過去の幻(2)
私の恩人であり魔法士を目指す理由になった人の名前は、逸輝さんという。見た目は20代くらい。髪をオールバックに流した精悍でちょっと怖い顔つきの人。
厚めの黒いジャケットを羽織っており、その下には白いシャツ、下半身には深い青のジーンズを履いた姿で、袖先や首元から覗く体には、引き締まった筋肉が見える。
「あん?」と言った男の振り払うような腕を、イツテルさんは何も言わずに掴むと手首を強く握った。男の幻影は痛みで悲鳴を上げて逃げるように消える。
「無事か?」
「は、はい。ありがとうございます」
見知らぬ男を追い払って傍に来てくれると、ホッと安堵したように幻影から発せられる声が柔らかくなった。この人との出会いは、中学2年の時に起こった出来事がきっかけだ。
学校が終わって帰路を歩いていた時、脇見運転をしていた車が歩道に乗り上げ、その先に偶々いた私は轢かれそうになった。けれどイツテルさんが魔法を使って助けてくれたことで転んで膝を擦りむく程度の傷で済み、その傷も魔法ですぐ治してくれた。
そんな衝撃的な体験だったから、漠然としていた将来の中で魔法士への関心が強くなり、そこへ進むきっかけになったのだろう。この人と会ったことがあるのは中学2年から中学卒業までの間だけだが、私の人生にとって少なくない影響をもたらした人なのは確かだ。
「イツテルさん、だよね。どうしてここに?」
(確かこの日のイツテルさん、足を悪くしている身内の頼みで、わざわざ遠くまで買い物に来ていたんだっけ。マイナーな食べ物で売っているコンビニがあったりなかったりするやつを買うために、何件も回っているって言ってたような)
その見た目と人を寄せつけなさそうな話し方から、初めは苦手そうな人だと感じていた。けれど実際は友人や知人に頼まれたりすると断れない、お人好しな性格をしている。休日に外へ出かけた時、知人から買い物に行かされている最中の姿をたまに見かけることがあって、その時に荷物を抱えるイツテルさんに話したこともある。名前についてもそうやって何度か会って話すうちに聞いた。
「——ということでな」
「そうだったんですか」
だからこの頃には第一印象にあった怖そうとか苦手っぽいという感じはもうしなかった。
幻影の私も、その頃の気持ちを反映するように「ふふ」っと小さく笑う。
「聞き返すが、この時間になぜこんなところに? 君にとって用が出来る場所ではないと思うが」
「……その、怒らないで聞いてくれますか?」
「話してみろ」
イツテルさんとの会話は今でもよく覚えている。
高校では親元を離れて一人暮らしをしたいと両親に言ったら、それに反対されて勢いで家出をしたこと。それを伝えたら「気持ちは分かったが家出までするな」と静かに叱られたことを。
「怒らないって……」
「怒ってはいない。だがここで叱らないのは今後の君自身のためにならないだろう。早く帰りなさい」
「………………」
「帰りたくないか?」
押し黙っている私の幻影に、イツテルさんの幻影も呆れるような態度を示す。この時の私は、自分の親というものに腹を立てていた。
「お母さんもお父さんも、私の気持ちなんて本気で考えてないもん。私を通じて見られる世間体しか見てない。遊ぶ暇もなく勉強勉強。そこまでして良く見られたいのかな」
中学に入ってから遊びよりも勉強の日々を強いられ、友達との付き合いは学校の中でだけ。一度放課後のチャイムが鳴って家に帰れる時間になれば、友達に誘われても一直線で家に帰るしかない。私の居場所は持たされている携帯からいつどこにいたかを母の携帯から見られるようになっている。
帰りに寄り道をしたり遊びに行けば、母が帰ってきた時そこへ行っていた理由を問い詰められ、理由に問題があれば付き合いを制限しようとその子の親に授業参観などを通じて働きかけられ、いつからか私が自由に動けるのは、登校後から下校前までの間だけになっていた。
「世間ではマジックネイティブと言われる世代の力を漠然としか測れていない。だからこそ、今優れた教育を施せれば子供が社会に出る時に一層有利になる。君の親もそれに気付いて、周りよりも優秀な子に育てようとしているんだろう」
「……そんなの求めてないよ。私は普通に、真ん中くらいの生き方が出来ればいいのに」
他の同年代の子のように友達と休みの日に遊んだり、夏休みや冬休みを使って今だけの青春を楽しんだり。そういうことがしたかった。1回しかない人生なのだから、もう2度と来ない私の時間なのだから。クラスメートの女子同士であの人が好きとか良いとか聞くと、自分も誰かを好きになってみたいと思った。
想いを抱いた相手にそれとなく話しかけて反応を探ったり、ちょっとした仕草で気を引いたりアピールしようとする自分に、興味があったから。恋をしたことのない私が、恋をしてどう変わるのかを知りたいから。
好きという気持ちが叶わなくともいい。大人になる前に甘酸っぱい恋がしてみたい。
結局、恋するほど誰かを好きになったことはなかったが、例え好きになれても恋愛を学ぶ時間は殆ど取れなかっただろう。でもやりたいことを全然出来ない鬱憤は積もり、私の心を歪めていた。
『イツテルさんみたいな人が私のお父さんだったらなあ』
心の中でそんなことを思う程羨ましがっていたというのは、今思い出したが。
(流石に恥ずかしい……)
思春期特有の気の迷いや行動があるとはいえ、彼が親だったらなんて考えるのは今思えばどうかしている。実際にどうかなるほど精神的な余裕がなくなっていたのかもしれない。でも、ちょっと冷静になって考えれば大概な思考である。口に出さずに心に留めておけたのは良かった。
「……あまり親のことを悪く思うものじゃないぞ。親が子に勉強をさせるのは、子供の未来が閉じてしまわないようにするためだ。それと、あまり変なことを考えるなよ」
「例えば?」
「そうだな……自分が別の家の子だったら——とかだ」
「ぐ、なんで分かったんですか?」
「顔に出ていた」
中学生が考えるような思考なんて大人にはお見通しだったのかもしれない。苦い顔をしただろう幻影の私に、イツテルさんは態度を崩さずに答える。
早くこの教室の作業を終わらせることにしようと、止まっていた手を動かし出す。
「へ……くしゅっ!」
外用の防寒着も着ないまま出ているので、寒さのあまりくしゃみをしている。すると「少し待て」とイツテルさんの幻影が呟く。確か、寒がっている私を見た彼が魔法を使い、私の周りを暖かくしてくれたのだ。
「いつまでも外にいれば風邪を引く。早く家に帰った方がいい」
「……イツテルさんは私の味方してくれないんだ」
拗ねる幻影の私に、幻影の彼も肩をすくめる。
「ここで家出し続けた先にどんな未来が待っているかを考えれば、俺にはそれ以外勧められない。君は家出をする前に、両親とよく話し合うべきだろう」
「無理だよ。お母さんもお父さんも私の意見なんて聞いてくれないよ」
正しい意見であると頭では理解しながら、それを素直に受け入れられるような気持ちではなかっただろう。私の幻影が見せるそれは幻とは思えないほど、昔の私が抱えていた内面を再現していた。
これは本当に幻覚なのだろうか。過去の記憶から再生しているようではないかと、思ってしまうほど。
「だったら両親の両親を頼れ。例え両親が反対しても、祖父母まで同じ意見だとは限らない」
「お爺ちゃんとお婆ちゃんに? でも……迷惑じゃないかな」
「少なくとも、家を飛び出てどこかへ行かれるよりは迷惑ではない」
「う…………」
実際そうだと感じられて、顔を逸らす幻影の私。
「可愛い孫に頼られれば無下に扱ったりもしないだろう。君自身のためにもまずは話し合いから始めてみなさい」
イツテルさんの形をした幻影がそう言った後、私とイツテルさん2人の幻影は消えていった。
幻影が見せた場面のその後のことについては、家に帰った私は両親に怒られるけれど、偶々孫に会うため訪れていた祖父母が事情を聞き、私の味方をしてくれた。それでも両親は反対しようとしたけれど、お爺ちゃん達が2人——特に母の方——を説得したことで折れてくれ、私の行きたい高校への受験は認められた。一人暮らしについても不安があったようだが認められ、結果的に私の望みは叶ったのである。
この出来事の影響か、当時小学生だった弟の教育方針についても見直してもらい、学校以外では遊ぶ時間が殆どない、ということは弟が中学に入る前にはなくなったという。祖父母曰く「耐えに耐えかねて家出されるよりは良いだろうね」とのことなので、半日に満たないあの家出も、お母さんとお父さんには十分効いていたのだろう。
(でも弟と離れて暮らすのは寂しかったけど)
それまで両親に向けても返ってきた気がしない家族の情を、私は4つ年下の弟に向けて暮らしていた。私にとって弟は素直で可愛く甘えん坊の良い子で、時折勉強なども手伝ってくれるなど賢さにおいても欠点がない、祖父母を除けば唯一家族への『好き』を注いでいたといえる。弟はこちらが可愛がった分だけ私にも『好き』を返してくれるから、私も余計に依存していたと思う。
だから一人暮らしをしたいと望むと同時に、弟と中々会えなくなることを気にしていたのだけど。
(高校生の私が弟と2人だけで暮らすなんて経済的に無理な話だし、世間体を見ても全然良くないし、そもそも寮生活だしで……高校を変えないならそうするしかなかったんだよね)
親の教育方針が変わろうと行きたい高校について変える気はなかったため、弟とはメールなどで連絡を取り合う方で妥協する。幸い受験についてはさほど苦戦しなかったのでそれで問題はほぼなかったから。
「……っていけない! こんな暢気に昔のことに浸っている場合じゃ」
懐かしいことを幻覚によって思い出してぼーっとしていたが、こうしている間にも時間は過ぎていく。早くこの教室内にケイスケさんがいるかどうかの確認を終わらせなければと、止まっていた手を動かした時。
『楽しそうだな、所有者』
どこからともなくアーノルドの声が聞こえてきて、私は眉を顰めた。




