう語り掛けられているようだ。

「でもそれがでかい面。木曾川にそう受けとられていた。そう思わない?もう一回言うけれど、木曾川が一階級上。あなたは一階級下なのよ?」

一瞬動揺し無言になった。

「部下が大きな顔をして突っかかってくる。それで喧嘩腰になるのは大人げないけれど、気持ちは理解できるでしょう?違う?」

またも無言。

「軍人は階級といつ任官したかによって上下が決まるわけでしょう?処罰されたいの?」

無言の行が続く。

「あなたもいずれ旧型になるのよ?」

そう言ってやると、大いにショックを受けたらしく、無言でぷるぷると震えている。そんなこと分かり切っているだろうけれど、現時点では認められないだろうなあ、それはそうだよ。

「反省すべき点は理解できたわね。以後協調して行動するように。いいわね?」

「了解であります。少佐殿!」

二人ともばしっと敬礼を決めてきた。そんなところはやっぱり「軍人」なのだろう。こちらも答礼をしておく。

「さてと、それじゃあ、さっきの説明会の続きをしてもらおうかな?色々あって説明が尻切れトンボみたいだったし、碌に質問できなかったから」

「そうですよね。准尉殿の説明、あまりにも下手糞でしたからね」

嬉しそうな静。自分が張り切って説明したいという願望があふれ出ていた。

「何やと!ウチの説明のどこが下手糞やねん!自分が要らんことを言うてくるから、あかんのやろ!」

巴が早速噛みつくので、バン!と右足で床を蹴ってやった。おかげで足が痛い。

「今言ったことをもう忘れたの?健忘症?メモリが不足しているの?」

一旦下を向き、おもむろに顔を上げじろりとそれぞれの顔を見る。気まずそうに眼を反らす二人にⅤサインを突き出してやった。

「二つ質問が有る」

中指を折る。

「一つ。『ゴジョウイカイゲン』って何?」

中指を戻す。

「二つ。その『環境整備』って何?」

さあて、どちらがどういう風に答えるか?

「二つまとめてお答えします」

静が答えると言う。

「畏れ多くも天皇陛下におかれましては、来る平成30年度末即ち平成31年3月31日をもちまして、皇太子殿下に対し奉り御位をお譲り遊ばされるとの由。これにより平成31年4月1日より皇太子殿下がご即位あらせられ、新元号による新時代の到来となります。これが即ち『御譲位改元』。その『環境整備』とは、それを寿ぐにふさわしからざる連中を出来うる限り『お掃除』する。つまり掃き清めて穢れを祓い、清浄なる新時代を陛下とお国へ捧げることであります」

ビシッと直立不動でそう述べる静。俺はしばらく唖然とした。

「ああ・・・そういう事・・・」

ようやく絞り出した声がそれ。思考が追い付かないのだ。

「譲位って・・・一体何時代の話?それこそ21世紀の感覚で話してくれないかなあ・・・」

巴のけたたましい笑い声が会議室中に響いた。何度も手を叩いている。バカ受けのようだ。静は巴を睨みつけたが、俺がじっと見ているのに気付いたせいか、薄ら笑いを浮かべながらこちらを見た。

「いえ、21世紀のお話なんです。今のところは予定ですが、4年後に御譲位は行われます。間違いありません」

巴が笑い終わるのを見計らって答える。俺が、

「そうなんだ」

と言うと、

「そうなんです」

と二人の息はピタリと合った。又しても睨み合う。それを無視して、

「根拠は?」

と問うと、

「複数の枢密院顧問官からもたらされた確かな情報です。本省はそれでてんやわんやです」

静は真剣な表情で答えた。

「枢密院議長が大御心は御譲位に有り。よろしく取り計らえとの下知をウチのお偉いさんに下したという噂を聞きました」

巴の答えはこうだった。

「ふうん、そうかそういうこと・・・」

俺は、分かったとも分からなかったとも言えず、少しの間天井を見ていた。ため息が出た。何というかすべてが夢の中の出来事のようだ。ふわふわとした現実味の無い言葉ばかりが行き交っているようにしか思えない。取りあえず、「お掃除」とやらで犯罪者というか破落戸どもを、片っ端からあの世へ送れば良いのだろう。それをメイドロボットだか軍人ロボットだか知らないが、俺が指揮官としてそいつらを使ってそうする。何となく絵図は見えてきた。そうと決まれば次にしなければならないことは、決まっている。

「あまりお腹が空いているわけじゃないけれど、夕食にする。地下の職員用食堂にするわよ」

ハンドバッグを肩に掛け会議室の扉を開けると、慌てて二人が追ってくる。

「何処へ行かはるんですか?まだ店を検索し終わってないですよ~」

巴の悲鳴にも等しい声を無視して廊下を進んでいると、静も追いすがり、

「少佐殿、まだ説明は全部終わってないですよ?もう質問は無いのですか?」

俺は少々イラッとしていた。

「地下の職員用食堂」とだけ答え歩を進める。エレベーターが来るのを待ちながらぼんやりと考える。大阪。ほぼ土地勘は無い。京都から大阪は割と遠い。学生の頃はその間の電車賃でさえ惜しかった。だから京都の町も自転車でどこへでも行ったものだ。そんなところで上手くやれるのか?俺自身の仕事の内容は?部下をどうやって動かす?動いてもらう?エレベーターの中でも考えていたから、多分口を半開きにしながら、ボーっとしていたのだと思う。



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