時計回りの進路
私が自分の間違いに気付いた翌日から、あの超低気圧の情報を毎日追うようになった。
太平洋上で発生しインドネシアを通過してインド洋へ進んだ超低気圧は、当初の予想進路に沿うように西へ進んだ。それが3日から4日ほど続く。緯度でインド亜大陸の先端あたりを過ぎ、このままアフリカのソマリア辺りにでも上陸するかと囁かれ出した頃、気が変わったように超低気圧は北上を始めた。
情報を追い出して5日目から7日目。インド洋北西にあるアラビア海を通過し、パキスタン周辺より上陸した超低気圧はそのまま北上しつつゆっくりと東へ進路を変更。8日目あたりから進路上の国々を巻き込みながら進み続けた。
ニュースでは連日その話題が取り上げられる。進路直上となった現地の国々の被災状況、暴風によって吹き飛ばされた家屋と瓦礫、前代未聞の勢いで上陸したその低気圧によって過去最大級の影響を更新し続けているのは、誰の目にも明らかだった。疑う必要もないほどである。
10日目。上陸して2日経つが超低気圧は勢力を強めたまま衰える気配がない。衛星からの写真では雲の色が段々と白から黒へと変色しつつあるのが見て取れ、現在インドの近くをなぞるように時計周りの動きをしている。予報では中国とロシアの境あたりを通って東進か更に北上するとも聞く。
ここまで前例のない気象現象を相手に、どこまで予想出来るのか。ニュースでは予報を言っている側さえこの情報がどれほど信頼出来るか懸念があるという感情を隠せていない。
「どうなるんだろう、姉ちゃん」
弟に勉強を教えるため休日にまた戻っていた私は、そのニュースを見ながら勉強の合間の休憩をしていた。
「学校休みになりそう?」
世間ではこの超低気圧がインドから離れユーラシアを横断して太平洋に戻ってきたらという不安が高まりつつある。まだ向こうの現在地はインドの北で中国の西だというのに、そんな地理的距離すら超えて、この日本にまで不安をもたらしている。
弟はこの“台風より危険な低気圧”が来れば学校が休みになるかな、という学生らしいことを考えているが、休校どころじゃ済まないと思うよ。
「まだなんとも言えないわね。進路予報だと東へ進んでくる可能性もなくはないけど、また北上したり進路が大きく変わるかもしれないから」
「インドあたりで北上し出した時はみんな騒いでたよ」
「どんな感じに?」
「ヤベーヤベーって」
おい高校生ども、語彙力はどこへやった。お前ら色々と人付き合いとか学校で求められる年頃だろ。そんなんで同級生と満足にコミュニケーション出来ているのか。どれだけ深刻なのかノリで言っているのか全然伝わって来ないぞ。
「でも万が一のために買い溜めして備えておかないとね。あの規模の暴風だと交通網は麻痺するだけならマシ、悪ければ寸断も有り得るだろうし」
「え、そんなに? 嘘ついてる訳じゃないよね?」
「お姉ちゃんは弟に嘘をつきません」
大切な弟に嘘をつく理由がどこにあると言うのだ。けどあの超低気圧……もし日本に来るなら相当な被害が出そう。既に通過済みの国々でもインフラの寸断や大量の瓦礫処理に悩まされているみたいだから、恐らくは我が国も同じ問題に悩むことになる。
停電されたら冷蔵庫の中のものが腐るかもしれないし、対策に自家発電機でも買っておこうかな。あと買い置き出来る食べ物と飲める水の確保も今のうちから始めておくか。専用の魔法具である程度の浄水は出来るけど、浄水速度は決まってるし使える量は限度がある。
「まあ備えておきなさいよ。こういう時は楽観的にも悲観的にもなりすぎたらダメだから」
「分かった。あ、もしあの嵐がこっちへ来そうになったら姉ちゃんはどうするの?」
その時は多分平日だから実家にいないと思うけど、そうだなあ。
「同じように備えているから大丈夫。それに私魔法士だから、いざという時は魔法で何とか出来るわ」
「本当かなあ」
「信じていないわね? 1級魔法士の私に出来ないことなんてあまりないのよ」
フィクションの魔法使いみたく自由に空を飛ぶことが出来たらなー。海を渡るとかも出来ればしたい。服が濡れちゃいそうだけど、なんか絵になりそうだし。誰かそういう魔法を発見してくれないかな〜。
そんなことを考えていると、弟がいつもより真面目な声で「なあ、姉ちゃん」と言った。なんだい、弟よ。
「あの嵐さ、姉ちゃんがあの例の本で見せたやつに、似ていない?」
弟は言葉を選んでぼかすように質問をしてきた。が、それは私と弟以外には聞いても分からないというレベルのぼかし方。私はすぐに弟の伝えたいことを察する。
「俺にもあれが普通の嵐じゃないってことは何となく分かるよ。それにあの雲の色、姉ちゃんと一緒に見たあの雲の色に似ている。テレビでは嵐が過ぎた後のところしか映していなかったけど、多分それって映していないっていうより映せなかったんだよね。映しちゃまずいものが普通に映り込むような状態だったから」
弟はあの本によって魔力嵐というものを直接見る機会があったから、あの嵐の直下と強い影響範囲内ではどのような光景が広がっているのか、簡単に想像出来てしまえる。そして、それは弟や私にとっても馴染みのある台風の風とは桁が違う強さ。
もしかしなくとも、弟は不安を隠せないでいる。あの風を比較的近くで見た時の記憶があるからこそ、下らない話で気を紛らわそうとしているのでないか。弟の気持ちを考えると、そう思わずにはいられない。
「姉ちゃん……」
「大丈夫よ。そんなことにはならないから」
私はそんな弟を励まそうと、優しく声をかけた。
11日目。インドの北あたりにいた超低気圧は、中国大陸の方へと東進を強めた。その軌道によって太平洋側へ戻ってくるのがほぼ確実視されるようになったことで、ネット上でこの超低気圧をブーメランに喩える人が出だし、一段と騒ぎとなっている。
政府はこれに対して「不要不急の外出を控えるように」と国民に伝え、もしもの時に備えておくようにとも付け加えた。その影響だろう、コンビニに買いに行くと商品棚で保存が効く食べ物の列や飲み物等がいつもより少なく、代わりに長い列が出来ていた。コンビニでこの分だとスーパーはこれ以上の光景になっているだろう。昨日のうちに幾らか購入しておいて正解だったようだ。
未だ中国の奥地側にいる低気圧でこのようなことに発展するのは、それがアラビア海から上陸して3日経過し陸地内にいるにも拘らず、変わらぬどころか勢いが強まっているのも原因に含まれていると思う。常識を超えた存在に人は恐怖を感じるものだ。
12日目から15日目。中国とカザフスタンの境界あたりをなぞるように超低気圧は北東へ移動し、ロシアへ進出。その後シベリアの南で進路を東北東から東南東へ変更、モンゴルに中国と東に抜けた後、半島を突っ切りながら日本まで来る予報が出てきた。既に通過された地域はこれに伴う暴風洪水災害に見舞われ、大規模な復興救助が行われている。
その被害は上陸地点のパキスタンとほぼ変わりない、酷いものだった。直下地域が一番酷いが周辺地域も大概である。「通過したのは隣の国なのにウチの国でも暴風で被害が出た」と、そういう事例がいくつも上がってきている。
こうなれば、その直線上にあってモロに進路が重なる日本も他人事ではいられない。問題の低気圧は現在中国の北東部を通過中……そのまま日本海に出て半島の右をなぞりながら太平洋へ出て行くルートだ。
「どうしよう……」
シベリアで一度勢力が少し弱まったみたいだが、怪物クラスの暴風を伴っていることに変わりはない。この嵐は発生して消えるまでの間に一体いくつの国を横断するつもりなのか。
もし今の勢力で日本まで来ればその被害は既に聞く国と同様のものになるか、そこまででなくとも復興に年単位かけるようなものになる。専門家でなくともこれだけの実例を短期間に出されれば、分からないはずがない。
衛星からの映像だと完全に真っ黒な雲へと変わった超低気圧。その姿はやはり何度見ても、あの本で飛ばされたところで見た『魔力嵐』を思わせる。まさか本当に……でも。受け入れがたい気持ちと受け入れるべきという気持ちの狭間にいた私は、その人に訴えたかった。
「どうして、なんでなの」
イグノーツ・ステラトス。この本を持っていた人にして、この本を書いたと推測される人。
どこの誰かも知らない、何が理由でこんな本を託そうとしたのかも分からない相手に、私は不満を感じずにはいられない。
“私は貴方が世界の行く末を憂う志高き者であると願い、この本を託す。どうか、私の遺志を継いでくれ”
そう名前と共に書かれた文を読んで。
「遺志が分からないなら、どうしようもないじゃない!」
思わずベッドの上へぶん投げてしまいそうになった直後、私は自室から出ていた。
「うん……?」
どこだここ。外? いや、なにかが変だ。
周囲を見渡すと私は円柱の中のような空間にいた。白い壁面、白い床、半透明な天井。天井の向こうには12本の黒い棒。それが放射状に並び回りながら浮いているのが視認出来る。
「気が付きましたか」
見上げていたら知らない人の声がした。目の前に視線を戻すと、本当に知らない人がいる。
「誰?」
私より少し年を重ねていそうな、その男へ話しかける。
顔は少し痩せ気味か、頬が窪んで栄養状態の悪そうな顔色。
鼠色の長ズボンにブラウンのコートを羽織っていて、シャツはコートに覆われて見えないけれど、目立つ装飾のない地味目なコーディネート。服の手入れには無頓着なのか、先の方で繊維がところどころほつれており、大中小様々な汚れが付いている。でも不潔というほどではない、随分と着古しているような姿だった。
「貴方の知っている人ですよ」
男の人はそう答えた。いや、貴方とは一切面識がないんですが。
どちら様? ハッ、もしかしてストーカーか!? ちょっとやめてよこんな時に、ていうかなんで? 私誰かに粘着とか執着されるようなことしたつもりないんだけど。
「いえ、知らない人です」
「嘘をつくのは良くないですよ」
嘘じゃありませーん、本当でーす。くそっ、ストーカーらしい都合の良い頭してやがる。
「都合が良い頭だなんて、随分と好き放題言ってくれますね」
「あっ! 今心の中読んだわね! 貴方資格持ってるの!? ちゃんとした資格と使用理由がないと使っちゃダメなのよそれ!」
「おや、そうなのですか? 残念ながら持っていませんが、心の中なんて魔法のある世界では大したプライバシー領域ではありませんよ。むしろ見られることを前提に思考すべきです」
こ、こいつ、なんてことを言ってるんだ。心の中は本来絶対不可侵の領域のはずなのに、プライバシー領域ではない? 見られることを前提に思考するべき? とんでもない頭のいかれ具合だ。まともな人じゃない「心外ですね」。ええい、思考に挟まってくるな! 心の外へ出てけ!
はぁ……どうする? 恐らくこの人が私を自室からここへ移動させたんだろう。魔法の対人使用は十分な理由がない限り正当防衛でも割と厳しいんだけど、使うべきか。でもこんなことが出来る魔法なんて聞いたことがないし、そうでなくとも相当ヤバそう。裏社会の魔法士とかか。そんな人私は聞いたことないけど、いないとは言い切れない。
「ん? ……“魔法のある世界では”?」
まるで他の世界を見てきたかのような言い方。そして、貴方の知っている人という発言。この国のルールに疎そうな言い方。
……おい、おい。まさか。私は男の方を見る。
「気付きましたか?」
「まさかあなた……」
そんな馬鹿なことがあるのか?
けど、それは実際に聞いてみないと分からない。答え合わせをする必要なんてなくとも、私自身が納得するために。
「イグノーツ、なの?」
私がその名を口にすると、男の人は嬉しそうに笑った。