さようなら。大好きだった故郷
明確な悪意を持って飛んできた石が、額にぶつかり激痛を引き起こす。
熱いような痛みを感じ、額に触れてみると手のひらが血で真っ赤に染まった。
「この不吉な女め!お前がいるせいで領地がこんなことになっているんだ!」
領民からの罵声に耐えられず、アリヤは走り出した。
血が滴るのも無視して、ひたすら一人になれる場所まで走る。
一人になれたところで、アリヤは回復魔法を使用して額の傷を塞いだ。
同じような仕打ちには毎日遭うので、痛みにはなれた。このくらいの怪我なら造作もなく治せる。
領民のことは恨んでいない。なぜならば、非は自分にあるから。
アリヤはこの地で『災厄の魔女』と呼ばれていた。
彼女が誕生して以来、この地は不作が続き、魔物が大量発生するようになった。
生まれた頃は可愛がられていたものの、5歳になる頃に天才的なスピードで魔法が使えるようになると、領地の不幸は全てアリヤのせいだという噂が流れ始めた。
噂はすぐに広まり、生き地獄が始まったのはそれからだった。
皆がアリヤを憎み、実の両親や妹からも罵声を浴びせられる日々が続いた。
ご飯も碌に与えられず、暴力を振るわれることも多くなる。
それでも、アリヤはこの土地が好きだった。
毎日辛い目にあっても、自分の魔法の力でこの土地を豊かにしたいと心の底から思っていた。
その類まれなる魔法の才能を活かして、今日も瘴気を祓い、魔物を駆除してきた。
報われる日が来ると信じて。
その帰り道に石を投げつけられた。
災厄の魔女としての自覚があるアリヤは、彼らに反論もしないし、抵抗もしない。ああいう目にあったときは、ただ逃げるだけだ。
額の傷が塞がって、1人穏やかにときを過ごすアリヤの視線に、少年の姿が映る。
いつの間にか、近くに来ていたようだ。
「おねぇちゃん、災厄の魔女?」
「……ごめんね。そうだよ」
「みんなが意地悪してごめんね。僕の宝物を上げるから元気出して」
少年はそういって、ドングリで作ったブレスレットをアリヤに渡した。
「いいの?こんなに素敵なものを貰っても」
「うん。じゃあ僕行くね」
少年が手を振って、去って行く。
アリヤも手を振り返した。
久々に感じた人の暖かさだった。
やはり自分は故郷が好きだ。
今は嫌われていても、頑張って瘴気を祓い、魔物を駆除し続ければ、いつかみんなが自分を認めてくれるのではないかと信じてる。
それだけが心の支えとなり、頑張れる。
少年が去った後、アリヤを悲劇が襲う。
後ろから口を塞がれ、二人組の男に取り押さえられた。
「おいおい、いいのかよ!?災厄の魔女とはいえ、貴族の令嬢だぞ」
「馬鹿言え、俺たちが苦しんでるのはこいつのせいだぞ。人攫いしたって罰はあたらねーどころか、みんなから感謝されるってもんよ。顔のいい女だし、こりゃ高値で売れるぜ」
力強く抑えられていたが、アリヤの魔法を使えば二人を瞬殺することもできた。
しかし、アリヤは抵抗しなかった。
二人が人攫いだと判明したからだ。
一層のこと、この地から消えてしまおうと考えたことは幾度となくあった。
しかし、アリヤはこの土地が好きだったのだ。どうしようもなく好きで離れられずにいた。
これはいい機会だった。
人攫いに連れられて、どこか遠くの異国にでも行ってしまおう。
そこで野垂れ死にでもすればいいのだ。そうしたら、行った先の国にも迷惑がかからない。
自分は死んでしまった方が世の為になる。なにせ『災厄の魔女』なのだから。
「さようなら、大好きな故郷」
人さらいに殴られて意識を失う寸前、アリヤは消え入りそうな声で故郷に別れを告げた。
◇◇
意識を失っていたアリヤが目を覚ましたのは、二日後だった。
こんなに長く寝たのはいつ以来か。
人さらいに襲われ、木箱に入れられたものの、それが却って静かに休めることとなった。
外が騒がしいのが分かった。何やら揉めているのが、木箱の中からでも分かった。
しばらくすると、静けさが戻り、木箱を開ける音がした。
釘で頑丈に閉じられた木箱が強引に開けられた。
二日ぶりに眩しすぎる日差しを浴びる。
はっきりとあたりが見えるようになるまで、少しときを要した。
アリヤが明るさに慣れて、周りが見えるようになった頃、目の前に一人の青年が見えた。
こちらを見ている。太陽のように眩しく笑う青年だった。
「よう、俺はアレン。お前さん、人攫いに遭って不運だったな。けど、もう大丈夫だ。人攫いは全員捕まえた。すぐに故郷に帰してやるからな」
アリヤは返事をしなかった。
どこに売られるかと心配はしていたが、助けれることは予想外だった。
故郷はもう捨てた。今さら戻るつもりもない。
アレンの言葉にも一切に返事をしなかった。
人攫いに遭ったのはアリヤだけではなく、一帯は大勢の被害者が解放されていた。
眩しく笑っていたアレンの引き連れた軍隊が、人攫いたちを連行していく。
涙して感謝する者もいれば、アリヤのように黙り込む者もいた。
故郷に帰りたい者は帰して貰い、帰る場所のない者は教会で引き取って貰える事となった。
教会は港町にあった。
この土地は穀物が多く採れ、海産物もこの港から豊富に獲れる。
人々の生活は豊かで、気性も明るく、親切な人が多かった。
教会も同じで、人攫いに遭った被害者は、この国の民の優しさに触れて徐々に心を開いて自分の事情を話し始めた。
家に帰れない者はこの地に住むことを許され、安全だと理解してようやく家路につく者もいた。
その中で一人、アリヤだけはずっと黙り込んでいた。
差し出される食事や水にも一切手を出さず、教会の隅っこで座り込む日々。
日々やつれ、体力が失われる。
アリヤはこの地で死ぬつもりだったので、神父の持ってくる料理に一切口をつけなかった。
7日間なにも食べずにいた頃、限界が近くなっていると自分でも感じ始めていた。
ようやく死ねる、と思えた。
「お前さんだな、神父の言う問題児ってのは」
朦朧とした意識の中で、聞き覚えのある声がした。
顔を上げて見てみると、人攫いから助けてくれた男性で、たしかアレンという名前だったのも覚えている。
あの日と同じように、太陽のように眩しく笑う人だった。
「この国はトウモロコシがたくさん採れるんだ」
神父も同じようなことを言っていた。この港は立派な鯖が獲れるんです。とかそんな感じのことを。あまり興味がわかない。
「待ってろ。俺、得意料理があるんだ。直ぐに作ってやるからな」
何を出されても食べる気はしない。
ここで死ぬつもりだからだ。
神父さんにも良くして貰っているし、教会に来る人たちからも親切に声をかけられた。アレンも自分を気にかけてくれる。
だからこそ、自分は死ななければならない。『災厄の魔女』が生きていれば、この人たちに迷惑がかかる。自分にこれだけ良くしてくれた人たちが不幸になるなら、よろこんで死を選ぶつもりだ。
そうやって心を閉ざしていたアリヤだったが、目の前に運ばれた、信じられない程香ばしいものではっと意識を引っ張られた。
アレンが両手で抱えて持ってきたのは、皿に入った黄色い濃厚なスープだった。
トウモロコシの甘みがふんだんに香る素敵なスープが鼻腔をくすぐる。
「あっ」
不覚にも始めて声が漏れた。食べたいと思ってしまった。自分は死ななければならないのに。
「どうだ?俺は、剣以外には才能がないと思ってたんだが、コーンスープを作るのが実は凄く得意なんだ。どうだ?一口飲んでみてはくれないか?我が国自慢のトウモロコシを存分に使ったんだ」
「……死」
「ん?どうした?」
「死なせてください」
アレンは少しだけ悲しむ表情をした。
それでもすぐに笑って、またいつもの明るい表情に戻る。
「断る!俺はあんたに生きて欲しい」
「私が生きていると、皆さんが不幸になります。大事なトウモロコシも不作になります」
「馬鹿言え、我が国のトウモロコシがそんな簡単に不作になってたまるか!いいから飲んでも見ろ、うんめーぞ」
飲んでみてもいい気がした。それほどまでに魅力的なスープだった。
そうだ、これを飲んでから自分で命を断とう。そうすれば、アレンの好意を無下にしなくても済む。
不思議な力を持つコーンスープに手を伸ばす。
スプーンで一口掬い、口に運ぶ。火傷しないように、ある程度冷ましてくれていたみたいだ。
その気遣いも嬉しかったが、何よりもそのうまさに、次の瞬間には考えることを放棄していた。
周りを忘れ、過去も忘れ、死ぬことも忘れ、アリヤは無我夢中でスープを飲み干した。最後の一滴まで、皿を垂直に傾けて、全部飲み切った。
直後に、溢れてくる涙。自分でもわからない感情だった。止めようとしても、涙は一向に止まってくれない。
「名前はなんていうんだ?」
「……アリヤ」
泣きながらも自分の名前を口にすることが出来た。
「アリヤ、君を後悔させない。絶対に後悔させないから、生きてはくれまいか。死なせてくれなんて、そんな悲しいことを言うな。この国では誰もが幸せに生きられるように、皆が必死に考え、行動しているのだ。君も幸せになる権利がある」
アレンの言葉に、アリヤは更に泣いた。
どこからこれほどの水分が出るのかというくらい泣きに泣いた。
もう少しだけ、生きてみたいと思った。
そして、アリヤは口を開く。自分の意志を持って、言葉を発した。
「コーンスープをもっと下さい。全然、足りません」
「あはっ!よし、きた!」
アレンが今日一番の笑顔で笑った。アリヤも少しだけ釣られて笑う。
思えば、人前で笑ったのは数年ぶりだった。たった一杯のスープで、心まで温まる気がした。
◇◇
コーンスープを食べた日から、アリヤはみるみると元気を取り戻し、教会で働くようになった。
清掃や料理、他にも教会にあるあらゆる仕事をこなす。誰もが嫌がる仕事も、率先して行う。
近所の人が困っていれば、進んで手を差し伸べ、気づけば街にも徐々に馴染んでいった。
そんな姿を見ているうちに、街の人々は皆アリヤが好きになった。
可憐な少女が、毎日健気に働くその姿が、いつしかこの港街の心を掴んでしまった。
アレンも定期的に教会に通う用になっていた。
彼が来る度にアリヤがコーンスープをねだるので、いつしか大量のトウモロコシを背負って来るようになった。
短い付き合いだが、アレンが身分ある人だというのが分かる。
皆が彼に敬意を払うからだ。気さくな性格だから教会に来る人たち仲良くしているが、彼はやはりどこか周りと違うものを持っている気がした。
アレンが王族だと判明したのは、30回目のコーンスープをご馳走になった時だった。
何気ない会話で王族だと判明し、アリヤは驚いた。
彼が国を代表する人物なら、はやめに自分が災厄の魔女だと名乗り出なければならない。
何度となく名乗り出ようとしたが、その度に勇気が出なかった。白状したら、アレンから嫌われるかもしれないという恐怖があったからだ。
幸いにも、この国にはまだ何も悪いことが起きていない。ずるいと分かりながらも、それまでは黙っていようと思った。少しでもこの幸せが長く続くようにと、日々怯えていた。
50回目のコーンスープをご馳走になる頃、アレンが嬉しそうに誘いをかけてきた。
「アリヤ、もうすっかりこの街の人間だな。いつも元気に働いてくれているようだし。もし良かったら、俺と街に遊びに行かないか?なにか欲しいものを買ってやる」
アレンがなぜ自分にこれだけ優しいのかわからなかった。不思議な人だ。でも、アレンのことは嫌いじゃない。むしろとても大切だ。神父さんも大事な人、街の人たちも大好きだ、でもそれ以上にアレンのことは……。
「コーンスープ」
「ははっ、それはいつだって作ってやる。ほら、他に欲しいものだ。宝石とか、ドレスとか、何かないか?」
「……コーンスープ」
「あっははは!了解した。アリヤがもう食べたくないって言うまで、俺はずっとコーンスープを作る。ずっとだ。お前と俺が生きている間、ずっと、ずっと」
遠回しのアレンなりの好意の伝え方だったが、残念ながらアリヤには伝わらなかった。
100回目のコーンスープを御馳走になる頃、二人は一緒に出掛けることが増えていた。
今日も一緒に馬に乗り、森へと狩りに出かけていた。
バッグにはトウモロコシと、簡単な調理器具が入っている。いつでもコーンスープが作れるようにと。
「どうだ?俺の弓の腕は」
「上手です」
素直にそう思った。
「まだまだ鳥を落とせるが、食べる分以外は必要ないだろう」
彼のこういうところが、アリヤはたまらなく好きになっていた。
できればずっと一緒にいたいという願望が溢れてくる。
それが叶わぬ願いと知りながら。
狩りの帰り道、森で大型の魔物に襲われる領民と出くわした。
アレンはわが身の危うさを顧みることなく、助けに入った。
矢を何度となく射るが、魔物の皮膚を貫通できない。
魔物がターゲットをアレンに切り替え、獰猛な牙がアレンを襲った。
領民を守るために立ちふさがったアレンが魔物の牙で血を流す。
その瞬間、アリヤが激高した。
人生で感じたことのない怒りだった。
隠そうとしていた魔女の力。そんなもの、アレンが傷つくくらいならばれてしまってもいいと思った。
あふれ出る魔力で魔物の気を引きつける。
いっきに近づき、アリヤが触れた瞬間、魔物が光の粒子となって消えていった。
領民も、アレンも、奇跡を見たような気持になった。
「アリヤ……君は」
「ごめんなさい」
自然と涙が流れた。もう、幸せなときが終るのだと、そう思ったから。
隠していた魔女の力で領民を治療し、アレンも治療した。
領民を見送り、二人は静かに教会へと戻る。その間、二人の間に会話はなかった。アレンが何を思っているかと考えると、怖くて口が開けなかった。
神父さんとアレンを目の前にし、もっともお世話になったこの二人にいつまでも嘘をつけないと悟った。
今日のことも含めて全て説明する。
自分は災厄の魔女だということ。
実は魔法を使えること。
自分がいる土地は不幸になってしまうこと。
だから死のうとしていたこと。
今まで黙っていて申し訳なかったこと。
でも、ここが大好きで、嫌われるのが怖くてずっと黙っていたこと。
心のうちを全てさらけ出した。
ここに来て初めて、何も隠すことなく本心から全てを話した。
気づけば大粒の涙が出ていた。これから訪れるだろう別れを、今の自分が耐えられるだろうか。暖かさを知った自分が、また一人になれるだろうか。
しかし、アレンは離れなかった。
むしろ限りなく近づき、アリヤを抱きしめる。
アリヤの心の内を知り、その孤独を味わい、その苦しみを噛みしめ、その大きな愛情を知った。
今まで最後部分の壁を取り払ってくれない気がしていたが、ようやく今それを乗り越えられた気がした。
泣きじゃくるアリヤを抱きしめ、いつも笑ってばかりのアレスも共に泣いた。
二人して、その場で長いこと泣き続けた。
「アリヤ、俺はお前を放したりしない。もうお前なしの人生なんて想像がつかないんだ」
「でも、あなたを、この国を不幸にしたくない」
「君がいないことの方がよっぽど不幸だ。約束しただろ、ずっとこの先も、俺のコーンスープを飲んでくれるって」
「……うん。飲む。飲みたい。あなたと、共に」
二人が愛を誓い合った日、神父も大粒の涙を流していたので、大事な話を次の日に持ち越した。
しかし、急ぎの話でもあったので朝から二人を呼び出す。
「彼の国の恐ろしい過ちを正したいと思いまして。ああ、なんとも愚かなことです」
神父の話は、衝撃の真実だった。
歴史を紐解くと、瘴気に覆われ、魔物が大量発生し、不作が続く土地というのはいくつか例がある。
その度に、その土地では英雄が誕生するのだ。
そういった者は勇者や賢者、聖女という名で呼ばれてきた。
人々は英雄と共に困難を乗り越え、訪れた危機を乗り越えてきた。
つまり、災厄に見舞われた土地だから、アリヤが誕生したのだ。
アリヤが誕生したから、あの土地に災厄が起きた訳ではない。
「なんと嘆かわしい。聖女様を災厄の魔女として迫害するなど。唯一の救いである聖女様を手放した今、その地は永遠に救われることはないでしょう」
神父の話は歴史書にも記されており、信憑性の高い情報だった。
実際、アリヤが保護されているアンダル王国に不幸は訪れていない。
むしろ、今年は例を見ない程に豊作で、港町も多くの魚が獲れた。
「アンダル王国に良いことが続いているのは、聖女様の恵みでしょう。ああ、ありがたや。アリヤ様、よくぞ我らの愛すべき国に来てくださいました」
神父様は跪いて感謝した。
感謝したいのはアリヤの方だった。自分こそ世話になりっぱなしで、命まで救われた。
しかも、知りようのなかった真実まで教えてもらうことが出来た。
アレンを見つめて、また涙が零れた。
「なら、私は生きていてもいいのでしょうか?」
「ずっとそう言っている」
「あなたのそばに置いてくれますか?」
「だからずっとそう言っている。聖女様と分かった今、国王も結婚を許してくれるだろう。むしろ皆から歓迎されるはずだ」
アレンが今一度、膝をついてアリヤを見つめる。
「俺はアレン・アンダル。この国の王太子にして、いずれ国王となる身だ。聖女アリヤ、君に正式に結婚を申し込む。未来の皇后になる気はあるか?」
「……もちろんです」
二人は抱きしめあった。二人を阻むものはもう何もない。
コーンスープと共に始まる輝かしい日々が繰り返されるだろう。
◇◇
3年経ち、アリヤがすっかりとアンダル王国の象徴となった頃、アレンに一つ相談事をした。
「あなたが正式に国王になる前に、一度故郷に帰らせてはいただけませんか?」
今のアリヤは3年前のようなみすぼらしい姿でもなく、やせ細ってもいない。
綺麗な黄金の髪の毛が艶めいて、大きなルビー色の瞳も希望に満ちている。
幸せに包まれた表情をし、人々の愛情に恵まれた生活を謳歌していた。
その存在を豊穣の女神に喩える国民も多いという。
アリヤが国民を必要とし、国民がアリヤを必要としていた。そんな生活を捨ててまで、故郷に戻りたいと言う。
「なぜだ。あんな場所に君を1秒たりとも居させたくない」
アリヤが受けてきた仕打ちを知っているだけに、簡単には承諾できない。
「私はやはり故郷に思い入れがあるのです。やはり聖女の血筋故かもしれません」
かつて、英雄が故郷を離れた例はないらしい。歴史書にも記されていない。
血が呪縛となって気持ちを縛っている可能性はあると、神父も述べたことがあった。
「瘴気を払い、魔物を駆除してきます。私が戻れば、あの土地も少しは豊かになるかもしれません」
「しかし!」
「お願いです。アレン様。最愛の人」
「……決心は固いようだな。必ず戻ってくるんだぞ。俺はずっとお前のためにコーンスープを作って待っている」
「はい、必ず」
心の底から誓った。
故郷でやりたいことをやったら、必ずアレンの元に戻ると。
アリヤは家族や領民の誤解を解きたかった。
自分は災厄の魔女ではなく、聖女なのだと。
それを理解してもらえれば、きっとアンダル王国と同じように皆に愛して貰えると。
希望を胸に抱き、3年ぶりに故郷へと帰った。
少し寂れた気もしたが、それほど変わらない故郷の風景だった。
以前、アレンに故郷の素晴らしさを語ったとき、土地の話ししかしないなと言われた。
ドキリとしたその指摘を、今ようやく覆すチャンスが訪れた。
3年ぶりの実家も、ほとんど変わりがなかった。
まるで別人のように美しくなったアリヤを見たとき、父親は気づくのに数秒を要した。
母親も、妹もすぐには気づかなかった。
「何をしに戻った!?」
死んだと思っていたアリヤが戻ってきた。
父の表情は醜く歪んだ。
この3年間味わっていなかった冷たく鋭い感情が胸に刺さる。
アリヤは必死に弁明した。
アンダル王国での出来事を。
自分が災厄の魔女出はなく聖女だと言うこと。
この地に聖女の力が必要なことを。丁寧に根気強く。
返答は、投げつけられたガラスのコップだった。
顔のそばを通過し、後ろの壁に当たって砕けた。鋭い破片が飛び散る。
「消えろ!化け物が!」
「そうよ、なんでまた戻ってきたの!?」
「消えてよ。あなたがいると婚約相手に縁を切られるわ」
家族の中で、誰も味方などいなかった。
故郷への気持ちが冷えていくのを感じた。
屋敷から追い出され、罵声を浴びせられる。この地を去るようにと何度も念を押された。
そうしなければ、また迫害の日々に戻すとの脅しまであった。
失意の中屋敷から立ち去り、これからどこへ向かおうかと悩んだ。
アレンには1年後に戻ると話している。
少し考えて、あの場所に行ってみた。
一人になりたいときに、いつも逃げ込んでいた場所だ。
森の近くで、人があまり近づかない。
そこで傷を癒し、心を休めていた。
故郷で一番好きな場所。
久々にいく休憩所は、木の根っこが盛り上がって少しだけスペースが狭くなっていた。
座り込んで休むと、荒れた心が少しだけ癒される。
しかし、またもこの場所で不運がアリヤを襲う。
悪意を持って飛んできた石が額を打った。
3年ぶりに味わう、熱を帯びたような痛みだった。
石の飛んできた方向を見ると、ひとりの青年がいた。
「あっ……」
一目でわかった。3年前、自分にどんぐりのブレスレットを渡してくれた少年だった。あれから随分と背丈も大きくなり、顔も大人に近づいていた。
「何しに帰ってきたんだよ。消えろよ。みんなお前がいなくなって喜んでいたんだぞ」
そこには心優しかった少年の面影はなくなっていた。
彼に何があったかは知らない。3年という期間は人を変えるには十分すぎる時間だったみたいだ。
まだ少しだけ残っていた気持ちが、今、完全に消え去った。
帰ろう、自分の本当の家へと。
アリヤは歩き出す。
街道を進むと、馬車が近づいてきた。
中から降りてきたのは、アレンだった。
仕事で忙しいはずのアレンが異国の地まで来てくれた。全てを察した顔でアリヤを見つめる。
もう、涙を流すことはない。
アリヤは笑顔でアレンに駆け寄った。
「帰ろう、俺たちの家へ」
「はい、私たちの家へ」
馬車に乗り、外を眺めた。
人の温かみを知り、愛情を知ったアリヤにとって、ここはあまりにも冷たかった。
「さようなら。大好きだった故郷」
――
聖女の去ったこの国は衰退の一途をたどり、100年後には地図からその存在を消した。
王家の血筋に聖女を迎えたアンダル王国は、長く繁栄を遂げた。その地に住む者は多くの愛情に恵まれ、幸せに暮らしたのだった。