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春深し頃君は訪なふ

作者: 佐野なずな

冬物のコートをクリーニングに出しに行くために、薄手の上着を着て家を出た。


以前、声を掛けた女性から連絡があったのは、昨日のことだった。


浮き足立つ気持ちを抑えきれずに、面倒だからと後回しにしていたコートをクリーニングに出すことにした。


車に乗り込み、駅の近くのクリーニング屋に行った。


行き交う人々の洋装も軽くなっており、半そでの人もいた。


季節の移り変わりの速さに歳を感じる。クリーニング屋に行くだけでは、なんとなく勿体ないような気がして、どこかへ行くことにした。


どこへ行く当てもなく、車を走らせているとスマートフォンの着信音が聞こえた。ぱっと画面を見ると、明日に会う約束をしている彼女だった。


路肩に車を止め、電話に出ると明るい朋子の声が聞こえた。


『あ、先生?先生、今大丈夫?』

「ああ、どうしたんだい?」

『昨日約束していたでしょう?あれ、今からじゃダメかしら?』


幸い、今日は特に予定はなかった。


「いいよ。ちょうど今車なんだ。拾っていこうか。」

『あら!本当?嬉しいわ!私今、こないだ先生に声を掛けられた駅前の喫茶店の前にいるの。入って待っていてもいい?』

「ああ、それなら10分ほどで着くよ。」


朋子は、薄い水色のワンピースを着ていた。その上から、白いカーディガンを羽織り、明らかにおしゃれをしていたようだった。


「先生、今日のお洋服どうかしら?」

「とてもよく似合っているよ」

「ふふ、でも先生の好みじゃないでしょう?」

「そんなことないよ。」

「嘘ばっかり」


朋子は、どこか嬉しそうな様子で助手席の窓から外を見ていた。


「着いたよ」

「へぇーここが先生の家?」

「家兼アトリエだね」


アトリエに使っている、2階の奥の部屋へ案内する。アトリエには大きなソファーが置いてあり、朋子にもそこへ座ってもらった。


「こうしてるだけでいいの?」

「ああ」


すでに朋子のスケッチは始まっていた。朋子の輪郭をなぞり、彼女を彼女たらしめているものを見極める。散々、立ったり座ったり、ポーズをとらせたりした。


少し遅い昼下がりの静寂のなか、鉛筆の走る音だけが響いていた。朋子は、その間何も言わなかった。


窓の外が暗くなってきたころ、ようやく満足できた。


「お疲れさま、今日はこれくらいにしよう」

「はぁーモデルって思ったよりも疲れるのね」

「お茶でも入れようか」

「そんなことより先生。」


朋子が手のひらをこちらに向ける。


「ああ、はい今日の分の報酬だよ」


あらかじめ用意していた札入りの封筒を朋子に渡す。


「ありがとう!ねぇ、また呼んでくださる?」

「もちろん。」


家まで送っていこうと言ったが、朋子は駅までで良いと言った。






その後、すぐに、朋子は線路に身を投げてしまった。






春が来ると、具合が悪くなる。花粉症になってしまったことも原因だろう。ともかく、冬から春にかけての不安定な季節が、どうにも苦手になってしまった。


筆が止まってから、1年になる。それでも、昔に描いた絵を売ることで、以前と同じ生活をしていた。


アトリエでコーヒーを飲みながら、書きかけのキャンバスを眺めていたら。着信が入った。


仕事先の山本君かと思ったけど、発信者の名前は、朋子だった。


『あ、もしもし先生?今大丈夫?』


あの日と同じ朋子の声だった。


『あれ?先生?』

「あ、ああ…」

『どうかなさったの?もしかして仕事中だった?』

「あ、ああ、ちょっとね、集中していたから…」

『あら、ごめんなさい。また後で掛けるわね』


いや、良いよと言い終わる間もなく、朋子は着信を切ってしまった。慌てて折り返したけど、その番号は使われていません、と繰り返すだけだった。


それからずっと待っていたが、朋子からの電話はなかった。


私は、朋子のスケッチをぺらぺらと見返した。







絵を売買することを専門とする商売人がいる。私は、絵描きであるから、その絵を売ってくれる商人とも仲良くしておかなければならない。


私が若いころから、ずっと親しくしてくれていたのが山本君である。


おととしから、筆が止まってしまった私のところをたびたび訪ねてくれていた。そのたびに、昔の絵を買ってもらっていた。


春先のころ、彼は病気を患い、長く入院することになった。私は、彼の見舞いに行くことにした。


家を出た瞬間、思いのほか暖かくて上着を薄手のものに変えた。


初期のガンが見つかったらしい。


もしかすると、余命いくばくの宣告があるかもしれない、と思っていたものだから深刻な状態ではないと分かると心底安心した。山本君自身も同じ心持だったらしい。お互い、もう病気のことを心配する歳になったなと、笑いあった。


その帰りのこと、運転中に着信があった。山本君かな、と思って画面を見たら、朋子からだった。路肩に車を止め、電話に出た。


『あ、先生?今、大丈夫?』

「ああ…どうしたんだい?’」

『この間の約束ね、あれ今日でも大丈夫かしら?』

「…ああ、かまわないよ。今日はもう予定はないんだ」

『あら!そうなの?じゃあ私、この間先生が声を掛けて下すったあの喫茶店のところにいるの。迎えに来てくださらない?』

「もちろん。今ちょうど駅前なんだ。」

『まあ!ラッキーね!先生、この間と同じ車?』

「そうだよ。」

『なら私、覚えているの!見つけるから、そこで待っていてね?』


言うなり朋子は電話を切った。


朋子は、来なかった。こちらから掛けてもやはり、この番号は使われていないと繰り返すばかりだった。


しばらく待ったあと、後ろ髪を引かれる思いで家に戻った。


アトリエのキャンバスに少し下描きをした。







「ねぇ、先生。先生は、このお洋服が好きなの?」


アトリエで絵を描いていると、ふいに朋子の声が聞こえた。


はっと顔を上げるが開け放しの窓から暖かい風が入り、カーテンとモデルに着させる柄物のワンピースが、ふわりと揺れているだけだった。


あのワンピースを、朋子が着ることは結局なかった。あの日、朋子が来ていた水色のワンピースよりも、よほど朋子に似合っていただろう。


新しいキャンバスにまた下描きをすることにした。






“磯部半生、初の美人画”


そう山本君は意気込んだ。

表題を聞かれて、寸の間考え『春深し頃君は訪なふ』にしようと決めた。


来年の晩春にも、彼女は私を訪ねてくるだろうか。





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