scene:越境
scene:越境
扉は一切の装飾に頼らず、寧ろ原始的な佇まいを見せている。柱から貫が飛び出していない、反りのない鳥居……例えるならば神明鳥居の中に二枚の扉を嵌め込んだような物だろうか。触れてみると天然石らしい冷たさが感じられたように、見た目通りの大理石なのかも知れない。そんな扉に開かれた間口は、縦20メートル、横15メートルに及び、大概の物ならば通過出来るだろう大きさに見えた。
時刻は深夜の二時。僅かな月明かりに照らされて……と詩的に表したい心持ちながら、実際は眩しいほどのサーチライトに当てられた扉を前に、テオドールは立っていた。背負った荷物は少ない。恐らく事が露見するまでの時間は持って数分である。
「急ごう、時間がない」
無線機を片手に急かしたヴァレリーがテオドールの方へと近付いて行った。
「あぁ。でも、この扉の向こうに異世界が在るかと思うと、不思議な気分だ」
感動する、興奮する、と言い掛けて誤魔化したテオドールにアニエスが賞賛の言葉を投げ掛けた。
「きっと、初の試みになると思いますよ」
「いや、我々は、我々の理論を証明しようと言うだけだよ」
「そうだッ、上は分かっていなんだッ」
恐らく用無しとなったであろう資料の束を地面に叩き付けたギュスターヴが声を上げた。
「漸く術式の正体も掴めようと言う時だったのにッ。どうしてプロジェクトが中止にならないといけないんだ?!」
「落ち着けよ」
状況が状況だけに今更な愚痴を聞くつもりもないレオナールが窘める。
「お前らだって納得出来ないから、こんな事をやろうってんだろ?」
善人を装った物言いも、所詮は違法な行為をよく見せているだけの詭弁である。正しかろうと、悪かろうとも、いち研究員らがスポンサーや後援会などの管理組織の意向を無視しているのだ。善悪はなくとも、職業倫理には違反している。
「……だが、実験しなければデータを得られない段階でもあった筈だ」
「いいや、違うね!」
方便を重ね、弁解するレオナールは、学術的に必要な検証だと告げるも、それは欺瞞だとギュスターヴに指摘された。
「お前らもプライドが許さなかったんだろ?!」
散らかった資料に八つ当たりするような地団太を踏んだギュスターヴが、異論は認めないと言いたげに諸手を大きく振り回した。
「そんな私達は……」
ギュスターヴの穿った言葉を否定しようとしたサロメが口籠った。
「違うって言いたいのかッ?」
「怒鳴るな、時間もないんだぞ。ここで揉めてどうするんだ?」
仲裁に入ったヴァレリーが、怒鳴った勢いのまま、今にも殴りかかろうかと言うほどの剣幕のギュスターヴとの間に入った。
「お前の気持ちも分かる。確かに僕達は蔑ろにされた。向こう側の協力者が現れたと言う理由で解雇されたようなものだからな」
「当たり前だッ――――俺達の研究が、術式と扉の解明に繋がるものだと言って置きながら、そもそも向こう側の奴らが信用出来ないからと、独自に研究機関を立ち上げたってのに、協力者が現れたら直ぐに解雇だと!?」
納得出来る訳がない。恐らく政府は単純な協力体制を整えただけでなく、何らかの交渉を行っただろう事は想像に難しくない。否、或いはもっと野蛮な方法で協力を得た可能性も考えられた。
だからと言って、今までの研究が無駄に帰す訳でもない。現に扉の構造物の正体を解明するに当り、否応でも術式と呼ばれる理論に触れる他なかった。向こう側との協力が不可能だった為、独自に研究と調査を進めた結果、昨今の問題――扉の出現と共に悩まされている向こう側の侵略者への対抗策も考えだされつつあった。
「好い加減にしてッ」
業を煮やしたアニエスが堪らずに声を上げる。こんな事をしている場合ではない。時間が惜しい。何よりも、文句を言うギュスターヴが身体を張る訳ではない。本来、使う事も叶わない術式を適応し、扉を使おうと言うのはテオドールなのだ。
犠牲とは言えないまでも、明らかな人体実験に身を窶す事に考えが及ばないのだろうか。恋人を送り出さなければならない自分の気持ちが理解出来ると言うのだろうか。叶う事ならば一緒に異世界へ赴きたい。仮にこの理論が照明されず、扉の形となって目に見える国境線に押し潰される事になったとしてもだ。
「急ごう。何時、警備が来るか分からない」
緊張しつつも、ひとり冷静に言って見せたテオドールは、少しばかりの荷物を背負い直すと、改めて扉の前に立った。
その時だった。耳を劈くけたたましい音が鳴り響き、赤い閃光が森を抜けて辺りを照らし出した。ほぼ予想通りの警備の集結。規模こそ知れないものの、急がなければ、人体実験を試みようと決めた覚悟さえ無駄に終わる。
「銃声だ!」
木々に跳ね返った銃声はまだ遠い。恐らく威嚇射撃だろう。慌ててモニターを確認するサロメ。周囲を警戒し始めるレオナールとギュスターヴがやや姿勢を低くし、大した威力もない拳銃を構え、最低限の迎撃態勢を整える。ヴァレリーはアニエスと共に仮想空間装置の代替装置を急ぎ起動させると、扉の術式を励起させようと複数のパラメータを確認し合った。
夜の冷たい空気が自らも羽撃くような音から、ヘリコプターまで導入されているだろう事が想像出来た。警備に何度か特殊部隊の参加を見ていたものの、今回も要請が届いているのかは分からない。が、悠長に構えている暇はなさそうだった。
銃声が続く。確かに規約違反だろう。扉の研究内容が他国へ渡る事は避けたいのも理解出来る。が、やはり銃を持ち出してまで防ぎたいものだろうか。もし、自分だけが扉の向こうに赴いた後、残された仲間達の安全が保障されない可能性もある。
急に不安に駆られたテオドールが皆を振り返ると、アニエスがにっこりと微笑み、唇だけを動かし、大丈夫だと告げてきた。傍らのヴァレリーも強く頷き、サロメもぎこちないながらも笑顔を作る。ギュスターヴも先ほどの悶着がなかったかのように振る舞い、頑張れと言いたげに拳を突き出してきた。
「分かったッ」
皆の声援を受けるような形ながら、扉と向き直ったテオドールは、近付く銃声やヘリコプターの音に煽られ、且つ人類史初の試みになるだろう術式の利用による異世界への移動を前に緊張する。
仮想空間装置に代えた装置が輝き始め、機械的に再現された術式が唸り声を上げる。一方で一際な銃声が弾け、圧を感じられるほどに強力なサーチライトが森の中から飛び出してきた。と同時に複数の人影が走り抜け、駆け寄ってくる中、レオナールが悠然と立ち上がった。
「……テオドール」
光に包まれるテオドール。術式が発動し、ただ開き、向こう側と繋げるだけとは異なる反応を見せ始める。
「しっかりデータを残してくれよ?」
レオナールが横で跪くギュスターヴのこめかみに銃口を突き付けたかと思えば、引き金を引いた。吸い込まれるように扉へと誘われるテオドールは困惑した。意味が分からない。一体、何が起きたと言うのだろうか。理解出来ない、が、目の前で起きた事は確かに見えた。
レオナールが軍ではない襲撃者にまるで相手にされない中、否、仲間然とした雰囲気を醸し出したかと思えば、ギュスターヴの頭を銃で吹き飛ばした。次いでヴァレリーを撃ち、サロメを狙撃した。二人との距離が開いていた所為か、即死には至らなかったものの、突然と見舞われた衝撃と激痛に地面の上へと転がってしまった。
「止めろ……」
扉が完全に開き、光が歪み始めた。まるで帯のようにのたうち回る光がテオドールの足を掴み、扉の向こうへと引き摺り込む。もう引き返せない。そんな絶望が頭の中を過るテオドールの前で、レオナールはアニエスを撃ち殺した。