平日
例の本を手にしてから早くも一ヶ月半が過ぎようとしている。
その間、私はあの本を手に取ろうと思ったことはあまりない。理由は言うまでもないだろう。
イグノーツ・ステラトス。この本を書いた貴方がどんな思いでこれを記したのかは知らない。けど、多分私は貴方の望んでいるような志高き人ではないと思う。だから、その遺志は誰か別の人が継いでくれるのを待っていて欲しい。それまではせいぜい本棚の隅にでも眠っていてくれ。
「ツカサくん。魔法具のチェックを頼むよ」
「はい」
本日の私は魔法士としての平日、即ち仕事日和の真っ只中だ。
職場のオフィスに設置されている給水魔法具、空気を浄化する浄化魔法具、そういった魔法具の管理を行う。従来の道具とは違う道具『魔法具』は、その構造ゆえに魔法士などの魔法分野を得意とする者が最もメンテナンスに向いていた。
外見は幾何学模様の描かれた花瓶のよう。しかしその模様こそがこれを魔法具たらしめている。空気中に満ちている魔力を容器の中に吸収し、魔法の原動力とする。そして模様によって定められた効果の魔法を発動しているのだ。その道のプロが構築した丁寧な模様は、一見するとただのオシャレでしかない。しかし魔法士などの専門知識がある人が見れば、それがいかに考え抜かれたものであるか伝わってくる。
魔法士という職が出てくるまで、世間ではこの道具が魔法が存在することの象徴だった。
過去、魔力の観測がされ始めたばかりの頃。魔法を使えるものは本当にごく一握りの一部しかいない時期、魔法は道具を使って恩恵に与るものだった。
当時の人達は生まれた時にはなかった魔力をどう扱えばいいか体で理解出来ない。魔力が扱えないなら、魔法なんて当然使うことは出来やしない。魔法を生活の中に浸透させるのは不可能だと言われた。それに対し先人は、人が魔法を扱えないなら魔法を扱える道具を生み出そう、と答えを出す。そうして魔法具がこの世に誕生した。
魔法具の模様はいわばファンタジーでお馴染みの魔法陣のようなもの。機械でいうところの回路に該当する代物なので、デジタル機器に慣れた人達からはそういうものと頭の中で置き換えることが出来、割とすぐ馴染んでいった。そうして生活の隅々に魔法が浸透してきて、マジックネイティブ世代が生まれる土壌が形成されていく。彼らと私達の違いは、結局はそこだけ。なのにその差は埋められないほど大きい。
「ヨツカ部長、メンテナンス終わりました」
「もう終わったか。私には魔力も魔法も分からんからなあ、魔法士がいてくれると助かるよ」
ネイティブの私達には体感し難いことだけど、未だ世間一般は魔力を感じることが出来ない人達で構成されており、こういう人達が世の中を回している。魔法具が重宝されているのは魔力や魔法を全く扱えない上の世代だ。若い方に寄ると魔力を扱える人もチラホラいるけど、そういう人達も魔法具を使うことに慣れ、基本はそっちを選ぶ。魔法具なんて使わずとも自分で魔法を使う、なんてのは魔法士くらい。
「アナログでこれだけある備品のチェックが一気に終わるとは、時代は変わったねえ」
「魔法をアナログと言っていいのか困るところですけど、魔法具限定ですので。あまり過度な期待はなさらないでくださいね」
普通の機械をメンテナンスしろと言われても全く分からないので。魔法のことなら大体分かるつもりだが、そうでないことは人並みにしか知らない。
「まあ、仕事にはそれぞれの領分というものがあるからね。役割を奪い過ぎず奪わなさ過ぎずが丁度いいよ」
「奪い過ぎず、奪わなさ過ぎずですか」
「ああ。どう言い繕ったって需要の奪い合いをしているだけだからね。新しいものが生まれた時は特にそうさ」
長い人生の中でそれを見てきたように語るヨツカ部長。窓から差し込んでくる日光が後光っぽく感じる。
「いずれは消えてなくなっていく定めだとしても、それで食い扶持を稼いでる人が現役なうちは、衝突はいつか起こる。そういうものを上手に避けながら世の中に浸透していって認められていく。魔法士はまだまだ前途多難だよ、ツカサくんも頑張ってね」
「あはは……頑張ってみます」
マジックネイティブ世代が大人の社会に現れてから一年経つ。一応ネイティブとは行かないまでも魔法を使える人達が先に世に出ていたが、マスメディアの影響もあって注目はマジックネイティブ世代の方が高く、私達はその一挙一動が過剰に見られがちだ。
前途多難、その通りだろうなあ。
「この後は予定あるかい? 良かったら私と付き合ってほしいところがあるのだけど」
「すみません。まだ社内の失せ物探しに全従業員のメンタルチェック、そのまとめと提出などの事務が残っているので」
「それなら仕方ないね。じゃあ私は行くよ」
ヨツカ部長は用事があるらしくそのまま外へ出ていった。たまに部長は私を誘ってどこかへ付き合ってほしいと言う。未だ風当たりの強い魔法士に心から気を遣ってくれるような人だから受けられるなら受けたいのだが、残ってる仕事を放ってまで行くことは流石に出来ず、毎回丁重に断っている。
魔法士への偏見も特になく、誘いを何度も断る形になろうと嫌味一つ出さない態度には、流石だと尊敬の念すら抱きつつあった。
部長があと30くらい若かったら、本当のお付き合い相手として考えるのも吝かではなかったかもしれない。あーでも社内恋愛は危険って聞くし、無難に外で探した方がいいかも。
しみじみとした気持ちからシャキッと切り替え、仕事に戻る。
次の仕事は失せ物探し。失くしたことは間違いないがどこへ行ったのか皆目見当がつかないといったものを、魔法で探す仕事。
「リストにある失せ物はボールペン2本、髪留め1つ、〇〇日のコンビニのレシート1つ、一ヶ月半前の書類、押印……」
そんなものを失くすなよとか知るかと言いたくなるものがリストに含まれていた気がするが、文句は私の仕事ではない。魔法を使っての捜索を開始すると、早速おかしな位置にボールペンが一つ見つかった。ロッカー棚の上にあるらしい。取りに行くと壁に密着する形で置かれてあった。
「魔法士がいる職場は、物の管理が気持ち緩くなるって言うけど……」
最近は緩みすぎではないだろうか。物を失くしてもすぐに見つけてもらえるという環境が油断や慢心を増大させるため、管理が甘くなるとサヤが言っていたけど、どうやら私の職場でもそれが再現されつつある。引き締め役の上司達も慣れ出しているし、困った話だ。
ちなみに紛失物を捜索する魔法具はないのかという疑問を持つ人もいるだろう。答えはノー。紛失対象なんて毎回変わるから、魔法具での捜索は基本上手くいかない。自力で探すのと差がないか、微妙に悪化するとまで言われている。魔法具は疲れ知らずだけど万能ではないんだよね。
一通りリストにあった失せ物を見つけ終わり、私はそれを発見済み失せ物ボックスに突っ込んでいく。個人的にこれはちょっと楽しい仕事だけど、すぐに終わるのが辛いところかな。次の仕事が魔法士が職場で求められる大きいやつで、多分これが一番キツい。
『あ、こっちの数値間違ってるじゃん。〇〇さんか? はぁ……』
『怠い……朝から全く調子が出ないし、やる気も死んでる。帰りたい』
『隣のやつ元気がないな。これ終わったら声かけるか』
『あ! 今日OSWのアップデートの日じゃん。家に帰ったら遊ぼうっと』
日に数度実行する従業員のメンタルチェック。
魔法士は魔法で人の表層意識が読めるため、権限さえあれば誰だろうとその時の精神状態を確認出来る。魔法士を雇う会社側のメリットは色々あるが、恐らくこれをやって欲しくて雇用し続けている会社は絶対にいるだろう。本来人の心の中とはベールの向こう側にあるものだ。うっすらとその形を窺い知ることは可能でも、細かい部分は把握出来ない。社内の人間関係の調整に苦心する上司にとって、こういう人間同士の化学反応は時に読めない現象を引き起こすので割りかし困るという。もし上手く出来ればより高いパフォーマンスで社員を働かせることが出来るのに、それをするのはとても難しいから。
けれど魔法士はそのベールを剥いで一方的に知ってしまえる。その効果は圧倒的だ。
今まではコミュニケーションを通してその一部を把握するに留まっていた、他人の考えていること。それを何の障害もなくあっさり見てしまえる。魔法士が全従業員のメンタルチェックと称してその意識を観察し、その内容をしたためて上司に提出してしまえば、あら不思議! 誰がどんな状態で社内にどういう人間トラブルが起きてるのか丸見えに!
無論それは雇う側である自分達の思考も見られるリスクを伴っているが、契約時に偉い人の思考は読まない、文章に書き残さない、口外しないと誓約させられているので、そんなことをすれば悪いのは魔法士になる。そもそも心を読む魔法自体、『第1級魔法士』なる資格があって使うことの許される代物なので、雇われた魔法士は当然社員(偉い人除く)のメンタルチェックをする機械となり、余計なことはしないように努めるはずだ。
そしてこれがまあ、魔法士という人種が強い偏見で見られ中々抜け出せない一因にもなっている。業務とはいえ人の心の中を覗いている訳だから、社員にはその旨説明が行っている。ゆえに魔法士が近くにいると、心の中を覗かれているかもと警戒心が高まるし、不快感を露わにされることもある。実際はそこまで近寄らなくとも読めるのだけれど。
私もそういう体験をこの一年で何度もしてきた。一応プライバシーに配慮して彼らが余程のことをしない限り大抵のことは報告書類に記していないのだが、そんなこと知らない彼らからはいつも数歩距離を置かれている。するとどうなるか?
魔法士は上司に有り難がられ、ヒラからは鬱陶しがられるようになり、職場内で孤立しがちの魔法士を上司がフォローするようになる。するとヒラからのやっかみが増えてまた距離を置かれ、仕事を果たしているがゆえに嫌われている魔法士を上司が一層保護してくる。そうなれば魔法士は心理的距離の遠いヒラよりも上司寄りの立場になって、人の心を覗くメンタルチェックへの抵抗がなくなっていくのだ。素晴らしい! 素晴らしい?
会社は魔法士によって社内の人間関係をより高い水準で把握出来るようになり、社員は知らず知らずのうちに高パフォーマンスを発揮出来るようになる。まさにウィンウィンの関係…………魔法士の人間関係以外は。
「疲れた〜〜……」
我が家に帰って身体を伸ばし、やっと解放されたと心から喜んだ。
会社にいる時のあの疎外感に比べれば、外は大分マシ。家の中は天国である。ん? これはなぞなぞに出来るかも。朝は地獄、昼も地獄、夕方は普通で夜は天国の仕事なーんだ? で今度弟に出してみようかな。
とりあえずベッドにダイブイン! うお〜〜ふかふかじゃあ。私の天使はいつだって優しく身体を包んでくれる。いつも私を背負って安らぎを与えてくれるベッドくんよ。君がもし生涯の伴侶になってくれるなら、私は喜び勇んでついていくよ。だから魔法で人になってくれたりしない?
「あ、サヤからメール」
あの本の続きは読んだ? という催促の内容が届いてあった。まだ読んでませんよ、と……お、返事早い。
「“今すぐ読みなさい。私は一か月は待ったわ”……」
一か月は待てる女、サヤ。その気持ちは重いのか軽いのか分からないが、続きを待ち望んでいるのには違いないだろうと、私は受け取った。うーん、あの本の続きかあ。
「正直、あれを読むとなるなあ。何が起こるか分からないから覚悟がいるし」
また飛ばされても戻ってこれる? 多分出来るだろうけど、試していないしそうなるとやっぱ覚悟がいる。うーん。
「どうせなら一緒に読まない? そっちの方が楽しいよっと」
送信する。返事は少し遅れて来た。
「“一緒に読んだら呪われたりしない?”……どうだろう」
こちらも試したことがないから分からない。けれど一応確認は必要かあ。でもそうなると誰を誘おう。サヤは安全が確認出来ないと無理だし、他に学生時代付き合いのあった同級生も多分首を縦に振らない。そうなると頼れるのは……うん。一人だけだね。
私はメールの文面を考えつつ、脳裏に弟のことを思い浮かべた。