幻覚の隠れんぼ(2)
手を離してはいけないと、直感が囁く。
景色は至って普通。昼下がりの影も伸び始めていく時間帯。
ここ……小学校に通うような年の子なら、早く家に帰りたいだとか遊びに行きたいだとかを本格的に考え出す時間。
「手を離したらダメだよ」
私のそれと比べて小さな手を優しく、けれど離さないようにギュッと握りながら、私はツェレンと共に校内を歩いている。閉じ込められているということを忘れれば、懐かしさも感じられる景色。しかしそこは幻覚魔法の影響下。リラックスするには少々どころかかなり危ない環境になっている。
「わっ……っとと」
「大丈夫? お姉ちゃん」
「ちょ、ちょっと幻覚が」
今、私の視界は幻覚魔法の影響によって上下が逆の状態へと変わっている。下に見えるべき床が上に、天井が下へと映る奇妙な光景は、混乱して躓くには十分な変化だった。
(幻覚って、こういうものだったっけ……?)
重力が逆さまになったのとはまた違う、異常な感覚に踊らされる。まるで知覚の仕方そのものから惑わされているような、ふざけたものだ。横へ首を動かせば窓の位置がいつもより低く見え、階段へ行けば上が階段で下がツルツルの面に見え、けれど足は本来天井である方の上についている。
ツェレンの助けを借りながら、足のついている方を注意深く観察しつつ、慎重に、1階から2階へ上った。
私は外を見ると、空と大地も反転しており、上ったはずなのになぜか下がっているようにも錯覚する。酔ったような風景。
「うう……」
本当に酔っているみたいに気分まで悪くなってきた。手を握っているツェレンに向け、弱音をこぼし出す。
「ごめんツェレンちゃん。正直……ちょっと辛いかも」
「えっと、目を瞑ると少し楽になるよ。もう少しで、これをどうにか出来る場所に着くと思うから、頑張って」
「場所、分かるの……?」
「うん」
その質問にツェレンは頷いて答えた。目的地はハッキリとしているという風な、自信のある返事。表情は……逆さまに見えるせいで微妙に読み取りにくい。
「そっか。じゃあ、私も頑張るよ」
気分が優れないながらも精一杯の笑顔を出し、私はツェレンを信じる。
頑張れ私。もう少し耐えるんだ。この状況を作った人の顔を拝みに行くまでは、なんとか耐えろ。
「ところでツェレンちゃんは何処へ行こうとしているの?」
「屋上だよ」
「屋上……か」
目的地を確認し、私は視界の下に見えている屋上へ目を向けた。普段なら近い距離にしか感じないだろうけど、今は長く感じる。幻覚の中を通って向かうせいか、精神的な疲れは実質距離の数倍以上はあるように思えた。
それでもアドバイス通りに目を瞑れば、少し気分が改善された。目からの情報が入ってこなくなる。それだけで相当マシになるなんて不思議にも思えるけれど、
(そういえばサヤが言っていたっけ。人が受け取る情報のうち、8割は目からの情報だって)
人という生き物はそれくらい目から受け取る情報量が多いのだとか。今のように視覚情報で酷く混乱を来たすようなら、目を瞑ってしまうのも選択肢としては大いにありなんだろう。
とはいえ油断は出来ない。視覚情報を実質カットした分、それ以外の感覚へと脳が意識を傾ける。この幻覚魔法は視覚だけに影響を及ぼす類のものではないらしく、目を開いている時はスルー出来ていた感覚が、じわじわと私に押し寄せてきた。
(……歩いているはずの自分の足音が聞こえない。おかしなほど臭いも感じなくなってきた。それに、肌を包むようなゾワゾワした不快感)
少し目を開いて腕を見れば、その不快感を与えている物体など存在しない。そう目で証明される。だがそれは、私の目で見る情報が確かである場合に限った話。
屋上を目指す。ただそれだけの間にも、様々な幻覚が私を襲ってくる。
足音が聞こえなくなったかと思えば、自分のすぐ後ろをついてくるような足音が聞こえ。
誰もいないはずの廊下や教室からざわめくような人々の声がして。
腐った卵みたいな臭いが、横を風の音と共に通り抜ける。すぐ側を風が通っていったというのに、私の髪は風に靡かない。そんなもの最初から吹いていないと言っているみたいに。
一体、何が本当なのだろうか。
「あとちょっとだよ。頑張ってお姉ちゃん」
励ましてくれるツェレンの声と、握った手から伝わる温もりが、心の支えだった。
そうしてついに私とツェレンは屋上にまでやってきて、本物の風らしきものを全身に感じる。目を開けずにじっと様子を窺い続けていると、ツェレンの声がした。
「何やっているの、アーノルドおじさん」
その名前を聞いた私は、つい最近にそれを聞いた覚えがある。確か、ツェレンのいうもう1つの家族の中に、アーノルドという名前の人がいた。
「ん? ああ、ツェレンかい」
アーノルドという人の声がする。落ち着きのある、金属のように冷えた印象を与える声。目を開けて姿を確認してみると、逆さの状態で空に足を向け浮いている男。見た目の若さと背はイグノーツと同じくらいで、研究者のような白コートに眼鏡、そんな装いをした人の横姿。
上下反転した視界の中で、ただ一つだけ正常に見える奇妙な存在がそこにいた。
「少々彼と隠れんぼをしていてね、彼に本当の居場所を教えないでくれるかな。この前は30分は持ったが、今度は何分持つか——」
「この前? アーノルドおじさんは、隠れんぼなんてしたことないでしょ」
「大人の嘘を見抜けるようになったか。成長したねツェレン。将来は私の助手になってほしいところだ」
「…………この魔法を解いて。お姉ちゃんに迷惑」
「隠れんぼが終わったら解いてあげるさ」
ふっ、と笑う声がアーノルドの方から聞こえる。私の視界が正しければ、ツェレンの対応に関心のある表情でそちらを見ているように窺えた。
彼はツェレンの受け答えに満足して顔を綻ばせた後、私の方へと目線を移す。
「さて、初めましてになるかな【所有者】くん。まずは礼儀として自己紹介をしておこう。私はアーノルド・シル・マクガフィン。またの名を——イグノーツ・ステラトス」
「————!?」
「おや、やはり驚くか」
どういうこと? なんで目の前のアーノルドという人は、イグノーツと名乗ったの?
罠だろうか。それとも、何かしらの目的があってわざとそう言った……混乱させるため?
不敵な笑みを浮かべるアーノルドを見据えながら、警戒心を強める。
「……なんでイグノーツさんの名前を?」
「私はイグノーツであり、君の知っている彼もまた、イグノーツ。事実はそういうことだ」
「意味が分かりません。貴方は何を言っているんですか?」
「言葉の意味は1つに限らないということだよ。多義語という概念は知っているかな? 同じ字面の言葉に複数の意味が含まれているような語を指すものだが、日本語には存在しなかったか?」
多義語に該当するものは日本語中にも存在するが、それは今真っ先に訂正するところではない。
相手が何を言いたいか、頭の中で処理しながら向き合い続ける。アーノルドが確認していることは何か。
多分だが、イグノーツ・ステラトスという言葉には複数の意味が存在すると言いたいのだろう。私が名前だと思ってずっと彼の名前の意味を聞かないでいたけれど……
(どういう意味なんだろう)
その名前の意味は彼から直接聞けたことはないし、再度聞こうと思ったこともなかった。だって彼はその名前を話題に出した時、サヤに聞かれた質問へこう答えたのである。
“なんでしょうねえ。私も正直分からなくて”
すっとぼけていたのかも。私が見てきた彼の言動的に、そうする可能性は高く思える。
「……どういう意味なんですか、『イグノーツ・ステラトス』って」
「最初の意味は、不明の星に投げ入れられた者のことだった。二つ目の意味は、そこに住む人々を指す言葉」
不明の星とは、この世のどこにあるかも分からない、決して光ることのない暗闇の星。
そこに何処からともなく、自らの自由意志にすら基づかぬ偶然によって放り込まれた者のことだと。
アーノルドはそう答えるが、私の疑問は晴れない。
「つまりだ。君の知っている彼と私は同郷なのだよ」
「どうして貴方とイグノーツさんが、同じ場所にいたんですか? 投げ入れられたって、誰に?」
「さてね。定番の言い回しなら『神によって』と言うところなんだろうが、生憎と妄想の産物をこの目で見かけたことは一度しかない。その一度すら例外のようなものだから、ここは……そうだな」
一頻り考えにふけて独り言を繰り返す彼。やがて頭の中の思考もまとまってきたのか、私から外れていた目線が再度向き直ると、勿体振る素ぶりを見せながらこう答えた。
「災害によってだ」
災害によって……イグノーツ・ステラトスは不明の星に集まった。そういう意味なのだろうか。
「そして三つ目の意味だが、二つ目の意味から転じて、私達の間でだけ使える名前……即ち偽名としての意味だ。私達は自分の本来の名前以外にも、イグノーツ・ステラトスという言葉を偽名として使う。ゆえにツカサくん。君のそばにいて君がよく知る彼の本当の名前は、イグノーツ・ステラトスではない」
愉悦を秘めたような目を隠さず、私に向けて伝えてくる。彼の名前は本当は、イグノーツなどではないと。なら、だったら彼の本当の名前は一体……心の中で彼との出来事が思い浮かぶ。
「悪いが、それは私から明かすことではないのでね。聞きたければ本人か、それを答えてくれるイグノーツに聞きたまえ。ああ、でもその代わりといってはなんだが、良いことを教えようか」
私からそれを聞く直前に、アーノルドが言葉で遮った。まるで心を読んだみたいに。
「良いこと……?」
「最近本に浮かんできて気になる数字があるだろう?」
……まさか、あの数字のことを言っているのか。即座にあの本を呼び出してページを開くと、初めからその数字は浮かんでいた。ページから視線を上げてアーノルドへと向き直る。
「確かこの世界の人口は、少し前まで81億だったか? ざっと17億があの世へ旅立ったあとか。時の流れは残酷だが、地球の歴史全体や人類史で見るならこの程度、かわいいものだろう」
一見脈絡のない話に聞こえるそれ。しかし、ページの上に出ている『6,398,808,418』という数字が何を意味するかについて、今の話を聞いた私の中で2つの数字が結びつく。
「ちょ、ちょっと待ってよ。じゃあこれって、今地球上にいる人の数なの!?」
それを知った私は戸惑い、反対にアーノルドは含みのある笑いをした。
「そうだとも。この世界の人類の個体数を表示している。言ってしまえば、人類カウンターというやつかな」
「どうしてそんなものが、この本に……」
「人の個体数を確認出来る機能を付けるなら、付ける目的も自ずと想像出来るだろう?」
私は考える。国であれば国民の数を把握することは、行政面における理由からであり、県や市なども規模こそ違えど、同じ理由だろう。そもそも数を数えるという行為の多くは、数える対象を把握して管理するために行われる。企業なども提供しているサービスの利用者数の動向を記録しておくことは普通だが、概ねその目的も今後の運営における参考情報として把握・管理するためのもの。
それは分かるし、想像もつく。だけどなんで異世界の本に、この世界の人口を把握するような機能があるのか。その理由を説明するにはそれだけだと説明出来ない。
こういう時ファンタジーでありそうな理由は……情報収集のためとか? 向こうの世界にはどれだけの人々がいて、いくつの国などが存在するかとか。でもそれが目的なら、現地の人に明かすような無駄なリスクは避けるだろうし、違う気がする。では世界間での交流が目的?
「君には、私や彼がこちらのルールを尊重するような相手に見えるかね?」
訂正を入れるようにアーノルドが口にした。会話だけを聞いていたら脈絡もない発言だが、私は既にこういう感じで話を繋げてくる相手を経験している。
「相手の心を読むのは、向こうの人なら当然にすることなの?」
「イグノーツ・ステラトスならばただの習慣だ。拒否感を持つこともなければ使用することを悪いことだと思うこともない。他人と話すときは目を見て話すように、それくらい当たり前の行為に過ぎないと、彼からは聞いていないのかな?」
“見られることを前提に思考すべき”とは言われたけれど、他人の顔を見るレベルで覗くことに抵抗感がないなんて。他のイグノーツというのも、アーノルドの話が本当ならそれくらい平気でやってくるのだろうか。多分やるんだろう。
「こんな問答を繰り返しているのは退屈だな。いずれにせよ、その数字の動きには注視しておくことをおすすめするよ」
「……私の生きている間に、人類の数が大きく変わったりするようなことでも?」
「その通り。何が起きるかについては生きていれば自ずと分かるだろう。今までのことからしてせいぜい1年、長くても2年はかからないはずだ」
「貴方も全部は教えてくれないんだね」
思わせぶりなことを言っておきながら、その詳細に関しては明かす気がない。イグノーツ……私のよく知る彼もそうだったけど、目の前にいるイグノーツはそれで楽しんでいるかのような反応が窺える。正直、話していて気持ちの良い相手ではない。
「教えてくれないというより、教えられないというのが正しいのだがね。私は今回関わらない側に立つから、やる側の利益を害する真似は極力しないように努めたいのだよ。分かるかい?」
「全然」
真顔で即答すると、アーノルドは口角を上げた。
「そういう正直さは好ましいな。好ましい人は贔屓しよう。私は気分屋ゆえに、その時々の対応も気分で決める。ゆえに私にとって好ましい特徴を1つ見せてくれた所有者には、有益な情報を上げることにした」
「それはどうもありがとうございます。ついでに聞ける情報を選ばせてくれると嬉しいんだけど」
「残念ながらそこまでの気分の良さではない。だが、今後も上手く私の機嫌を取れれば、もしかしたらはある」
彼の機嫌を損なわないように振る舞えたらまた何か教えてくれるかも、ということらしい。
今さっきの対応が好評だったことを考慮するに、ただ媚びへつらえばいいという訳ではなさそう。私から見て厄介な性格をしているのは確かだ。今後も彼にとって好ましい行動を取れるかどうかなど分かったものではない。それに、
「……今後も、ですか」
「ああ。既に察しているだろうが、私はそこにいるツェレンや彼と同じ、その本に保存されている複製意識であるからね。これまでは君に興味がなかったから存在を主張することはなかったが、今は少しだけ判断を間違えたと思っている。さて、そろそろ情報を出すとしようか」
やっとか。中途半端にこちらへ体を向けていたアーノルドが真正面に向き直る。ここまで色々と勿体ぶるような迂遠な発言が多かった彼だが、その時の発言はあまりにも唐突で、普通なら到底信じられないことだった。
「——2週間後、極大繁茂が発生する」




