温度差の壁
私とケイスケさんの間に、見えない壁が広がった。
それは空気も音も、光も通すうっすらとしたもの。
この胸につっかえるものを通してくれなかったら、壁とすら思わなかっただろう。
厚さで言えば一ミリもない。
一歩踏み込めば、一言伝えれば、きっと向こうに行ける。
でもその向こう側に、私は行けなかった。
(……何も言えなかった)
夕日が差し込むベッドに仰向けになって、一人だけの室内で、その時のことを思い返す。
あれから二日が過ぎた。
ケイスケさんはザガムに付き合ってもらいながら、訓練を続けている。
練習のほどについては、ザガムが軽くこぼしていた内容によれば、
『至って真面目に努力されておりますよ。少なくとも、誰かに頼らず自分の身を守れる日も遠くないでしょう』
と、直向きに励んでいる様だったとのこと。
話すときにザガムが、少し困った笑みを浮かべていたのを覚えている。
練習の密度をもっとあげたいとか、実践的な練習をして欲しいとか。
そんな感じのことでも言われたのだろうか。
(最近、ザガムさんと話す機会も減った気がするし)
ザガムも船長から仕事を頼まれることが増えて、忙しくなってきている。
遠くまで出張することはないけれど、近場の森とかに行き、魔物を狩ったり食べられる食料を得て戻ってきたり、火を付けたり電気を生み出す便利な魔法具の製作とかも頼まれているとか、頼み事の量は増える一方らしく、自由に使える時間が少なくなってきているようだ。
彼の能力や人柄が、信頼されてきている証だろう。
そのことはケイスケさんも知っているはず。
自由に使える時間を割いて、魔法の練習に付き合ってもらっているのだから。
ザガムにしか教えられないという訳でもない。
サヤや私へ声をかけてくれても、良いと思うのに。
そんな気持ちがよぎって、自己嫌悪から毛布の端を握り込んだ。
(あのあと碌に話も出来てないんだから、それは無理だよ……)
あれから今日まで、私とケイスケさんは会話が下手な状態が続いている。
どれくらいかといえば普段はそんなに使わない「今日の天気〜」って話を振ったり、「体調はどう?」みたいな無難な話題を投げ合ってるレベルで、サヤに「あんた達初対面じゃないでしょ。話題の引き出しガタついてるの?」って、突っ込まれそうなくらい酷い。
まだ喧嘩してるとかの方が困らないと思った。
(馬鹿……)
私は横寝の姿勢に転がった。
あの時、立ち止まったりせず追いかけていれば。
私がもっと、思ったことを伝えていれば。
そんな気持ちがずっと離れなくて、もやっとしている。
その気持ちが波のように引いたり寄せたりするのも、安らぎたいのに安らげなくて嫌だった。
(今は……どこらへんだろう)
起き上がった私は、びゅうびゅうと吹く風の音に釣られ、窓辺に寄った。
山の向こうに沈んでいく真っ赤な夕日と、それを背に揺れる木々の枝枝。
真っ暗になっていく海と、光一つない街の残骸が、陸と海の間にぐったりと横たわる。
(瀬戸内海の、大阪湾あたりかな……)
空港らしき角張った島が見えた。
大分西の方へ進んできている。
この分だと明日には四国の南を進み、九州に向かいそう。
外を眺めながらそんなことを考えていたが、ガラスから伝わるひんやりとした感触に、意識が逸れる。
(……壁)
冷たかった。
指先から熱を奪うだけ奪っていって、残されるのは冷えた指。
取った熱の分、温かさを返してくれることはない。
でもそれは、壁に触れているから。
触れていなければ、奪われる熱はずっと少ない。
(知ろうとしなければ、こんな気持ちにならなくて済んだの……?)
私は、間違えていたのだろうか。
ケイスケさんが言うように、一緒にいない方が良かったのか。
ほどほどの距離で、ほどほどの付き合いで、友人でも、他人でもないくらいの関係だった方が。
この二日間、いくら考えても答えは出てこない。
でも、つい考えてしまう。
もやもやした気持ちを抱えたまま、私は部屋を出た。
(どこに行こう)
特に行きたい場所がある訳ではない。
ジッとしているのは辛いから、散歩なりして気を紛らわしたかった。
普段行ってないフロアでも行こうかな。
確か下のデッキに、小さいけれど図書室とかがあったはず。
(久々に何か読んでみようかな)
本を読む暇も本自体もなかったから、もう随分と読んでいなかった。
この機会に読みに行こう。
今は夕食が配られ出す時間帯だけど、食欲は湧かないし、気持ちは晴れないし、何かに夢中になりたい。
私は下へ向かい、図書室を探した。
記憶の中の案内図を頼りに、どこにあったかを思い出し、頭の地図に現在地を重ね、最短ルートで進んでいった。
(入れるかな? あ、入れる……)
図書室を見つけた私は、ドアノブを回して中の様子を窺う。
そして室内で、椅子に腰掛け本を読んでいる人がいるのを目にした。
(わ、先客がいた……!)
てっきり乗船している人たちは全員、食事しに行ってるだろうと思っていたので、誰かがいるなんて予想していなかった私は、つい固まってしまう。
すると本を読んでいる男性が顔を上げ、入り口に立っている私に気付く。
「おや、そんなところで立ち止まられてどうしましたか?」
「いえ、なんでも……」
「夕飯を食べに来たのでしたら、この下のデッキでもらえますよ」
最初からここが目的なので、間違っていないのだが。
迷子とでも思われたのか、紺のスーツを着た男性にそう返される。
私は首を横に振ると、部屋の中に入っていった。
「本を読みに来ただけです。夕食に来たんじゃありません」
「ああっと、これは失礼しました。つい早とちりを……いけないいけない」
男の人は大袈裟っぽく言うと、私に向かって頭を下げた。
彼は開いていた本に栞を挟み、パタンと閉じる。
「では、私は一旦去ることにしましょう」
「……本を読んでいる途中だったんじゃ?」
「狭い室内に男女二人だけというのは、女性にとっては居心地が悪いでしょう。私は部屋に戻って続きを読みますので、どうかお気になさらず」
そう言って、彼は図書室を出ていこうとした。
しかし、彼が私の横を通りがかったとき、「ん?」と引っかかったような目を向けてくる。
「もしかして貴方、あのパペッティアと一緒にいる……いえ、忘れてください」
忘れてください。
そう言われた私は、けれどパペッティアという言葉が聞こえた瞬間、思わず目を丸くし、男の方へ振り返っていた。
「待ってください! あなた、何を知っているんですか!?」
「何を?」
こちらの声を聞き、男は足を止めて振り向く。
「変わったご質問ですね。私は、一般人が当たり前に知っている程度のことしか知りませんが。ご存知ありませんか? パペッティア事件というやつを」
あっけらかんとした態度で、男は問いに答える。
私はそんな男を見据える形で、真剣な眼差しを向けた。
「……質問を変えます。あなたはなんで私を見た時、『あのパペッティアと一緒』って言ったんですか」
「そんなの簡単ですよ。同じ船に乗っていますからね。誰が誰とよく行動を同じにしているかは、常に目で追っているんです。職業柄、そういうのを意識しがちなもので」
(職業? この人は一体……)
私が考え込むような目をして男を見つめる。
それに男は不敵な笑みを浮かべたあと、私が感じている疑問を察し、口を開く。
「初めまして。私、俺は……津越夜白。しがない新聞記者をやらせてもらっています」
「……新聞記者」
そういうことか。
今の言葉を聞いて、得心が行った。
パペッティア事件が起きた時、全国的なニュースになったという話。
全国規模でニュースになったのであれば、各社はその情報をこぞって集めたに違いない。
パペッティア事件が起きたのは今から数年前のこと。
記者として働いている人からすれば、直接扱った人も多く残っているだろう。
顔や名前などを色濃く覚えている人も少なくないはずだ。
「私はあなたと話した記憶もなければ、顔を合わせた記憶もないんですが」
「俺はそちらほど目立つ行動をしていませんからねえ。人というのは目に映るもの全てに意識を向けられる訳じゃないんですよ。マジックネイティブは記憶力が抜群に優れている〜なんて聞きますが、それで意識の死角を消せるとかじゃない。むしろ記憶力に頼りすぎな分、びっくりするような見落とし方をしたりする」
そう言って、皮肉めいた表情で笑う。
私の中で、彼への警戒心が一気に上がった。
(この人、こわい)
眉を寄せた私に対し、津越は一歩下がって話を続ける。
「おっと、怖がらせてしまいましたかね? 他意はないんです。しかしその反応……」
「なんですか?」
「いや。彼が世間でどう呼ばれているのか、知っているのだなと思いましてね」
津越は顎をさすりながら、一人頷く。
「人形使い事件のことを知っている方へ、事件の当事者である彼ともし近づく機会があったら、近づきたいかと聞いたことがあるんです。返ってきた言葉は、一様に否定的でした。なんでかは分かりますよね?」
分かるというのは、何をだ。
パペッティア事件がどれほど世間に影響を与えたか?
パペッティアが使った魔法の恐ろしさ?
ジッと睨みながら、私は言う。
「その話が私と、どう関係するんです?」
「普通の人は、他人を操る魔法が使える人の側になんていたくない。そう思うんです。けれど船の上で見られたあなたには、彼の側にいて怖がったり緊張しながら接する素振り、それが見受けられなかった。だから考えたんです。もしそんな人物の近くにいて、平気な人がいるとするなら、あの事件のことを知らない人か、親しい身内の誰かかと」
ぞくりと背中が強張った。
私はこの人と話したこともなければ、目を合わせたこともない。
こんな人が船に乗っていることも、今初めて認識した。
パペッティアの過去を知っているかどうかだって、ケイスケさん達にしか教えていない。
なのに彼は、一度も話していない私のことを、ほんの僅かな反応から読み取ろうとしてくる。
「前者ではないかと絞ってみたが、外れかな? 引っかかるところはありますが、まあ良しとしますか」
津越は手をパンと叩き、話を終わらせた。
「さて、そちらの疑問にはこれでお答え出来ましたかね。用がなければ俺は失礼させてもらいますが」
「……津越さんは、新聞記者だと言いましたよね?」
「名刺でもお見せしましょうか?」
「結構です」
ポケットから名刺を出そうとしたので、必要ないと断った。
彼が手を横に下ろしたのを確認したあと、私は口を開く。
「こんな状況に置かれても、記者としての活動を続けているんですか?」
「不思議ですかね? ま、会社の方はとっくに森の中で瓦礫になっているでしょうし、ネットも繋がらなくて紙も貴重。わざわざ記者として活動を続ける必要はない、とお考えになられてもおかしくはない」
首を傾けながら、津越は私へ語った。
今置かれている環境は分かっているようである。
私がそう思った直後、彼は目をギラせつかせ、全身を大仰に動かしながら力説し出した。
「しかし、私は人である前に記者です。三度の飯より話の種が好き。ゆえに、本社がどうなろうと、明日をも知れぬ世の中になろうと、そんなもの関係ない! 生き甲斐のない人生など死んでいるのと同じ。私は生きてる限りそれを集め、必要なだけニュースを作るだけ。それが全てなのだから!」
「は、はぁ…………?」
ある種の気迫さえ感じられるものだったけれど、私は彼の言葉に共感出来るところが微塵も感じられず、引き気味に眉を顰めた。
理解に苦しむ。
生まれてくる前からそういう生き物だったと言われたら、納得しそうな気はするが。
(ヤバい人かも……)
私が津越を見る目は、ガラリと変わっていた。
「なので、記事になりそうなネタがあれば提供してくれると助かるんですが」
「……失礼を承知で言いますけど、私、あなたのことが凄く苦手になりました」
「正直な物言いだ。しかしご心配なく。元来マスメディアとは情報に集るハエのようなもの。そうした生態への認識が甘い、自覚した上で飲み込んでいけない人は、若いうちにこの業界を去る。その程度の言葉ならむしろ可愛い方です」
津越は通路側に立つと、また不敵に笑った。
この人は、まずい。
放っておいたらケイスケさん、パペッティアのことだろうと記事にしようとする。
きっと、確実に。
そんな胸騒ぎがして止まない。
「津越さんは、そのためにケイスケさんの話も集めていると?」
「ええ。幸運なことに御本人から聞ける機会がありますので、色々聞かせてもらっていますよ」
引っかかる言い方だ。
自分が犯した過去の罪の話なんて、記者相手でもしたがるものじゃない。
パペッティア事件のことを話していたケイスケさんは、後悔に包まれたような雰囲気をしていた。
(無理やり聞き出そうとしたんじゃないの?)
この人から滲み出る嫌らしさも合わさり、そのまま受け取る気になれない。
「おや、何か納得いっていない様子ですね」
「信じられない幸運だと思ったので。運を操る魔法でも使ったのなら、信じられるかもしれませんけど」
「はっはっは。いいですねえ。そんな魔法が発見されたら是非、試してみたいところだ」
私が疑惑の目を向けながら放った皮肉に、津越はケラケラと笑う。
一頻り笑い続けた彼だが、笑い終えた途端にすんと、動きを切り替えた。
「ただ生憎なことに、俺は魔法を操る能力を磨く機会もなかった世代でして。三十路を超えて四十路に入ろうとしている人生の半ばなんですよ。だから運を操ったんじゃありません。実力で掴んだんです。運の良いネイティブ世代の方には、ピンと来ない話かもしれませんがね」
「……そうですか」
マジックネイティブだろうと努力が不要なんてことはないし、実力を大事にする意識は他世代と比べても変わりない程度にある。
理解出来ない話と思っているのなら、とんだ偏見。
いや、先に言った皮肉への応酬のつもりか。
「と、こんな話は別にいいんですよ。俺が言いたいのはつまり、記事を作ろうにもそれを埋められるだけのやつが不足していて困っているという話です。せめて『彼』を超えるようなネタが欲しいところですが」
「彼っていうのは、ケイスケさんのこと?」
「他に誰がおります?」
「記事にするつもりなんですね」
ネタを集めている、それを元に船内へニュースを流す。
そういった行動をこれから取るつもりだと、今彼は言った。
ということは、ケイスケさんの情報を集めているのもその一環かと、確認を取る。
「そこら辺は保留中って扱いですかね。『実はこの船の中にあの有名な事件の犯人が!』っていうのは衝撃的だと思いますが、一発目にそれを放ったら、後から撃つ弾の威力が減りそうですし。とりあえずは最終手段にしようかなと」
津越はうーんと唇を窄め、答えた。
最終手段?
つまり、津越にとって良いネタが見つからなかった時は、そのことを乗船してる人達に伝えるってこと?
そんなことをしたらケイスケさんは針の筵どころじゃ済まなくなる。
ただでさえ、この船を守ろうとしてザガムと魔法の習熟度を高めている最中なのに、守る相手からそんな目を向けられたら、ケイスケさんの居場所がなくなる。
「ふざけないで!!」
そう思った時、私は彼に怒鳴っていた。
津越は私が大声を上げたとき目を丸くしたが、微動だにしなかった。
「何もふざけていませんよ。パペッティアが船に乗っているのは事実なんです。数年前に中学生だった方が起こした事件ですから、顔を合わせても気付かない人は多いようですが、名簿にはしっかり書いてあります。俺が自粛しようとそのうち気付くでしょうよ。だから、それを活かす最高のタイミングを狙っているだけ」
「最高のタイミング……?」
「そうです」
良いところに疑問を持ってくれましたと、そう言わんばかりの声音で、津越は喋る。
「ニュースとはなにか? それは人々が知らないことを報せること。事件や事故など不幸なものから、誕生や進歩などめでたいことまで。知った者が知る前に戻れなくなる、時の刻印。それを刻むなら勿論、最も影響の大きい時期。これを私は、『最高のタイミング』と言います」
津越の目は、爛々と輝いていた。
それは彼の『生き甲斐』という言葉で、私の中にすとんと収まるものなどではない。
人を情報を通して変える快感を知り、虜になった者。
快楽に悦び咲くような顔だった。




