避難開始
——その日、魔力嵐によって日本からあらゆるものが消え去った。それは電気であり、飲用に適した水道水であり、火を起こすためのガスであり、快適な生活であり、心のゆとりであり……数えきれないほどの命。
シェルターの魔法がギリギリのところで一般に認知されたことで、失われるはずだった命の幾らかは守られた。けれど実態としては失われた命の方が数多くあり、正確な数字は不明だが日本総人口の3分の2は余裕で消し飛んだものと思われる。
魔力嵐が日本を通過して海の底へ消えていった後、どれだけのものが消えていったか幾分まだ実感の湧かない私であったが、昨日までゴミの殆どない通りであった街中に、動かない肉体と素の姿が判別出来ない肉の欠片がところどころに散っている。それから漂う腐った匂いが、未だ鮮明に覚えている街の記憶を侵食しているのは違いなかった。
「もう外に出て大丈夫そうですよ」
イグノーツに促されシェルターから出た私がまず見たのは、変わり果てたマンションの室内だった。
壁の方に空いている大人が余裕で通れそうな穴。そこから風で飛んできたであろう岩の塊が部屋の片隅で落ち着いており、床には窓ガラス・壁の破片・ベランダに備え付けられていたフェンスの一部が散乱し、昨夜ここで何が起こったのかを静かに物語っている。
もしシェルターの魔法を使わずにこの室内に留まっていたら……想像して息を呑む。
「壁にポッカリと穴が空いていますね」
イグノーツが周囲の損害を観察している間、私もパッと周りを確認する。シェルターの中へ避難させたもの以外で無事なものはほぼなさそう。玄関口の方はさほど被害がなく周囲に置かれている電化製品も無事だけど、冷蔵庫の中は室内の気温とほぼ変わらなくなっていた。
ああ、そりゃ停電して機能も止まるよね。ブレーカーを上げ直してみるが、当然電気は戻ったりしない。蛇口の方はまだ水が出るけど、多分出ているのは管内に残っている水ですぐに出なくなる。分かってはいたことだけど、事前に買って備えておいた分以外は全滅かー……。
とりあえず、室内はこれで一通り確認した。マンションの通路の方はっと。
「あれ、開かない……」
「魔力嵐の影響によって、扉の枠が歪んだものと思われます。出るなら破壊した方がいいでしょう」
なんと玄関の扉が歪んで開かなくなっていました。嘘でしょ?
「風圧だけで歪んだの?」
「いえ、飛来した物体がドアに衝突してだと思いますが……仕方がない。この扉は私が開けましょう」
そう言うとイグノーツは、安全のために私へドアから離れるようお願いする。頷き返して距離を取る私。
「では…………行きますよ」
扉に向かって片腕を伸ばし合図をした直後、空気が爆発するような音。それと同時に扉が勢いよく外へ飛んでいき、通路の壁面へと打ち付けられた。
あまりの威力に呆然とする。今のパワー、魔法士が使用を禁じられている攻撃魔法と同等の殺傷力じゃなかった? 空気を飛ばしてぶつけた、いや目に見えない速さで弾を射出? 効果の詳細は掴めないが、頑丈なドアをひしゃげさせてぶっ飛ばすような魔法であることに違いはない。
「どうしました? 外に出るのではないんですか?」
「あ……出るよ。ちょっと待ってて」
「足元へ注意してください」
一足先に通路へ出ていた彼は注意を促した。
私は保存食など重要な物を回収して戻ってくると、通路に出た途端瓦礫の散らかった足場を視認。転ばぬよう注意深く階段を下っていく。そして1階の踊り場まできた際、青いズボンを履いた片足だけの物体を瓦礫の下に見つけてしまう。
「……ひっ」
「ただの肉片です。そう思いなさい」
「肉片……でもあれは」
「この先、人の形をした肉なんて嫌になるほど見ることになります。心が保たなくなる前に慣れておきなさい。人に情を感じるのは止めませんが、人だった物にまで感じていると、壊れますよ」
思わず足が竦んでしまった私だが、彼の言葉を聞いて気を持ち直す。そして彼と共にマンションを離れた。とにかくあの遺体を視界に留めたくなかったから。
その後、私達は近所の公園までやってきたので一旦足を止めて落ち着くことに。移動した距離自体は1キロにも満たないが、ここへ来るまでに何個か人だった物を見かけてしまい、心が休憩を求めていた。
「……イグノーツさん、いま何時くらいか分かる?」
「恐らく午前9時辺りでしょう」
午前9時……まだ、昼ですらない。時間がとても長く感じる。
時間なんて携帯で確認すれば一発だが、この非常時にバッテリーは出来るだけ節約したいので電源を落としている。充電するための小型発電機は持ってきているが、あれは手動で充電するため体力が少し必要になる。いつどれくらい体力が求められるか定かでない状況で、それを早々に使うのは考えなしの行為だ。
「そういえば今ツカサさんは携帯を使っていませんね。家族への連絡はしたのですか?」
「一応メールは入れたよ。気付いていたら何か返事をくれているかも」
本当は電話で安否確認を取りたかったけど、この大災害下、同じように考えている人は無茶苦茶いる。それに基地局が軒並みやられたのか掛けても全然繋がる気配がなく、いつまで経っても連絡が取れなさそうだった。
なので携帯のバッテリー節約も考慮し、電話は諦めメールでこちらの無事を知らせるに留まった。
「そろそろ行こう……もう十分休めた」
「大丈夫なので?」
「うん、平気。今は歩いていた方が落ち着けそう」
それに……これ以上公園に居続けたら、二度と離れたくなくなりそうだし。
気力がある程度回復したのを見計らい、公園から離れる。
「行く足に迷いがありませんね。ツカサさんはどこか目指されている場所があるのですか」
「こういう災害時には避難所として指定される場所があるの。知らないのイグノーツさん」
「知っていますよ。人口密度が高そうな場所ですよね」
人口密度って、何の話……?
話が噛み合っていなさそうという気持ちを抱きつつ、目的地を目指して歩く。
私の住む地域には避難所として指定されている場所が二箇所あるが、現在目指しているのはそのうちの一つ、中学校の方だ。
マンションから直線距離で1キロほどのところにあり、平日はそこへ自転車通学する生徒達とすれ違うこともままあった。年相応に元気溌剌で、気力に溢れているなあと感じたことを覚えている。たまに運動部らしき生徒がすれ違う際に「こんにちはー」と挨拶をしてくれたので、印象は良い方。
不思議と私が中学だった頃の同級生より賢く思える。何故だろう、思い出補正的なやつかな。
などと記憶を想起していると、中学校の校舎が見えてきた。
「あの大きな建物が、目的地ですか?」
「そうだよ」
イグノーツの指差し確認に肯定する。校門まで来ると、そこに立っている大人の姿を見かけた。
やっと生きている人に出会えた! と内心安堵する私。校門前に立つ人へ話しかけ、既に校舎内には多数の避難してきた人がいることを知り自分も中へ入れてもらおうとするが、ここで一つトラブルが発生。
私の同行者が何かと理由をつけられ、入れてもらえないのだ。
いや、普通この状況で避難所に入れない理由なんてあるのか、と言いたいが、イグノーツの場合はそもそも見た目が日本人っぽくないのと、服装もなんか現代ファッションからズレてる感があって目立つから、余計なトラブルの元になりそうで「ウチでは対応したくない!」的な感じなのだろう。
私から見ても「お前格好が悪いよ格好が」と言えなくはないけど、そこをなんとかなりませんか? あ、ダメですか。ごめんイグノーツ、ダメだったよ。
「どうやら、私が入ると余計なトラブルを招きそうということらしいですね。まあ、身分の証明もこちらでは出来ない訳ですし、仕方がありませんか」
「ごめんなさい。まさかこんなことになるなんて……」
「ツカサさんが謝る必要はありませんよ。学校に不審者を入れたくないという気持ちは分かりますからね。私はどこか別の場所に向かうとします。けれどその前に、お願いしていいですか?」
何をお願いするのかと耳を貸したら、緊急用の連絡のために精神だけで連絡を取れるようにさせてほしいとのこと。要するに「心を読ませて?」と言っている。
え? ちょっと向こうで小声で話しましょうかイグノーツ。
「別の場所に行くって本の中に戻る方便じゃないの? 本当にどこか行くの?」
「あの、本の中にはいつでも戻れるんですけど、ここへ来るまでの道すがらに、実際に行きたいところを見かけまして……だから心を読める状態にして、いざという時すぐに知らせることが出来るようにしたいのです。ダメですかね?」
「ちょ……っと考えさせて」
うーん、どうしよう。非常事態でいざ連絡が取れないと困るのは確か。けどイグノーツに心を読まれるのが許容出来るかというと……イグノーツは男性だし。別に普段知られても困るようなことは考えてないつもりだけど、それが本当に知られても困らないことだなんて、私には分からない訳で。
もし知られたら恥ずかしいようなことをポロッと考えたりしたら……ああ、ダメ。そんなの耐えられない。無理。
「あの、もし心の中で知られたくないことがあるのでしたら一つ提案がありますが」
「……一応、聞こうかしら。何?」
「お互いが合意のタイミングでだけ互いの心を読めるようにする、というのはどうでしょう。魔法紋が必要になり若干即応性が落ちますが、これなら特定のタイミングでだけ心が読めるので、変な思考を相手に漏らす可能性は下がりますよ」
いわゆる電話的なやつかな。ふむ、それならまだ大丈夫かも。
「いいよ、それで妥協する。ちゃんと合意の上でだけ読める状態になるのよね?」
「当たり前ですよ。貴方の許可もなく勝手に読んだら、サヤさんに絶交されてしまいます」
まあそういうことなら……って、そんなにサヤと友達でいたいの? 何を基準に行動しているのか、イグノーツはたまに分からない。でもサヤと絶交になりたくないという思いはなんとなく伝わってくる。多分大丈夫だろう。
こうしてお互い了承し、連絡用の魔法紋を渡された。リストバンドタイプのもので、腕に嵌めた時だけ心が読める魔法が発動するらしい。私からイグノーツに連絡する時はこれを腕に嵌めて、イグノーツから私に連絡する時はこのリストバンドに変化が現れるので、気付いたら嵌める。
使用法的に私側は通話無視も出来そうな気がするけど、これは心が読まれることに抵抗のある私への、イグノーツなりの配慮なのだろうか。というか、
「イグノーツさんって色んな魔法持ってるよね……」
「色んな世界の魔法を知っていますからね。ツカサさんに知識量で負ける訳にはいきません」
「私なんかと張り合う必要ある……?」
「ツカサさんは1級魔法士じゃないですか。こちらの世界における魔法のプロなのですから、対抗心も生まれて当然です」
いやいくら1級魔法士だって異世界の魔法までは知らないし、イグノーツに知識量で勝てるような人はこの世界のどこを探してもいないと思うけど。
「ではそろそろ私は行きますが、ツカサさんもお気をつけて。何かあったらすぐに連絡を」
「ありがとう。イグノーツさんも気をつけてね」
正直私からすれば何かあるか不安なのはイグノーツの方なんだけど、そこは今更言わないでおこう。トタトタと走り去っていく彼の背中を見送った後、避難所となっている中学校の体育館へ向かった。