優しさ
東京都。半月ほど前まで日本の首都として栄えていた場所で、1300万人以上が都内に居住していた日本でもトップの人口を誇る地域。イグノーツはそこに訪れていた。
彼の目の先には、東京の中でもビルが乱立していた地区がある。本来なら、そこには周りのビルと背を競うように何本ものビルが並び立って、摩天楼を形成していたであろう。しかし、今そこにはビルらしきものがあったことを物語るような、地上から伸びる高さ40メートル前後の骨組みしか窺えない。
「哀れですね」
ただ一言。本心から吐いたような言葉を出し、されど表情は変えることなくイグノーツは前へ進む。車道の真ん中を堂々と歩くが、何者にも彼は文句を言われず、その道が本来走ることを想定していた車は、一台も通りかからない。あったとしても、廃車と化して路肩に放棄されたものだけ。
移動する途中で彼は、生きている人を見かけた。このような事態に陥っても、懸命に生きようとしている人々。例えまともに服を綺麗にすることが出来ず、ついた汚れを落としきれなくなっても、逞しく生きようとする。そんな人達を見かける度に、思いをイグノーツは口に出す。
「鉄と石で作られた森の中でも、意外と生き延びられるものなんですね」
そうして目についた分だけ、彼らを空へ放り投げた。イグノーツが通った後には、コンクリートと鉄、プラスチックなどの無機物以外に、赤い水溜まりと仄かに熱がこもっているそれらだけが残っていた。
一連の行動に構えはなく、傍目には彼を中心に視界に入った者がいきなり真上へ吹き飛ばされているようにしか見えない。だがその光景は間違いなくイグノーツが生み出しており、されど感情を動かすことではないと語るかの如く、動揺など全く見られなかった。
彼にとって殺しとは何なのか。そこら辺に生えている草を摘んでいるのと同じなのか。間違って踏み潰したとしても数秒後には忘れているような存在なのか。そう問い詰めたくなるほどに、穏やかな表情をしている。
「流石に非効率が過ぎますか……ただ見つけた以上はやっといた方が後々のためですし、彼らも早く死ねないと一層苦しむことになるでしょうから、ここは一度大きく壊してしまう方が……ん?」
何かに思考を巡らせていたイグノーツだが、自身の視界の端に浮いている本に気付いたのだろう。振り向いて、先程までそこになかったはずの本を認識すると相好を崩した。
「おや、こんなところにまで来てくれるとは。どなたですか?」
『わたし』
「貴方でしたか。どうやらお目覚めになったようですね。気分は如何です?」
『……まだ眠たい』
開かれた本に浮き出てくる文字を見て、イグノーツはクスリとしつつ話しかける。
「でしたらまだ寝ていても大丈夫ですよ。こちらは貴方が見て面白いと思いそうなものは何もないので。退屈を紛らわすには向いていないかと思われます」
『そっちは何やってるの?』
「イグノーツ・ステラトスの復讐です」
彼が質問にそう答えると、数秒間、本のページに何も浮き出てこない時間が発生する。
返事が戻ってくるまでの間暇だったのか、彼は真上の空を見上げた。太陽が地平線の向こうへ落ちようとする時間に見た空は薄暗くなり始めていて、星空の中に人工衛星が反射する光がキラリと見える。
『ずっと復讐? っていうのしていて、疲れたりしない?』
「んー……そうですね」
そして返事が戻ってきたのと同時に本へ向き直るイグノーツは、少し悩むような口振りをしてから周囲を見渡す。やがて近くに転がっていた小石に目をつけた彼は、それを手に取った直後に真上へ放り投げる。そして真下に落ちてきた小石をキャッチした。
「疲れることは疲れます。ただ、やらないでいたらいたで気になってしまうものでして」
『忘れることは出来ないの?』
「ははは、それが出来たら楽なんですけどねえ」
難しいだろうと遠回しに答える彼に、相手はお願いする。
『たまには復讐? を休んで、私と遊ぼうよ。最近は全然会ってなくて、寂しい』
彼と遊びたがっているようにしているのが、文面からでも伝わってくる内容。
その文を読んでイグノーツは、相手の子と暫くの間、遊んであげていなかったことを思い出したらしく、口を半開きにし申し訳なさそうに表情を動かす。
「……こちらでやることが終わったら、戻ることにしますよ。その時に一緒に遊びましょうか」
『本当? 必ず戻ってきてね、約束して』
約束しますよ、とそれにイグノーツが答えた後、相手からの喜ぶ返答が浮き出て消え、本が勝手に閉じられた。そして淡い光へ包まれていき、数秒後には光と一緒に消えていく。
残される形となったイグノーツは口元に笑みを浮かべ、都市を見上げる。
「さてさて……あの子と遊ぶ時間を作るためにも、少し頑張りましょうか。目標としては……」
そう独り言を喋りながら、どこまでも続きそうな道路の方を見遣ったイグノーツ。
「——今日中にこの都市を無人にする、くらいで」
目標を定めると、彼は手の中で転がしていた小石に魔法をかけ、空へと打ち上げた。
この日イグノーツは、相手と交わした約束のため、東京を訪れた翌日に帰路へとつく。
そしてこの日、誰にも知られず気付かれない形で、日本の首都であった東京の人口はゼロになり、彼の犯行を見ていた小さな星も空から消えた。
しかし間もなく彼の犯行は、謎の異常事態として世界中に知れ渡る。彼が破壊した衛星の残骸が、他の衛星をも道連れにしていったことで————
*
全治1週間。それがあそこから飛び降りた結果、元通りに右腕が動けるようになるまでの期間であった。
「マットの上にとはいえ、その高さから降りて骨にヒビが入るだけで済むなんて、幸運よね」
救助された翌日、人のいない体育館ステージの幕裏にて。
そこでは今、私が飛び降りの着地時に負った傷に対し、サヤが呆れるような目で見ていた。現在私は亀裂骨折をしてしまったため、棒と布を組み合わせて作った簡易的なギプスを装着しており、右腕が文字通りお荷物になっている。
こんな状態だから、出来る作業を探しても「もう十分人手が足りているから」となんだかんだ理由を付けられ断られる。だから素直に大人しくしていた。
「えー……そう?」
なお私は右利きであるので、地味に面倒。
「幸運な方でしょ。あれって救助専用に作られたマットじゃないのよ。あるだけの毛布も重ねて最大限衝撃吸収は出来るようした筈だけど、正直なところ、盛大な方の骨折をするかと思っていたわ。ギプス付けてるのが大袈裟に見えるくらいよ」
「酷くない?」
「酷くないわ」
そう言いながら、ギプスの上の方をツンツンするサヤ。ヒビが入った場所をわざと外しているようなので問題はないが、怪我が長引いたらどうするんだ。
などと頭の中で考えているとサヤはじろじろとした視線でギプスを巻いてある腕を見てくる。
「……本当にそれだけなのよね、怪我」
「信用出来るかは分かんないけれど、あの本に診てもらった感じだと、他に怪我らしい怪我はないって言われたよ」
あの後落ち着いてから本に怪我の診断が出来ないかと聞いたら、二つ返事で答えてくれた。ただし、内容については「既に終わっています」…………もうね、いい加減注意するのも疲れました。
で、右の手首の骨にヒビが入っていることが判明し、他に問題となりそうなところはないと言われ、ギプス作成から装着の流れとなった。付け心地については快適ってほどではないものの、悪くはない。
「下半身の方も大丈夫なのね?」
「クラッシュ症候群のことなら、魔法で何とか治療出来たみたいだから、特に問題はなかったよ。目立つような痕も残らなかったし」
「本当?」
聞きながらサヤはガバッと、私のシャツと一緒に上着を捲ってお腹部分を見てくる。
いやいきなり捲ってくるな!
「ちょっとサヤ?」
「ごめんなさい。ただ自分の目で見ないことには信じ難くて……こんな対処法ってあるのね」
目を覚ましたあと、サヤは今回の救助作戦の顛末について周りから聞き及んでいる。
私からも説明しておいた方がいいと思ったこと……あの白い空間での出来事や本が教えてくれた知識などを共有した。なので私がどうやって発症直前にまでなってたやつを回復出来たのか、サヤも既に知っている筈だが……色々と受け入れきれないのだろう。
とりあえずこの状態で幕裏まで人が来られたら困るので、私ばギプスを付けてない方の手でサヤの腕を退け、パッパッと服を整え直す。
「大体私の心配をするくらいなら、サヤのあれだって大丈夫なの? 魔法のやりすぎで倒れたんでしょ?」
ちなみに私も、救助作戦中のサヤの行動については後からケイスケさんや他の人から聞いている。だからサヤが大規模な魔法を発動し続けたことによって、疲れでそのまま眠ってしまったことも知っていた。勿論サヤ自身にも聞いたけれども、サヤは倒れたことを言わずに黙って押し通そうとしたので、「正直に言わないと怒る」と強めに言い、どうにか認めさせた。
なのでサヤも一応は倒れたことを認めている。というか周りの人もそれを隠すことを認めなくて、勝手に追い風が吹いたんだけど。少し前までサヤの態度にツンケンしてた人から「若いからといって倒れるまで無茶するな!」と、サヤが言われてたのを見た時は新鮮な気分になった。
「そ、それなら平気よ。私は今も元気にしているじゃない。あれはただの過労みたいなものだから、寝て休んだら元通りよ、ほら!」
ほら、とは言うものの、過労なんて外見的な特徴の中だと姿勢や顔色以外に出てこない、まず見分けにくい状態の1つである。世の中疲れの具合が見て分かるなら誰も倒れたりなんかしない。そんなことはサヤなら言うまでもなく分かっているはず。
なので私は目を細め、サヤに向かってジーっと疑うような視線を注ぎ続けた。観念しろ、私は分かっているんだぞという意思を伝えるのである。こら、目を逸らすな。
「サヤ、私の言いたいこと分かるよね?」
強めの語調で眼を見ながら告げる私に、サヤは口を噤んで無言の抵抗。
「事情は理解しているよ。他ならぬ助けられた当事者だし、私もそういう意味で人のことを言える立場じゃない。だからお願いって形で言う。もう倒れるような無茶はしないで」
助けようとした行為については、逆の立場なら私もそうするだろうから否定しない。けど助けるために倒れてしまっては元も子もない上に、それが原因でもっと危機的な状況に陥ったりすることも考えられる。
ミイラ取りがミイラになる、助けようとした側が助けが必要になる状態になるのもどうなんだと。
ゆえにお願いとして約束させるのだ。金輪際、このようなことでそんなことはしないで欲しいって。こうすればサヤなら、きっと聞いてくれると思い。
「——出来ないわ」
だから思っていた言葉が聞こえてこなかった時、私は耳を疑った。
「このくらいのことなら私にとって、無茶だなんて思っていない。そんなに柔な体じゃないもの。ツカサには悪いけれど、それは例えお願いでも聞けない。だから、ごめんなさい」
代わりに入ってきたのは謝罪の言葉。そして、視線を逸らしながらもハッキリと告げるサヤの姿だった。




