「番外編」入江部長の憂鬱・2
次の朝、夕べの悪夢のせいで朝からクタクタだった。布団から這い出るようにして、やっとの思いで洗面所まで辿り着き顔を洗った。タオルで顔を拭いて何気なく鏡を見ると、髪がなんだか薄くなっているのに気付いた。毛量が明らかに少ない!何なんだこれは!さらに鏡を見ていると、また違う変化があるのに気付いた。
む、胸毛が!!!
今まで胸毛なんかほとんど無かったのに、一夜にしてモッサリ生えていた。何故だ!何故なんだー!
朝飯を食べる気分でも無かったので、今朝はいつもよりだいぶ早い時間の電車に乗って会社へ向かった。電車に揺られながら夕べの悪夢を思い出した。あの化け物タヌキがクリームを塗っていたのが頭と胸。髪が薄くなり胸毛が生えてきた。この毛量の変化は、やはりあの化けタヌキが関係しているのだろうか?確か何か言ってたな。「悔い改めよ」とか。何をだっつーの! 俺は28年間、必死で働いてきて家族を養ってきたんだ! 悔い改めるどころか、表彰されてもいいくらいじゃないか!
ムカムカしてると腹が痛くなってきた。会社に着くとトイレに駆け込んだ。朝早いのでまだ誰もいない。しばらくすると声が聞こえてきた。声の感じからすると、うちの課の小林君と黒崎君だ。例の今時の若い連中だ。
「入江部長だろ? ほんとムカつくよな!」
「マジ、ムカつくよ。君たちの意見を言ってくれ、とか言っといて、俺たちの案なんか全く聞いてない。で、結局自分が決めてた案でやってるし。それじゃ俺たちいなくていいじゃん!」
「そうそう! それにこっちは必死で仕事終わらせたっつーのに、定時で帰ろうとしたら聞こえるようにイヤミ言ってくるしな。あんなもん、長々やってる事じゃないだろっつーの!」
「どーせ、仕事以外の居場所とか持ってないんだろ。自分と同じ境遇にしたいだけなんだよ。」
「そーだろな!つまんねー人生だよな!仕事だけなんて。」
「だっせーな、あれじゃ嫁どころか子供にも嫌われてるよ。」
…酷い言われようだ。もちろん好かれてるとは思ってなかったが、あそこまで言わなくていいんじゃないか!腹の辺りから怒りがムラムラと込み上げてきた。その日は一日、普段よりもかなりきつく部下たちにあたった。どうせ嫌われてるんだ! むしろこっちこそおまえらなんか大嫌いだ!
仕事終わりに、なんとなくまっすぐ家に帰りたくなかったので、一人で立ち飲みの店に行って一杯やった。そして当て所なく足の向くまま歩いた。ビルの合間から眩しい光が射していた。行ってみるとフットサル場があった。若者が楽しそうにフットサルをしている。よく見ると、うちの課の小林と黒崎がいた。あいつらこんなとこでノンキなもんだ!遊んでばかりで、どうせ出世なんかせんぞ! イライラして見ていたが、あいつらは本当に楽しそうだった。仲間で盛り上がっていた。キラキラしたいい笑顔をしていた。なんだかやるせない気分になって家に戻った。相変わらず妻はソファに寝転び韓国ドラマに夢中で、娘と息子はスマホをいじっている。風呂は空っぽ。かろうじて夕食はテーブルの上にあった。
その晩もタヌキは夢枕に立ち、頭と胸にクリームを塗って去って行った。
「悔い改めよ。」
と、言い捨てて。
タヌキの攻撃は毎晩続き、精神的にもかなりやられてきた。頭がボーっとして何も考えられない。気が付くと、かなり髪の毛が薄くなった。ハゲが近い。それに反比例して胸毛はすごい。洗面所の鏡をまじまじと見ると、なんともしょぼくれた中年の姿がそこにはあった。イヤミなダサいおっさんだ。我ながら悲しくなってきた。俺という人間は、こんなヤツだったか? 若い頃はかわいい女の子を射止めようと、ファッション雑誌を見てオシャレを研究していた。髪型も気にしていた。体型も流行の洋服が似合うように鍛えていた。それが何だ!このたるんだ体は! イヤミばかり言ってきたせいなのか、口角も垂れ下がっている!
顔を洗い、リビングに行くと、すでにソファは妻に占領され韓国ドラマが映し出されていた。そういえば今日は日曜か。ダイニングテーブルに座り、妻の後ろからしばらく韓国ドラマを見てみた。美しい女性と、その女性を守るナイト役のかっこいい俳優が出ていた。妻がうっとりしてハマるのも分かる気がする。実際の相手の俺から現実逃避しているんだな。
俺の望んだ未来って、こんなだったか…。
部下には嫌われ
家族には愛想つかされ
休日に付き合ってくれる友達もいない
趣味もない
なんて面白みのない人間なんだ!
タヌキに「悔い改めよ」って言われるのも無理ないかもな…。寝不足で気も弱くなってきたせいか、そう思うようになってきた。
月曜の朝、新しい企画の会議をする予定だった。課の連中がいつものように会議室に集まってきた。
「今回の企画だが…。」
俺は言い始めて、何故かふと違うことがしてみたくなった。
「今回は、私抜きで自由な発想で意見を出してもらえないか?私は後ろで聞くだけにさせてもらう。」
課の連中は、どうしたんだ?と言わんばかりに顔を見合わせている。俺は続けた。
「今まで…言いにくいのだが…私は君らを信用してなかったと思う。どうせ失敗するんだから、やり直しになるんだから、それだったら最初から私の案でやった方がいいじゃないか…と、正直思っていたんだ。本当にすまなかった。」
俺は深々と頭を下げた。
皆、驚いていた。
「このままでは、いけないと思ったんだ。私は変わろうと思う。みんな協力してくれないか?」
俺は頭を下げたまま言った。
今までは、こんなこと考えもしなかったが、何故か今すごく気持ちがいい。すると信じられない事が起こった。みんなが立ち上がって拍手をし始めた。思いかけず目頭が熱くなってしまった。
会議は進行し、俺は後ろでメモを取りながらみんなの話に集中した。今まで聞く気が無かったせいか、こんなに各々いろんな意見を持っているとは正直驚きだった。特に今までバカにしていた若い連中の意見は斬新だった。危なっかしいところもあるが、そこは熟練連中でカバーできる。何故こんな人材に恵まれていたのに生かせなかったのかと、心から反省した。
そうだ! もう一人謝らなければいけない人間がいた。俺はその男に電話をかけた。
「あー、もしもし、カツラギコーポレーションの入江ですが…。」
休憩中、コーヒーを飲んでいると、小林君と黒崎君がやってきた。
「部長…。」
「君たちも飲むか?」
俺は二人にコーヒーを渡した。
「すみません! 自分たち、部長の事を誤解してました。」
二人は頭を下げた。
「いや、いいんだ。謝らなきゃいけないのは、私の方だ。」
二人は笑顔で俺を見た。
「ちょっと二人に相談なんだけど、いいかな…?
その夜もタヌキはやってきた。しかし今夜は様子が違った。クリームも塗らないようだ。
「悔い改めたようだな。」
タヌキは言った。
そして俺に向かってニコーっと笑い、姿を消した。
次の朝、鏡を見ると、抜け落ちた髪は元通りになり、胸毛も消えていた! 一体あれは何だったのだろう!
 




