意思のぶつかり合い
「追いかけてくるぞ!」
ロクトが後方を確認すると、魔化して魔物へと変わっている鹿がサヤとロクト、2人を目指して猛追してくる。その7メートル以上の巨体から繰り出される凄まじい脚力によって、彼らの間に一度は広がった距離が、瞬く間に詰められていく。
このままではまとめて蹴り飛ばされるか、頭をぶつけて来られると予感したサヤ。咄嗟に二手に分かれて片方だけでも逃げる案を考えるが、言葉にするよりも先にロクトが動いた。
「俺が囮になる! サヤさんはその間に隠れるんだ!」
「っ! 待ちなさい!」
ロクトの方に振り返り止めようとするが、既に彼はサヤから遠ざかるように、そして魔物の方へ向かって走り出す。
自身から逃げていたものの中で片方が方向転換し、自身の方へ迫ってくるのを捉えた魔物は、懐へ潜り込もうとされると思ってか、足を止めてロクトの方へ頭を動かす。彼は魔物が自分の方に注意を向けたことへ、口角を上げる。
「今のうちに! 早く!!」
それがその場でサヤが聞いた最後の言葉だった。サヤはその場に伏せて草むらから見えにくくなるように潜むと、直後に聞こえる魔物の頭突きと、重いものが吹き飛びドサリと地面に落ちる音を耳にする。
「…………」
魔物は物が落ちた方へゆっくり近づくと、前脚と頭部を使ってそれの状態を確認するように突いたり蹴りを入れる。呻くような声も痛みに叫ぶ声も、逃げろと呼びかける声ももうそこからは聞こえない。サヤは直感的に彼が死んだと悟った。
しばらくして彼の死を確かめたと思われる魔物が頭を上げ、耳を動かす。サヤの位置を見失ったのか、その優れた視野を使って周囲から動く物を見つけ出し、場所を特定しようとしている。サヤは声を出さないよう、息を潜めながら様子を窺う。
鹿はほぼ真後ろまで見える視界の広さと、高い集音性能を持つ耳を備えた動物。遮る物やほぼ真後ろの位置でもなければ動きを見られ、足音1つでも立てようものならこの距離である。大体の位置や方向くらいは掴まれ、逃げる間もなく見つかってしまうだろう。その後どうなるかなどは先例が今出来た。
サヤはただジッと我慢し、魔物が離れてくれるのを待つ。それ以外にこの状況から生き残る選択肢はないと理解したが故に。幸運なことにサヤがいる場所は立っていれば肩ほどまで高さのある雑草で茂っており、サヤは匍匐の姿勢をしていた。余程近くに来られない限りは視界に映ることはない。
雑草もやたらと頑丈なお陰でサヤが伏せようと特段折れ曲がることもなく、周囲に比べて不自然に草が少なく見えることもない。そのせいでサヤ自身もかなり窮屈な状態になっており身動きも取りにくいことになってはいるが。
しばらくは保たせられる。そう思ったサヤの通り、魔物はジッと身動きせず相手の位置を探していた。しかしそうやって耐えていた頃、風が吹く。
「…………!」
匂いを嗅いだのだろう。魔物は草むらの中から特定の方向より流れてくる周囲より浮いた匂いを感じると、そちらへと振り向いて歩みを進める。その先にいるのはサヤだ。
まずいと思ったが、草むらの中でも相手の真正面で動けば見られるし音も出てしまう。仮に今動いても逃げ出すことは無理。
自分が数十秒後に生きているのか、どんな姿になっているのかを想像するサヤ。グッと口を噛み締め悲鳴を上げないようにしながらも、手や足の震えが止まらない。近づいてくる死の足音。
「……せめて」
どうせ助からないのであれば。
一緒に来ていた他の人達に、隠れ続けるように伝えないと。本当は「逃げて」と叫びたいが、この状況でそんなことを言えば自分の次に彼らが犠牲になってしまう。だから、隠れろと叫ぶ。そうすることであの化け物から助かる確率が少しでも上がれば。そう思い、覚悟を決めた。
だが直後、この場の誰もが想像していなかった爆音が、周囲に響いた。
「……っ!?」
サヤは驚いて叫ぶ前に固まり、魔物はその音がした方向へ首を動かしてそちらを見る。方向から、その音は自分達が来た方角——学校のある方向よりしたものだとサヤは理解する。
魔物の注意が自身から音のした方向へ向いた。その隙に固まっていたサヤはハッとなると、思いっきり叫んだ。
「隠れなさい!! 私の声が聞こえているなら! そしてこの化け物に見つからないよう、離れて!!」
叫び声はよく届いた。きっとまだ近くにいて固まって動けないでいるだろう彼らに、必要なことは伝えられたはず。これで、自分自身に出来ることはもうやった。
全てをやりきったとサヤは立ち上がり、視界に入ったサヤの方へ魔物は向き直る。
「ごめんねツカサ……」
この状況を打開する手段など、サヤにはない。魔法だろうとこの巨躯を誇る動物を退けられそうなものは知らない。
「ちゃんと帰ってくるって、言ったのにね——」
突進を始める魔物の姿を見て、サヤは己の死を悟り、目を閉ざした。
だが、サヤの意識は途切れない。
「————え」
怪訝に思ったサヤが目を開いた時、そこにいたのは確かに魔物。だが、その視線はこちらではなく、魔物から見て後ろの方……
「嘘、なんで……?」
そこには、サヤにとって立っているはずがない人がいた。
「はは……なんでだろうな」
ロクト。魔物の頭突きによって吹き飛ばされ、動かなくなったはずの彼が立ち上がって、魔物の後ろの方から近づいていた。サヤの言葉に笑って返すロクトだったが、右足は膝の下から折れ曲がっていて、口からは血を吐いている。
「途中までは、動ける気もしなかったんだけど……サヤさんの叫ぶ声が聞こえたらさ、このままじゃいけないって、思えてきて。不思議と立ち上がれたんだよ。きっと身体を鍛えていたからだろうな」
当たりどころが良かっただけだ。人間が身体を鍛えたくらいで、あの巨体から出される突進を受ければ無事では済まない。サヤは彼の言っていることが冗談であると、強がりの一種だと分かる。
ロクトは右足を引き摺りながら魔物に近づく。
自身に吹き飛ばされてなお起き上がってくる彼に、魔物は警戒する姿勢を隠さない。
「サヤさん。逃げるんだ」
「逃げるのは貴方よロクトさん! あれを喰らって死なずに済んだんだから、貴方がまず助かろうとしなさい!」
「……俺はもう長くない。ここで逃げても、死ぬ人間が余計に増えるだけさ。だったら、無事な人が生き延びる方がマシだろ?」
「やめて、ロクトさん!!」
何をするつもりか察したサヤは今度こそ、必死の気持ちで止めようとする。だが、魔物の動きの方が早かった。
「サヤさん——」
彼が言い終わる前に魔物の突進がその体を吹き飛ばし、天高く空を舞った後、遠くの地面へと落ちた。
「ロクト、さん……?」
サヤは彼の落ちた方向を、呆然と見つめる。最後に見えた彼の微笑みが脳裏に残って。そして何度も彼の名前を呼び、返事が戻ってくることを望む。
「返事をしなさい…………。お願いだから、返事をして……」
だがその望みを叶えてくれる声は、いつまで経っても聞こえてこなかった。サヤは胸の奥に、重たく背負いきれない感情が膨らんでいくのを感じる。私のせいで、私がもっと早く気付いていればと。そうやって彼女の中で、ロクトが死んだのは自分のせいだという気持ちが産声を上げる。
聞きたい声はもう来ない。代わりにサヤの悲痛な声に応えたのは魔物の方。
魔物はサヤを正面に捉えると、突進の準備をする。ロクトのように仕留め損わないよう、確実に殺すために助走距離を増やすべく、数歩下がった。
「…………」
生きなければならない。ロクトの望みを叶えるためにも、ツカサとまた会うためにも、ここで死んではならない。だがどうやって? そう思うサヤ。
サヤにはあの魔物を躱して逃げる方法など思いつかない。ロクトの行動によって寿命が1分かそこらは延びたが、その使い道など遺言を残すくらいだった。
「あのまま倒れてやり過ごしていれば、もしかしたら助かったかもしれないのに……」
魔法だろうと、一度死んだ生命を蘇らせることは出来ない。生命活動を停止して、死に向かう脳細胞を回復させ元通りにすることなど不可能。見かけ上は元通りに出来たとしても、それは繋がりが出鱈目の神経の塊だ。仮に意識が戻ったところで、それは記憶の中にあるロクトとは、全くの別人になってしまうのだから。
だからこそ、死んでさえいなければ助かる確率はあったのにとサヤは思う。
「私が殺したようなものね……」
心の中で生まれてきたその気持ちを口から吐き出す。視界には、準備を終えて突進してくる魔物の姿がドンドン大きくなって見えていた。
「だけどもう、どうしようも——」
魔物がサヤを撥ねるその瞬間。彼女の視界の外、空の上から何かが放たれ、魔物の側面へとぶつかった。
凄まじい轟音と、衝撃によって魔物の突進がサヤの横へ逸れる。死を悟ったはずのサヤは、それゆえに今もなお生きていた。
何が起こったのか分からないという顔をしているサヤの前に、空から飛んできた誰かが勢いよく落ちてくる。土埃が舞うと同時に、ドカンという人体が出してはならない音を立てたが、落ちてきた人は平然と立ち上がると、ゲホゲホと吸い込んでしまった土を吐き出す。
「うっわ、すっごい衝撃……体の方はどこも痛くないけど、衝撃は吸収出来ているのかな?」
土埃の向こう側から、やや呑気なところを感じられる女性の声がしてくる。その声を聞いたサヤの体はピクリと反応し、口が動いた。
「つ、ツカサ……?」
「あ、サヤ!!」
サヤを見つけたツカサはハッとなると、サヤの方へ駆け寄った。
「大丈夫? 怪我はない?」
「な、なんでここにいるのよ? ツカサは学校にいたはずじゃ……」
「うん。だけどイグノーツさんに助けてもらって、ここまで飛ばしてもらったの」
「イグノーツに……なんで?」
事態の把握がまるで追いつかない様子のサヤだが、ツカサはいちいち答えている時間はないと判断してか、色々と事実を短縮した答えを返す。
「細かい説明は後でするよ。サヤはこれで隠れてて」
「これって……まさかシェルターの?」
ツカサがサヤに渡したものは、シェルターの魔法紋が書かれた紙。ここへ来る前にツカサがバッグから持ち出してきていたものである。
「サヤは一緒に来た人とその中に退避してて。私があの魔物をどうにかする」
「ま、魔物……? いえそれより、そんなの無茶よ!」
先程まで目の前で起こったことを見ていたサヤは、到底敵わないと思ったが、ツカサは安心させるような表情で微笑むと、魔物の方へ振り返る。
魔物は混乱している様子だったが、自身の動きが邪魔された原因について、サヤの前に立っているツカサにあると察するとすぐに軸を合わせて突進してきた。サヤは今度こそ死ぬと予感する。
「ツカサ!」
「——大丈夫」
だが現実に起こったのは、体長7メートルはある魔物の突進を両腕で受け止めきられ、それに動揺するサヤと、特にリアクションもない感じのツカサであった。
「な、なんで……!?」
「えへへ……自分で使っといてなんだけど、おかしいよねこの魔法」
ツカサが使った魔法は、『衝撃吸収の魔法』。効果のかかった物体に加わる衝撃を吸収して、エネルギーを失わせる魔法であり、イグノーツが教えた魔法の中でツカサが一番に練習していた魔法であった。
人一人であれば平気で空高く撥ね飛ばせる威力の突進。それを地面から体を離されることなく、まるで風を受け止めるように微動だにしない。あまりの光景に驚いたのか魔物は後退する。
「今のうちに急いで、サヤ」
「ま、待ってツカサ……あっちに、ロクトさんが」
「ロクトさんが?」
ツカサがその名前を聞くと、サヤが指差して示す方向を見る。だが、ツカサの目には草むらしか映らない。どこにいるのかと聞き返そうとするが。
「私を助けるために囮になって……もう…………」
「——っ!」
その言葉を聞いて、ロクトがもうどうなってしまったのかを理解したツカサ。自身がもっと早く到着していればという不甲斐なさと、魔物に対する明確な敵意を覚える。ツカサはサヤの柄にもなく落ち込んでいる姿と、殺意しか感じられない魔物の姿を交互に見返して、すうっと息を吸い魔物を見据える。
「私は命をかけて何かをやろうとしたことなんて、一度もなかったけど」
ツカサは自身の体から黒いオーラを放つ。それは前にサヤから死と向かい合ってるような威圧感だと冗談っぽく言われ、弟にも引かれたやつである。かつてはこれで空想の魔物だろうと怯ませられると思い込んでいたが、目の前の魔物は動揺を少し見せてこそ、引き下がろうとする気配はない。
どうやら、本物の魔物にはあまり効果がないようだと、ツカサは今得られた情報から学んだ。心を読ませる魔法も併用して露骨に敵意を向けてるにもかかわらず、魔物はツカサ達を殺そうとする意思を失わない。
「……奪われるくらいなら、命懸けで奪うよ」
ツカサは魔物に向けてそう呟くと、ゆっくりと歩き出した。




