シャルカの弓
走り疲れたセトとローが戻ってきた時には、陽はすっかり高くなっていた。
今日は古森の民にとっての休息日。
普段は仕事のため、朝早くに家を出るローの弟妹も一堂に会している。ただ、ノンナの姿だけはなかった。
原野に休息日というものはなく、あえて言うなら雨の日がそれにあたるのだが、古森の民は週に一度、一切の仕事の手を休めることが古木の巨神の教えにより定められているという。
この平野の暦では、星々の運行を司る六人の女神の名になぞらえた六つの曜日があり、一週間は六日である。
古森の民は五日働き、五日目の夜に家族総出で料理を作り置くなどして休息日に備える。そうして六日目には外で働く男ばかりでなく、家にいる女も等しく休めるようにするのだと。
兄弟、特に成人し島の男社会で生きてきたセトには、この感覚もまた大きな驚きだった。
郷母はセトの頬に軟膏を塗り終えると、繰り返し頭を下げる。
「重ね重ね申し訳ありません、セトさん。面倒ごとに巻き込んでしまって」
「いえ、こちらこそ遅参をお詫びしなければ」
「とんでもない! 大きなお怪我がなくて本当に良かったわ」
「すみません、門前を汚してしまい……郷の中で剣を抜くなど、古森の教義に反したでしょうが、」
そんな調子で兄も頭を下げ返す。大恩ある郷母にはきっちりと礼儀を尽くすセトである。しかしそれ故話が進まず、辞儀の連鎖にはまりつつあるふたりに、ローがぱたぱたと手を振った。
「いつまでやってんだよ。ほらセト、料理が冷めちまうじゃねぇか。シャルカ、待ってなくていいから食え食え」
そう言って蒸し鶏にかじりつく息子に、郷母は呆れたように息を吐き、茶を入れるため腰を上げた。
兄の手当てが終わるのを待っていたシャルカは、ふたり分の麵麭に気に入りの果蜜を塗りつつ、そうっとローを窺う。
「あの、聞いても良いですか? この郷は水を買う必要がないんですよね? ならどうして水源の民がここに……何だか随分怒ってたみたいですけど」
途端、卓を囲むドット家の面々にほのかな緊張が走った。双子の姉妹は顔を見合わせ、父と弟達はちらりと目配せしあう。聞いたらまずいことだったのかとシャルカは首を縮めた。
ローは食卓を包む微妙な空気を払拭するよう、朗らかに笑って見せる。
「それはまた改めてな。今はひとまず飯だ飯! その蒸し鶏食ってみろ、アインの作るソースは絶品だぞ」
「は、はい」
シャルカは肩を落としたが、手にしていた麵麭を横からひょいと取られ、その行方を目で追った。手当を終え隣にやってきた兄は、口の中の怪我など気にせず大口で頬張る。そしてシャルカと目が合うと、軽く眉を跳ね上げた。
気にするなと言いたいのだろう。
雰囲気を重たくしてしまったことも、この郷の事情も。
兄弟はあくまで郷の客、部外者だ。傭兵達と一戦交えたことで巻き込まれてしまった感はあるものの、あれは原野の戦士に興味を示した荒野の傭兵達との間で起こったこと。この郷と水源の民との関係とはまた別の話である。
郷の者達が話せぬと言うのなら、部外者のシャルカがいくら気にしたところで仕方のないことなのだ。
「はい、あに様」
シャルカは素直に頷いてから、深いため息とともに目を伏せる。
「そもそも、ぼくが油断して帽子を忘れなければこんなことには……ごめんなさい」
「いや違ぇってシャルカ、郷ン中じゃ帽子は要らねぇっておれが言ったんだしよ。オマエが気にすることはなんもねぇよ、むしろごめんな」
ローは身を乗り出しフォローしたが、シャルカはそんなローと兄を交互に見、皿の上に目を落とした。
「ローさんもあに様も、ちょっと通りを渡るだけの外出でもちゃんと帯刀してたのに……毎晩来てくれる露払いの方達だって、皆……気を緩めてボーっとしてたのはぼくだけです。自分の子供さ加減がいやになります」
クラライシュ郷の人々が当たり前のように接してくれるので、シャルカは自分の見目のことをつい忘れかけていた。ここで過ごした五日間――ほぼ室内で過ごした日々ではあるが――忌み嫌われていた過去を霞ませてくれるほど、シャルカにとっては穏やかで満ち足りた時間だったのだ。
この色のせいで散々騒動を起こしてきたのにと噛みしめた唇に、大きくちぎった麵麭が押しつけられた。こってりと塗られていた果蜜に口周りを汚され、シャルカは真っ赤になって犯人を睨めつける。
「いきなり何するんです、べたべたになっちゃったじゃないですかっ」
「お前がこんなに塗りたくるからだろう、甘くてかなわない」
同じく果蜜まみれの唇を指で拭いつつ、兄はしれっとのたまう。
「だっていっぱい塗ったほうが美味しいじゃないですかっ」
「お子様舌め。お子様ならお子様らしく、あまりごちゃごちゃ考えるな」
「お子様お子様言わないでください!」
「なぁお子様よ、それ責任持って食ってくれよ? たくさん食わないといつまでも大きくなれないぞ」
「おいちょっと待てセトよぅ、今の最後の一言おれの方見て言わなかったか?」
「別に……」
「今目ぇ逸らしたろ! 上等だ、もっぺん表出ろぃ!」
兄弟喧嘩だったはずが、いつしか兄とローとのお決まりの諍いにとって代わる。
落ち込んだ自分に対する兄達なりの気遣いなのだとシャルカが気付いたのは、ローが妻・アインからデコピンを食らったあとだった。
「もぅ、話が進まないのはあなたの方でしょー? 今日こうしておふたりに来てもらった理由、ちゃんとお話ししたの?」
「あ」
「話してないのねぇ、ローちゃんったら」
アインはにこにことまろやかな口調で話しているが、その笑顔の裏に見え隠れする怒気たるや、傍らの兄弟でさえ無意識に肩寄せ震えあがるほどだった。
前にノンナが言っていた、「古森の女の役目は男の尻を蹴っ飛ばすこと」だというのは本当らしい。
ローは取り繕うように咳払いし、兄弟に向き直る。
「あー、いやな? ふたりにはノンナもおれも助けてもらっただろ? だからよ、何か礼ができねぇかなって色々考えたんだよ」
「礼? あんな大きな宴を開いてもらった上に、今もこれだけ世話になってるんだ、これ以上そんな……」
郷から空き家を無償で提供されている上、ドット家からは食事などの生活に関わる様々な面で世話になっており、兄弟はむしろこの現状が心苦しくなりつつあった。
セトがそう伝えると、
「なぁに水臭ぇこと言ってんだ、言ったろ? 古森の民は『恩には恩を三倍返し』。おれら兄妹ふたり分の命を救ってもらったんだ。お前らさえその気になってくれンなら、この郷に根ぇ下して欲しいくれぇだ」
「根を下ろす?」
ローの言葉に、シャルカはきょとんと小首を傾げた。
「そんなこと急に言われたって、おふたりだって困るでしょう? そういう話はもっと郷のことを良く知ってもらってから。まずはほら、ね?」
茶器を手に戻ってきた郷母に諭され、ローは鼻の頭を掻きながら告げる。
「それもそうだよな。えっとな、ノンナから聞いたんだ。シャルカが弓を欲しがってるって」
確かにシャルカは牢の中でノンナに話していた。
弓を手に入れて、訓練して、一刻も早くあに様と共に戦えるようになるつもりだと。
「だから、良けりゃシャルカに合わせた弓と矢の一揃え、作らせて貰えねぇかなって」
「本当ですかっ?」
シャルカは目を輝かせた。
出来合いの弓を買うこともできるが、体格や力量に合わせて作られた弓とはやはり扱い易さが違う。けれど注文し作るとなると費用が段違いにかかるので、シャルカは兄に弓が欲しいと言い出せずにいたのだ。
それに、あんな緊迫した状況下で何気なく話したことをノンナが覚えていてくれたのもまた、シャルカにとっては嬉しい驚きだった。
「それは有難い申し出だが、ロー……そんな高価な物、」
セトは難色を示したが、ローはにんまり笑って双子の妹達を目で示す。
「なぁに大丈夫だ、作るのはコイツらだからな」
兄弟は揃って双子を見やった。一足先に食事を終えていたダーナとラーナは、揃って手をひらひらと振る。
「アタシ達、鍛冶屋で働いてるんだ」
「鍛冶屋と言っても、この郷の露払いが使う物なら、双剣や矢尻から弓自体まで何でも作っちゃう鍛冶屋なの」
「武器工房って言った方がしっくりくるかもね?」
「古森の郷では、女性が武器を作るのか?」
思わずぎょっとして尋ねたセトに、ダーナは好戦的に目尻を上げる。
「なぁにお兄さん。まさか『女が触ると鉄が穢れる』とでも?」
セトは大急ぎで頭を振った。
「そうじゃない、女性が武器を作るなんて……鍛冶屋じゃ周りは刃物だらけだろうし、炉もあったりするんだろう? 万が一顔に怪我でも作ったら大変じゃないか」
本気で心配そうなセトの言葉に、双子は顔を見合わすと、ころころと声を上げて笑った。
「原野の女達は随分大事にされてるみたいだね」
「こちらとは違うやり方でね」
何故笑われるのかときょとんとするセトの肩を、ローが手を伸ばして叩く。
「心配すんなぃ。ふたりはまだ若ぇけど、鍛冶屋の主の爺さんが結構な歳でよ。もうすぐ引退してふたりに店継がすってんで、技術は叩き込まれてる。勿論爺さんの方にも監督してもらいながら作らせるつもりだ」
「いや、そういう心配をしているわけじゃ……」
「シャルカ自身はどうだ? コイツらが作る弓じゃ不足か?」
金銭的負担を慮って煮え切らないセトを飛び越し、ローは直接シャルカに尋ねる。シャルカは兄の顔色を伺いながらも、素直な気持ちを口にした。
「その……知らない職人さんに作ってもらうよりも、おふたりに作って頂けるのなら本当に嬉しいです。きっときっと大事にします! 島の弓とは違うでしょうから、ちゃんと扱えるように、ぼく一生懸命練習します!」
「ぃよぉしっ、決まりだな!」
ローは景気よく指を鳴らし、双子は再び顔を見合わせ嬉しそうに微笑む。それからセトが何か言い出す前にと、ダーナはセトに向き直り矢継ぎ早に言う。
「そう、それでねお兄さんソコなんだ! 原野の弓ってこっちで使う弓とは随分違うんだよね? シャルカが島で使ってたのも、お兄さんが持ってるのと同じような弓なんだろう? 特徴とか材質とか、現物を見せてもらいながら色々聞きたいんだけど」
「ちょっとでもそちらの弓に近づけた方が、馴染みやすいかもしれないの」
「見せて!」
「見せて欲しいの!」
そっくり同じ顔、同じ声で同時に迫られ、セトは眩暈を堪えるように額を押さえ立ち上がる。
「わ、分かった、今取ってくるから……」
「なるべく早くね!」
「お願いしますお兄さん!」
勢いに任せて承諾させてしまった兄を、シャルカは少し不安気に見上げた。目が合うと、兄は口の端で苦笑して、金色の頭にぽんと手を乗せた。
「これは……竹、だよね?」
「こっちで見る竹とは随分違うようなの……」
セトが弓と矢筒を手に戻ってくると、食卓から居間へ場を移し、早速弓の見分が始まった。ローの弟達は何度か夜に訪れていたため目にしていたが、よくよく見るのが初めてな双子、そして元露払いであるという父親は、原野の長弓を食い入るように見つめる。
室内では自在に取り回すことさえ困難なほど長い弓丈。白く艶のあるそれは軽く、竹であろうことは見て分かるものの、色やしなり方など、古森に住む彼らの知るどんな竹とも違っているのだ。
セトは郷母が淹れてくれた茶を啜りながら言う。
「原野竹を使っている」
「原野竹、」
「あぁ。原野の西方、泥の原と岩盤の大地の境に生える竹だ」
常に泥が流動し続ける原で、何故植物が同じ場所に留まり続けていられるのか。
それは原野の植物が皆、弾力に富む長い根を、泥下の粘土質の地層まで下ろしているからだ。泥の流れにも切れぬ丈夫さから、原野では浮島を編む際の結わい紐として使われている。
そしてその原野竹も粘土の地層に根を張り、泥中から空へとまっすぐに生えている。
「弓に使うのは泥中の部分、だからこんなに白いんだ」
「何でわざわざ泥に埋まってた部分を?」
「重い泥の流れにへし折られぬよう、空気中に顔を出している部分よりも頑丈で良くしなう。それを刈り取り、湿度を一定に保った専用の小屋で、年単位でじっくりと乾かして……」
「年単位!」
「普通の竹弓じゃなかったのか、だからあんな飛ぶんだな」
原野の――というより弓島の――弓の秘密に触れ、目を白黒させる双子の横で、ローは感心しきりで頷いた。
「でもそうなると無理だねぇ、同じ材料で作るのはさ」
「できればシャルカが使いやすいよう、似せた物を作りたかったの……でも、」
すまなさそうにする双子に、シャルカはぶんぶんと首を振り、それから両手を胸に宛がい目を伏せる。
「とんでもないです! ……原野と同じ弓じゃなくても良いんです。ぼくはこのクラライシュ郷が大好きです。ローさんも、皆さんも。皆さん、こんなぼくにもとても親切にしてくださいます。だから、この郷で作られた弓なら……ダーナさんとラーナさんが作ってくださるこの郷の弓なら、本当にとっても嬉しいんです」
「シャルカ……」
双子は感極まった表情で、左右からぎゅっとシャルカを抱きしめた。
「嬉しいこと言ってくれるねぇ、魂込めてとっときのを作ってあげるからね!」
「古森の短弓にも幾つか種類があるの。色々使ってみて、シャルカに合う弓をじっくり探したらいいの」
「よ、よろしくお願いします」
はにかんだように微笑むシャルカに、双子はますます腕に力を込めた。
その横で、セトはそっとローに尋ねる。
「古森の弓は、どのくらいでできるものだ?」
「んー、そうだな。まぁ種類にもよるけど、基本合板弓だからよ。軽く見積もっても数か月はかからぁ」
「数か月?」
当然と言えば当然なのだが、改めて提示された期間にセトは額を押さえた。
「まぁ、その間ゆっくりこの郷で寛いでろよ」
「そういう訳には……こっちはいい加減、申し訳なさで胃が痛くなってきてるんだぞ。それならせめて、その間お前の仕事を手伝わせてくれないか」
「露払いの仕事をか? ……それも良いかもしんねぇな、いい技術交流になりそうだ。それにオマエもこの先岩盤の大地で生きていく覚悟なら、山歩きに慣れた方がいいだろうしな」
そう言ってローは腰を上げる。シャルカは期待に満ちた瞳でその横顔を仰いだ。
「早速弓に触らせてもらえるんですかっ?」
いんや、とローは苦笑する。
「そう慌てンなぃ。長逗留となりゃ先に済ますことがあらぁ」
首を傾げあう原野の兄弟に、にっかりと白い歯を見せて笑う。
「古木の巨神に会いに行こう」
*果蜜……シロップ