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ゲーム終了

 彼女が跡一つ残らず消えたあと、かかっていた服を消す幻覚が解けたらしく、私の着ていた服が徐々に見えるようになっていった。


「服が……」


 落ち着ける格好へと戻れて良かったと安堵の息をこぼしながら、手に握っているものを見る。それは彼女を生み出していた物体であったらしき、何の変哲もない消しゴム。この学校がこうなる前に生徒が忘れていったものだろうか。触ると仄かに熱がこもっているのが伝わってくる。


 一瞬彼女のことを考えてしまう。しかし、すぐにハッとなってケイスケさんの方へ駆けていった。彼はまだ床に倒れたまま意識を失っているようで、「ケイスケさん」と呼びかけても起きることがない。


「……ケイスケさん」


 思わず胸がざわついた。もし彼が目を覚まさなかったらどうすればいいだろうかと。そんなことは起こらないはずだと考えながらも、中々起きる気配がしない姿に一刻も早く目覚めてほしいと思い、倒れている彼の手を握りギュッと祈る。


(お願い…………!)


 そうしてからどれくらいの時間が経っただろうか。

 力の抜けていた彼の手から動きを感じ、頭を上げて見ると、目を開けてこちらの顔を覗くようにしている彼の顔が映る。ぼうっとしていてまだ頭が起ききってなさそうな目をしていた。


 そのまま「ツカサさん」と私の名前を呼んできた時、心の底から安心感に包まれ、目から涙が浮かんだ。


「え、え……なんで泣いているの?」

「これはえっと……なんでもないです。気にしないで」


 涙を拭いながら彼に微笑みつつ誤魔化す私。ケイスケさんは私の格好が戻っていたこと、そしてもう一人いた私の幻影がいなくなっていることから、何があったのかを察したんだろう。


「あの人は、倒したのか?」

「……はい」

「そうか……」


 念のためにか聞いた後、ケイスケさんは上体を起こす。

 先程まで幻覚による痛みによって気絶していた彼だったが、痛みの方はもう平気なのだろうかと思い聞いてみる。


「あの、痛みとかはないんですか?」

「まだちょっと残っているけど、動けなくはないよ。ツカサさんの方も大丈夫?」

「私は全然平気です。ケイスケさんが守ってくれたから」


 あの時受けるはずだった魔法の痛みは、庇ってもらったことで私には殆どない。それが伝わると、ケイスケさんはホッとしたのか微笑みを見せた。良かったと安心したような穏やかな顔で。

 その顔を見ると胸の奥が熱くなり、顔まで温かな気持ちが上ってくるような錯覚に襲われる。


(何だろう……?)


 不思議な感覚だった。今まで感じ慣れたことのないもので、私の中を静かに満たそうとしてくる。けれどいざ理解しようとすると上手に言葉に出来ない。この気持ちを知りたい欲求があったが、ひとまずは助けてくれたお礼をすべきだと思って頭を下げた。


「その、ありがとうございました」

「気にしないでいいよ。俺はツカサさ……サヤの友達に何かあったらいけないからね。やれることをやっただけさ」


 当然のことをしただけと言うようにケイスケさんは告げてきた。


「……そうですか」


 妹の友達である私を気にかけてくれてのこと。普通なら妹思いの兄であるという心遣いを感じられる言葉だったが、それを聞いた私はほんの僅かに寂しさを覚える。ただこれもなんで寂しく思ったのかが明瞭とせす、色々あって今は気持ちが混乱しているのだろうと考え、頭の隅に一旦置いておくことにした。


 まるで全て終わった感じの雰囲気になりつつあるけど、アーノルドから出されたゲームは続いている。私はゲームの勝利条件である『ケイスケさんと一緒に彼の本体を探してそこへ行くこと』ことを思い出し、彼に状況を説明した後、ここから出るために一緒に来てほしいと頼んで2階へと向かった。


 2階には体が思い通りに動かなくなる幻覚があったが、少し前にアーノルドから難易度を下げたという発言があったので、どうなったのだろうか。そう思いつつ2階へ上がった私は、想像もしていなかった光景を目にする。


「えっ……!?」


 まず飛び込んできた光景は、廊下に出現している多数の罠。

 格子状の目の部分から杭のように太く尖った棒を突き出すやつが点在し、それがない場所には天井からぶら下がっている振り子のような物体と、その先に付けられている両刃の斧みたいなやつが空中を揺れ動き、空を切っていた。

 壁の方を見れば鍋の蓋くらいの直径をした円盤形ブレードが回転しつつ、鋭い刃を突き立て忙しなく左右を行ったり来たり。まるでゲームに出てくるような殺意の高い物騒なものばかりである。


(難易度を下げたとか嘘じゃん!)


 スパイクトラップにペンデュラム、回転ノコギリの罠に対して心の中で叫んだ。

 何をどう捉えればアレをコレにするのが難易度を低下させたと言えるのだろう。まさか実質通行不能だったのを通行可能にしたから難易度が下がった、とでも言うつもりなのか。だとしたら1発引っ叩いてやりたいくらいだと思う私。


「……ケイスケさんは2階にいたんですよね? これって1階に行く時からこうだったんですか?」

「い、いや、その時は特に何もなかったよ。というかこんな風になっていたら何かしら他の行き方を考える」

「ですよね」


 隣にいるケイスケさんも目の前の廊下に見えるものに驚いていた。

 そのことからもこんな風に変化したのはケイスケさんが1階へ来た後らしいと分かるが、


(どうしよう……普通に避けながら進むしかない? 当たっても何もないってことは有り得ないだろうし)


 そうなると必然的に足止めを喰らう。罠の配置的にギリギリ避けていけなさそうにも見えなくはない。だがそれも何かしらの罠であるように思えてきて、一歩踏み込むことさえ躊躇する。


 私は進むか進まないかで階段の踊り場で悩みながらあれこれ方法を考える。


(そういえばケイスケさん、幻覚の一部を魔力の分離で解いていた気がする。あれをやったら何とかならないかな)


 助けに来てくれた際の会話を思い出した私は、魔力の分離で罠だらけの通路を攻略出来ないかと思った。

 正しくは魔力の分離によって魔法の効果を弱めていただけだが、物は試しにとやってみた。けれど特段何かが変わった感じはしない。端的に言うなら効いてない風に見え、このやり方では上手くいかないのだろうかと悩む。


「……敢えて罠を避けようとする必要はないのかも」


 するとケイスケさんが廊下を観察しながらぼそりと呟いた。


「どういうことですか?」


 言葉の意図が見えなかった私はケイスケさんへ尋ねると、ケイスケさんは答える。


「さっき戦った時に使った魔法。あれを使えば何とかなりそうじゃないかなって」

「…………あ」


 そこで私はケイスケさんの言いたいことを理解し、2人で魔法を発動した。使うのは1族の【障壁系】で床の上と天井から下の方に2つ、廊下の形に合わせて長方形にする。

 やったことは非常にシンプルなものだったが、床から突き出るスパイクトラップは下の障壁に阻まれ、ペンデュラムは上の障壁に軌道を塞がれ動きが止まった。実にあっさりとトラップが2つ無効化され、避ける必要もなくなったから壁を走る回転ノコギリも実質無効化したことに唖然となる。


(あれって幻覚魔法の一部だよね? ただの障壁魔法で動きを阻めるんだ……)


 実際には存在しない物体が魔法で出された壁に邪魔されるだなんて予想だにしなかったが、よくよく考えれば私はさっきまで幻影の彼女と戦っていたのである。あのとき魔法でお互いの攻撃が衝突し合ったり防ぎ合っていたのだから、決して出来ない訳ではない。


「これで先へ行けるね」

「そ、そうですね」


 戸惑いつつも彼に頷き返しながら、私は2階廊下を攻略し教室の中を見て回った。どの教室も1階や3階と特に変わらず、罠の類は一切ない。


(罠は廊下だけなんだ)


 3階はフロア丸ごと、1階は教室内が主な幻覚発生場所だったため、2階は廊下限定なのかと雑に推理すると何処かにアーノルドが隠れていないか探す。けれどどんなに入念に調べてみても、アーノルドがいる感じはしない。


「誰もいないな」

「いませんね……」


(今更だけど、五感では探せないって言われてたの思い出したよ……)


 物探しの魔法を使ったあと、ゲーム開始直後に聞いた回答を思い出した。あれは確かケイスケさんを探す上で五感での発見は困難である的なニュアンスのものだったけど、同じようにアーノルドを探し出すのも五感では難しいのではないか。


(だったらかなり無駄なことをやってたなあ。1人で2階に行けたとしても、ケイスケさんを見つけられなかったかも)


 机や椅子の物などは見えなくなっていようと触れれば分かったので、ケイスケさんもそれで見つけられるといつの間にか思い込んでいたらしい。

 チュートリアルに書いてある説明を読んだのに、なぜか頭からすっぽり抜け落ちて忘れていた…………そんな感じの凡ミスをした自分を反省すると共に、幸運にもケイスケさんの方から私を見つけてくれて本当に良かったと実感。


「うーん、魔法とかで探せないかな……?」

「一応やってみてはいるんですけど、見つからなくて」


 ともあれ、アーノルドがどこにいるかを見つけ出さなくてはゲームに勝てない。

 ケイスケさんと同じ隠され方をしているなら五感では探し出せない疑惑も考慮に入れつつ、『探し方は用意してある』という言葉から、私に出来る方法で探せそうなものは何か、頭を巡らせる。


 魔法での探索は今のところ効果がなく、幻覚魔法の解除を前にも使った結界系魔法で狙ってもみたが、不発に終わった。恐らくはこの場の魔力ほとんどが幻覚魔法の発動中のため、新しく魔法を発動することが出来ないのだろう。判明済みの魔法の発生原理を考えれば、1つの魔力に2つ以上の魔法を起こさせるなんて不可能だと理解出来る。


 戦闘中は自分の中にあるO系魔力を利用して魔法を発動することで何とかしていたが、あの魔法を発動するには体内の魔力だけでは足りないらしく、範囲を手のひらサイズに限定してやっと発動出来た。正直微妙である。魔法を発動するのだって体力を消耗するので、こんなのでも発動しながら校舎内を見て回るのは疲れるから、出来ればもっと効率良くやりたい。


 これなら族の変換を狙った方がまだ良い、と思った私は続いてそれを試してみる。


(固い……!)


 だがアーノルドの方が魔力を制御する腕が良いのか、私からの干渉にも全く魔法が揺らぐ気配がなかった。直後に何処からか聞こえてくるアーノルドの声。


『良いチャレンジ精神だが、君程度の腕なら束になっても私には敵わない。他のことに労力を注ぎたまえ。わざと脆く作ってあるものなら兎も角、解法としてそれを選ぶには実力が足りんよ』


 これ以上それをしても無駄だと、突き放すような発言内容。

 彼もまた異世界の人。せいぜい40年ほどしか魔法の歴史がないこちら側の住民では太刀打ちしようがないのか、その力の差を思い知らされた私は、苦々しさを覚えながらこのやり方でのアプローチを諦めた。


 今のところこれといって有効そうな方法は分からないまま。

 振り出しに戻されたような感覚にため息を吐いたあと、呼吸を整える。


「少し休む?」

「平気です。このくらいなら慣れっこですから」


 魔法の連続使用で若干呼吸が荒くなってきているが問題ない。

 1〜2年前までは学生だったしまだその頃の体力は残っているのだ。

 こんなのちょっとジョギングしました程度の疲れだと判断し、目の前の問題を解決することに集中する。


(物探しの魔法も魔力圧変動の魔法もダメときて、族の変換もアウト……こうなると残っているのはあの本で何とかするってことくらい? でも今は私にも見えなくなっているからなあ。そうなると方法は——)




 私とケイスケさんはアーノルドが指定したエリアとなっている校舎北棟の隅々を見て回った。2階のみならず既に探し終えた1階や3階、階段など、中から行ける場所は隙間を見逃さない勢いで。けれど五感を駆使したやり方ではアーノルドがいるという確証はどこにも得られなかった。


(……仕方ない)


 これ以上時間をかけるのはもうたくさん。

 私は使うのを躊躇っていた魔法、『心を読む魔法』で校舎内のどこかにいるアーノルドの思考、その場所を探せないか試み、上の階から順に調べていく。


 何度目かになる階段の上り下りの末に1階廊下前に戻ってきた私は、階段側で座って足を休めているケイスケさんに伝えたあと、魔法を使った。


(3階にはいない、と……)


 心を読む魔法は相手の位置が分からないと役に立たない。無差別に周囲の心を読めるようだとノイズが多くて使いにくいから、特定の誰かだけを居場所から指定して読もうとするためである。従って、魔法で指定した地点に誰もいなければ効果が出ても誰の心を読むこともない。


 それは見方を変えれば、その場に誰かがいないかを確認しているとも言える。ハッキリ言って本来想定された使い方ではないものであり、私の中では悪用に近かった。未だ道徳観念として日本で蓄積されたものがある私にとって、超えるのに抵抗がある一線。


 私は魔法を通して感情が伝わってこないかを注意すると共に、その場から3階のフロアを調べていく。さながらコンピュータのスキャン作業の如く、端から端へと心を読む場所(さき)を走らせ、3階から1階へと指定の場所を移していき、一瞬だけアーノルドの反応を捉えた。


『ほう』


 その心の声に、見つけたと私は確信してケイスケさんへと伝える。


「ケイスケさん」

「場所が分かったんだね」

「はい。この廊下の先、連絡通路の入り口です」


 そこは学校の昇降口がある場所へと繋がる通路だった。私の様子を見てケイスケさんは立ち上がると、一緒に同じ方へ向かう。


「——見つけましたよ、アーノルドさん」


 着いたと同時にアーノルドへ向けて宣言する。

 目から入ってくる情報ではそこに人はいない。耳もこの場に音を立てる者は私とケイスケさん以外いないと知らせてくる。けれど私は、そこに彼がいるという確信があった。


 呼びかけながらも返事はなかなか戻らず、十数秒近く経つ。誰もいないように見える通路の先をジッと睨み続け、尚も存在を疑うことなく私は待ち続けた。


「当てずっぽうではないということか」


 そうしてやっと返事がくると、その場へ隠れていた者がゆらりと姿を現した。白いコートに眼鏡をかけた男。床へ足をつけ立っているが、目に映る情報から屋上で見たアーノルドその人であると確信する。


 私とケイスケさんを順番に見遣ったアーノルドは「おめでとう」と口を開き、パチパチと拍手をしてくる。


「君は見事ゲームをクリアした。色々と想定した流れと違うことはあったが、彼を見つけて合流し、立ちはだかる敵を倒してきたのは事実。勝者と認めよう」


 そう言うとアーノルドは拍手を止め、クイっと首を動かす。すると幻覚で隠されていたのか、私のよく知るイグノーツと、ツェレンが先程と同じ風に姿を現した。


「お姉ちゃん!」

「——っ、ツェレン!」


 私の方へ駆け寄ってくるツェレンを受け止め、ギュッと抱きしめる。抱きしめられたツェレンは応えるように私の背中側へと手を回し、ガッチリと掴んできた。自分に抱きついてくる力があまりに全力で驚くが、それでツェレンの気持ちを察する。


「ただいま。どうにかクリア出来たよ、ツェレン」

「うん、ずっと見てた。お姉ちゃん平気? 無理してない?」

「色々あったけど平気だよ。大丈夫」


 興奮してるようなので頭を撫でて落ち着かせると、ツェレンは一層胸に顔を埋めてきた。「くすぐったいよ」と私が優しく教えても離れたがらない。ぐすぐすと啜り泣く音と共に、「良かった……良かった」と小さな声が聞こえる。その姿に私は昔のことを思い返しながら、背中をさすってあげた。


(確か弟が小学で私が中学の頃だったかな。学校ですごく嫌なことがあったとかで、部屋に入ってすぐ泣きついてきたことがあったっけ。あの時もこうやって泣き止むまで待ってあげたよね)


 泣いている理由は違うけれども、ツェレンもまた子供なのだということを実感する。そうやって少しずつ胸の中で泣くツェレンが落ち着いていくのを感じながら、よく知るイグノーツの方へと顔を動かし、目が合った。


『申し訳ありません。何分(なにぶん)アーノルドさんとそういう約束を交わしたものでしたので』

『……そうらしいね。始めの方で聞いたよ』

『ええ。直接的な介入は出来ませんでしたので、彼に幻覚魔法への耐性を与えることしかやっていません』

『え?』


 イグノーツの発言を聞いて思わず目を丸くする。


『それじゃあ意識がなく倒れていたケイスケさんが助けに来れたのは……イグノーツさんが?』


 ゲーム開始前に聞かされた情報では、ケイスケさんは意識を失って倒れているという話だった。なのにあの時ケイスケさんは駆けつけて来られた。普通に考えればおかしな話である。意識を失った状態でそんなことが出来るわけない。その答えが今判明し、イグノーツが裏で介入していたことを察する。


『約束したんじゃなかったの?』

『おや、私はゲームの邪魔をしない、ツカサさんへの情報提供をしないというアーノルドさんとの約束を守りましたよ』

『よくいうな。私のゲームにきっちり介入しておいて』


 イグノーツへ向けて心を読む魔法を使ったのか、イグノーツの言葉の直後、アーノルドが発する心の声が聞こえてきた。私とイグノーツはアーノルドの方へと首を振る。


『貴方の“邪魔”は妨害行為を働くな、という意味合いでしょう? 私のはその観点から見て妨害になる行動は何一つしていないと思われますが』

『幻覚魔法への耐性を与えたのだろう? それは違うと言えるのか?』

『ただ耐性を与えただけでそれは言いがかりですね。毒に蝕まれている身体に毒への耐性を与えたら、意識のない人がすぐ起き上がれるとでも? あそこで起き上がれたのはケイスケさんの意思によるものが大きい。そしてツカサさんのいる部屋へ駆けつけたのも私の誘導ではなく彼の意思でしょう。そもそも貴方はゲーム中にケイスケさんが起き上がって動くことを許容していたのではないですか? 許容していなければ最初から動けないようにするはずです』

『どれも都合の良い情報の受け取り方だな。しかし覚醒行為には関わっていないのも事実、と』


 心を読んで言葉の裏を読み取ったらしきアーノルドは、イグノーツの笑顔に目を合わせた。瞬間、私の方へもイグノーツの心が伝わってきて、あまりの内容に体が竦む。


(なに、これ?)


 普通、その人が自分に向けて何かを言われたら心は動くものだ。喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、好き、嫌い、どうでもいいなど、方向性は違えど心が反応を起こす。

 けれど魔法から伝わってくるイグノーツに感情の動きは無い。何の誇張もなく一切感じられない。それは発した音が跳ね返って来ない無響室のような静けさで、直前の記憶がない状態なら、話しかけられたとかの痕跡すら残っていない心の動き。


(私、疲れてるのかな?)


 思えば結構な時間、この幻覚の中を歩いていた。少なくとも1時間以上は経っていることだろう。時間だけでいうと大して動いてない気もするが、その最中は私とって慣れないことが非常に多かった。きっとそれで想像しているよりも疲労が溜まっているのかも、と思い始める。そしてそれは目の前の事柄を納得出来る理由にもなる。


(そうだよね、こんな経験をしたら疲れるよね。きっとそうだよ)


 彼はアーノルドの言葉を理解しながら返事をしている。その間、全く感情など動かないなんてあり得るのか。ましてアーノルドは心の動きからイグノーツの発言を裏取りしている様子があるのに。


 もし魔法から伝わる通りの感情が本当なら、伝わってくる『無』は不気味すぎた。だからきっとこれは疲れの影響だ。そう思ってから魔法を解くと、心配そうに見上げてくるツェレンに笑いかけ、安心させた。

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