血塗られた手
「神よ。いま御許に参ります……!」
老いた体をベッドに横たえて、私は一人そう呟いた。
もう目も見えない。
船出の時が来たようだ。
全身を侵した病の痛みも、今はボンヤリ遠くの事の様だった。
闇に閉ざされた視界に光が降りそそいで来た。
大いなる御手の導きを感じる。
私の体が、フワリとベッドから浮かび上がった。
光の方から降りて来た、あどけない顔をした何人もの天使たち。
彼らに導かれて私が旅立とうとした、だがその時だった。
ぎゅっ!
誰かの手が、私の背中を掴んでいた。
「神父様。わたしを置いて行ってしまいますの?」
「わー! きみはシスター・クリス!」
声の方を振り向いた私は、悲鳴を上げた。
背中から私の僧服を掴んでいたのは、血塗れのか細い女性の手だった。
私を呼び止めたのは、尼僧姿で寂しそうな顔をした一人の女。
若い頃、私と道ならぬ恋に落ちたシスター・クリスだ。
私との関係に悩み抜いたあげく、カミソリで手首を切って自身の命を絶ってしまった女性だった。
「お願い神父様。わたしと一緒に居て……」
シスターの青い瞳が、悲し気に私を見つめる。
私は残りの一生を捧げてシスターの救済を神に祈ってきたのに。
天国にも行けず、いまだに辺獄を彷徨っているのだろうか?
「どうするの? 行くの? 行かないの?」
私の周りをパタパタ飛びかいながら、けげんそうな顔の天使たち。
「うぅうぅうぅ……」
私は声を詰まらせる。ここまで来て神の手の導きを拒むことができるだろうか? だが……
「悪かったシスター!」
がばっ!
天使たちをフリ切って、私はシスターの魂を思い切り抱きしめた。
「きみだけを苦しめて殺してしまった。私の手もまた血塗られていたというのに! きみ一人救えないで何が神父だ!」
「神父様。うれしい!」
シスターもまた、血塗れの手を私の背中に回す。
「あーあ。もう見てらんない。好きにすれば?」
「ときどき様子を見に来るからね? 気が変わったら言ってね?」
天使たちが呆れ声で、私とシスターの元から飛び去って行く。だが後悔などあるものか。
「さあクリス。共に行こう地獄へ。きみとだったら何処へだって……」
「あら、大げさね神父様?」
クリスが私の背から手を放して、ニッコリと微笑んだ。血塗れだったはずの彼女の手が、いまは清浄そのものだ。
「ん。その手は!?」
「ま、わたしも演出過多でしたけどね。あなたの気を引くための『演出』が……」
シスターが私を見上げて、悪戯っぽくペロリと舌を出した。
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それからの私たちは、天国にも地獄にも行かなかった。
生者の主がいなくなった教会に住み込んで、この世を彷徨う魂たちの愚痴を聞いたり、住む家の世話をしたり。
このごろは道端で凍えそうになっている浮浪者に、犬たちの体を借りて暖かい甘酒缶を配って回ったりしている。
まだ生まれたばかりで命を落とした子供たちの、迷子の魂を探して天使たちに届ける仕事も始めた。
いわば幽霊の「ボランティア」みたいなものだ。
生前よりは不自由だが、お金や形式や格好を気にしなくていいので、けっこう性に合っているかもしれない。
「なるほど、こういう理由だったのか。きみがココに残っていたのは……」
礼拝堂の木椅子に並んで腰かけて、私はクリスの魂を見つめる。
「ええ神父様。あなたならきっと気に入ると思ったの。天国でノンビリしてるより、よっぽどあなたらしい仕事でしょ?」
私の方を向いて、クリスはそう答える。
「…………!」
私は一瞬、声を詰まらせた。
ニッコリ微笑んだ彼女の頭の上で、ボンヤリ輝く金色の輪っかが見えた気がしたのだ。




