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坂井恭香こと坂井恭子は、19歳でスクリーンデビューした。
20歳の時出演した時代劇映画「おとっつぁ~ん」で、準主役ではあったが
顔のかわいさと、演技の高さを評価され若手女優として人気を得ている。
最初は映画ばかり出ていたが、最近はテレビドラマにも出演するようになり、
人気は高まる一方だった。
所属事務所は業界内では大きな力を持っている「ネクスト・プロダクション」だ。
俳優・タレント、歌手、など多くの芸能人が所属している。
恭子はまだ若手だがネクスト・プロでは稼ぎ頭の一人に加わっている。
この日、恭子は久しぶりのオフで、一人本屋に来ていた。
本屋に置いてある検索機の前で目的の本を調べていた。
―――はぁぁ、やっぱり本名で出してないのかなぁ。無いや…
「スガノマサル」 という作家名は検索しても出てはこなかった。
「スガノ」や「マサル」では出てくるが、どれかもわからず結局見つけられなかった。
しかたなくファッション誌を一冊買い、本屋を出た。
自宅マンションに向う途中、インテリア雑貨とカフェが合併している店がある。
カフェは通りに面しているが、片道一車線の車もあまり通らないような静かな所なので、
オフの日いつもそこでお茶を飲んでいる。
今日もテラス席に座り、秋の暖かい陽射しの中、買ってきた雑誌をテーブルに乗せ
パラパラとめくっていた。
読んでいる雑誌に当たっていた陽射しが、急にさえぎられた。
恭子が少し頭を上げるとテーブルの前に誰かが立っている。
そのまま顔を上げると
「よっ!」 マサルだった。
「こ、こ、こんにちは…」 どもりながら挨拶をした。
さっきまで本屋でこの人の本を探していたが、結局見つからずあきらめてカフェで雑誌を
見ていた。そんな中、現れた本人に恭子は少し慌てた。
「お茶かぁ~、優雅でいいね~」 マサルは突っ立ったまま言い、「んじゃ!」 と
立ち去ろうとした。
恭子はドキドキしながら
「一緒に、一緒にお茶…飲みませんか…?」 思い切って言った。
「ん?んーー、いいや。俺、金ねーから~。んじゃ!」
マサルは片手を上げて笑った。
「あっ、あ、わ、私ご馳走します!」
恭子は立ち上がってマサルを引き止めた。
いつになく積極的な自分に恭子自身が驚いていた。
「え!まじまじーーー?じゃ、座ろっと!!」 マサルは恭子の隣に腰をかけた。
「……」
隣に座られた恭子は少し顔が赤くなった。
「あっ、俺、ココアにしよ~っと」
「何か…何か食べますか?ここサンドイッチとかパスタもおいしいの」
マサルのお腹の空き具合を心配して聞くと、
「ええ!!いいのー?じゃぁね~」
マサルはメニューを見ながら(たらこイカいくらパスタ)と(カツサンド)を頼んだ。
マサルには遠慮と言う言葉は存在しないらしい。
「今日、平日なのに仕事は?OLだろ?」 マサルの問いに一瞬あせったが
「…今日は…設立記念日なの!会社の設立記念日で休み!!」 恭子は適当に言った。
「へ~、そうなんだぁ」 マサルはさして疑問も持っていないようだ。
今度は恭子が聞いた。
「マサルさんは?何してたの?」
「ぁあ?俺?散歩!」
「散歩?」
「ぁん?コイツと一緒に…」
マサルは左斜め上を指さし、恭子がその空間を見た。
「へっ…?」
「小蝿と~」
マサルの左斜め上には、小蝿が一匹軽やかに回転していた。
「なんかさぁ、家出てフラフラ散歩してたら、着いてくんだよ、コイツ…」
「……はぁ…」
恭子は口を半開きにしてポカンとマサルを見ていた。
「俺、臭いのかなぁ?3日くらい風呂入ってねーからなぁ。もう寒くなってきたから
家の風呂入るのも寒みーし、銭湯は遠いし高いから4日に1回くらいしか行かねーし!」
マサルのいう「家の風呂」はアパート敷地内の水道のことなので「水」しか出ない。
秋から冬の間、「家の風呂」に入るということは拷問に近い。
よって、夏が終わると次の初夏まで「風呂」は封印される。
風呂が封印されている間、バイトが終わると地元駅を挟み、マサルの家とは逆方面に
住んでいる友人宅の風呂を借りているが、その友人は今一週間の海外出張でいない。
帰ってくるのは三日後だ。
「臭うかなぁ~?」 マサルはそう言うと、恭子の鼻先に自分の腕をつけた。
ビックリした恭子だったが、子供のような無邪気さのマサルに恭子は笑顔になり
「ううん、臭くない…」 と答えた。
パスタとサンドイッチが来るとマサルはおいしそうに食べ始め、たまに通り過ぎる人に
(坂井恭香だ…)とチラチラ見られていたが、そんなことにも気づかず恭子は緊張しながら
一生懸命話をし、楽しい時を過ごした。
空が少しだけ朱色になった頃、席を立ち、途中まで一緒に家路に向った。
マサルは道の曲がり角に来ると、
「じゃ、ごちそうさんでした。俺こっちだから」 とアパートの方を指さした。
「…よかったら!よかったらお風呂、貸します!…けど…」
恭子はまた自分の大胆な発言に驚きつつマサルを見た。
「まじ?!……いやいや、やっぱそれはダメだ。女の子の部屋に入るのもためらうが
風呂を借りるなんて、それはできん!うん!」
マサルは腕を組み、自分でうなずきながら恭子に言った。
「だ、大丈夫です…お風呂場、カギかかるし、私襲わないから!それに、まだいるし…」
マサルの真上に飛んでいる小蝿を指さした。
恭子は自分でも何を言っているかわからないが、マサルに風呂を貸したいらしい。
マサルは自分の頭の上を見て小蝿を追い払い、
「い、いいの…?じゃ、お言葉に甘えて!あっ、恭子に襲われるなら俺別にいいよ~」
恭子はマサルの言葉に赤くなったが、その頬の赤さは夕日に馴染んでマサルには
気づかれなかった。
恭子のマンションは3階建てのセキュリティーがしっかりした高級マンションだった。
2LDKのその部屋はリビングが広く、ゆったりとしたソファセットが置かれ
オレンジとグレープフルーツを混ぜたアロマオイルのいい香りが漂っていた。
「すげーな、OLってこんなとこ住めんだぁ。やっぱ俺もOLやろーかなぁ」
マサルがブツブツ一人言を言っていると
「シャンプーとか勝手に使っていいですから」 恭子がバスタオルを渡した。
「おぅ、サンキュー。あっ、おまえ、覗くなよ~俺のナイスバディ」
赤くなる恭子を残し、マサルは鼻歌まじりにバスルームへ入って行った。
男性がこの部屋に入ったのは、マネージャーや事務所関係者以外ではマサルが初めてで
ある。マネージャーの坪井にバレたら大変だ。
まして、風呂を貸したなどと言ったら恭子の身は24時間体制で管理されるであろう。
坪井はスキャンダルをもっとも恐れている。
「スンゲーさっぱり気分だぜぃ!」 マサルがシャワーから出て来ると、
ソファに座りテレビを見ていた恭子がマサルの声で振り返った。
「キャー…」
マサルは上半身裸で首からバスタオルをかけていた。
「んなっ、なんだよ…風呂上りは暑いからしょうがねーだろ…」
そのままマサルはソファにドカッと座った。
恭子は目のやり場に困って 「な、なにか…の、飲む?」 立ち上がりキッチンに向った
恭子の背中に 「水でいいや~」 マサルが言った。
恭子は俯きながら冷たいミネラルウォーターをマサルに渡した。
「うめぇ〜この、水。俺んとことえらい違い!」
マサルは水のお代わりをした。
恭子が、マサルの出版されている小説について聞いてみると、
マサルのペンネームは「かんの ゆう」といい、純愛小説を書いているということが
わかった。
―――純愛…小説…?
恭子は心の中で少し笑ってしまった。
マサルは背が高く、がたいも良い。顔も身なりをちゃんとすればそこら辺の男性より
遥かにいい男だが、中身はがさつなのか子供なのか、わからないつかみどころのない
人間だ。そんなマサルがどんな純愛小説を書いているのか、やはり恭子は読んでみたい
と思い、翌日、撮影の合い間に本屋に行こうと考えた。
マサルが壁にかかっている時計を見た。
「いけね、こんな時間になっちまった。これからバイトなんだ。恭子ありがとな、
助かったぜ、風呂!」
マサルは立ち上がってTシャツに綿のシャツを羽織ると借りたバスタオルを丁寧にたたみ
恭子に渡した。
「また、来てもいいよ…お風呂…」
「え?うん、サンキュー」 マサルは口角を上げて笑った。
「あっ、そうだ。俺の携帯番号…恭子の携帯貸して」
恭子はマサルに自分の携帯を渡した。
マサルは自分の番号を押し、そのまま返した。
「登録しとけよ」
「私の番号…」
「いいよ、恭子の気分が向いてその番号押したら、その時恭子の番号がわかるから」
マサルはそう言い、部屋を後にした。
恭子はマサルを玄関で見送り、携帯に残された番号を登録した。
名前「スガノ マサル」 グループ「友達」
マサルは久しぶりの入浴で身も心もさっぱり気分で居酒屋「ピョンピョン」に向った。
頭の上の小蝿は、もう飛んでいない。恭子の家に置き土産にした…らしい…
そのころ、恭子は部屋の中で小蝿と戦っていた…




