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モノクローム・サガ~彩色の御子~  作者: 鮎川 渓
三章 太古の森で
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原野と古森の風呂事情


 兄弟はアインが用意してくれた入浴道具一式を借り受けると、左手の建物へ進んだ。入るとすぐに履物を脱ぐスペースがあり、その先は広い脱衣所になっている。


「古森の民は、おうちの中では靴を脱いで過ごすんですって。不思議ですね」


 いち早く靴を脱いだシャルカは、脱衣所の中を見て回る。

 壁一面にずらり設えられた棚、そこへ収められた衣服籠、目に映る何もかも珍しいものばかり。油漆の塗られた床は素足にしっとり吸いつき、歩くとぺたぺた音がして、シャルカはその感触を楽しんだ。

 さっさと服を脱ぎ終えたセトはシャルカを待つ間、ローに渡された石鹸を両の手に乗せ観察してみる。


「俺にはこれの方が不思議だ。わざわざ手間かけて香料まで変えてある」


 古森の民特製の石鹸は、植物油や蜜蝋を練り固めたものだった。髪用、身体用と、成分を変えきちんと作り分けられているばかりか、鼻を近寄せれば香りづけに用いられた花まで違うのだと分かる。


「消耗品というより嗜好品だな。古森の民はそんなに裕福なのか……おいシャルカ、どうした?」

「い、いえっ」


 兄の逞しい身体をこっそり盗み見ていたシャルカは、それを咎められたと思い慌てて服を脱ぎだした。

 そしてあらわになった細いばかりの自分と、よく鍛え上げられた兄の体躯の差に、子供っぽく唇を尖らせる。


「ぼくは一体いつになったら、あに様みたいになれるんでしょう?」

「身長のことか?」

「いえ、まぁ、それもあるんですけど」


 旅の間、弓も剣もないため鍛錬こそできなかったものの、野宿の時には食材を求めて森へ分け入ったり、馬で進めぬ場所では荷を背に担ぎ歩いたりもした。島にいた頃より体力もついてきたし、岩盤の大地を歩くことに慣れてきたように思う。

 それでもシャルカの身体は相変わらず細いまま。一向に筋肉がつく気配はなかった。

 もう一度溜め息を零したシャルカの背に、兄の声が柔らかくかかる。


「別にお前が俺のようになる必要はないじゃないか。むしろ今のままでいいと思うが」

「えっ、」


 何故かしら高鳴る鼓動を抑え振り向くと、兄はたいそう真面目な顔で、自らの腕の刃傷を見下ろしていた。


「お前までこんな傷物になる必要はないだろう」

「……いえ、あの、そういうことではないんですけど……」


 シャルカは酷く落胆して――何故自分が兄の言葉に一喜一憂してしまうのか、シャルカ自身分からなかったが――肩を落とした。

 けれど漂ってくる石鹸の華やかな香りが、シャルカの気を沈めたままにしておかない。大好きな風呂が待っていることを思い出すと、シャルカは逡巡とともに残りの服を脱ぎ捨て、兄の手を取った。


「早く早く、行きましょうあに様! いつまでもそんな格好してちゃ風邪ひいちゃいますよっ」

「お前を待ってたわけだが、」

「お風呂、お風呂っ♪」


 苦笑する兄の手をぐいぐい引っ張っていき、シャルカは浴室へ続く引き戸を元気よく開け放つ。

 途端、温かで心地よい湯気が流れ来て、兄弟の身体を撫でていく。

 が。

 白い湯気のその向こう、鎮座ましましたそれを見、兄弟はぴしりと凍りついた。



「~~~~~~~~ッッ!」


 建物の裏手で、熾した火にふいごで風を送っていたローは、兄弟のア行ともエ行ともつかぬ絶叫を聞きびくっと顔をあげた。


「何だどうしたっ! 熱すぎて火傷でもしたか?」


 縦格子のはまった浴室の小窓へ叫ぶ。すると素足の足音がふたつ、えらい勢いで突進してくるやいなや、引き戸が外れそうな勢いで窓が開いた。顔を覗かせたのは当然兄弟だ。兄は蒼白、弟は真っ赤に頬を染め、ローを見るや酸欠の魚のように口をぱくつかせる。


「ろ、ろろろろローさんっ! なみなみっ! こんななみなみと、み、みっ!」

「あぁ?」

「ロー、お前ッ!」

「なみなみ! いっぱい! たぷんたぷんって!」

「んんん?」


 全く要領を得ず首を捻るロー。シャルカは縦格子の隙間から華奢な腕を突き出してローの肩を掴むと、もう一方の手で浴室内を指し示す。


「み、みずっ、ううんお湯! お湯がこんっなにたくさん! 小麦の袋何袋分になるのやら……!」

「いくらもてなしだからって駄目だ、こんな……!」


 兄弟を驚愕させたもの。

 それは、大の大人十数人が入れるほどの巨大な湯船。むしろそこになみなみと湛えられている透き通った湯だった。

 泥の原で育った兄弟にとって、否、この水の乏しい平野に住まう大多数の者にとって、水とは購う物である。

 ここまで来る道中でも、飲み水は勿論顔を洗うにも口を漱ぐにも、必要な水は全て対価を支払わねば得られなかった。

 そんな水が、それも飲用としても申し分ないほど清らに澄んだ()が満たされた巨大な湯船に、兄弟が眩暈するのも無理からぬことだった。

 けれどもローはきょとんと目を瞬く。


「あれ、原野にも風呂入る習慣はあンだよな? こっちゃ公衆浴場だからデカさは違ぇかも知ンねーけど、フツーに浸かってもらって大丈夫だぜ?」


 兄弟はますます目を剥く。


「浸かる?」

「お湯に身体をひたすってことですかっ? そ、そそんな贅沢なことッ!」

「え、え? ちょい待ち、おれが変なこと言ってんの? それとも『風呂』ってモンが違ぇの?」


 後者だった。

 原野で言う風呂とは、気密性の高い専用の建物で()()ものだった。赤々と熱した溶岩石に香草を煮出した湯を振りかけ、その蒸気を浴びる――所謂蒸し風呂、あるいは蒸気浴と呼ばれるものだ。

 それを聞き、ローは興味をそそられたようだった。


「へぇ、それもなかなか気持ち良さそうだな! あとでちょっと詳しく教えろ」

「いや、そんなことよりも」


 値千金の湯へ身をひたすことに躊躇する兄弟へ、ローはけろりと言い放つ。


「気にすんなぃ。この浴場は日暮れから夜更けまで毎日開放されててよ、郷のモンは毎日入ってるぞ」

「毎日!?」

「一体いくらお支払いすればこんな、」

「タダだけど?」

「タダ!?」


 もう兄弟は何に驚いていいのかすら分からない。


「古森の民は裕福なんだろうとは思ったが、どれだけなんだ……」


 呻く兄に、ローは笑いを噛み殺し背後の山を指差した。遥かなエレウス山山頂は、春深くなれども未だ真白な雪に覆われている。


「あ、」

「そういうこと。豊富な雪解け水があンのさ、買った水じゃねぇ。これも母なる山の恵みだ。さ、分かったら安心して浸かって来い」


 熱かったりぬるかったりしたら言えよ。そう言ってローは引き戸を閉めた。

 大量の湯を前に、残された兄弟は顔を見合わせる。


「何か、凄いな。古森の民は、こう、色々と……」

「えぇ、色々と凄いですね。驚くことばかりです……でもぼく、なにはともあれそのいい匂いの石鹸、早く使ってみたいです」

「……俺は今お前の順応力の高さに驚いてる」

「石鹸、石鹸っ♪ 他にも色んな匂いのものがあるって、アインさんが言ってました。楽しみですねっ」

「…………」


 なにはともあれ、風呂である。

 先に洗い場で身体を流し、シャルカが楽しみにしていた石鹸をたっぷりと泡立てて洗う。泡まみれになったシャルカは始終きゃあきゃあと声をあげ、弾力のある泡や香りを楽しんだ。泡を洗い流すと、金色の髪はより一層明るく輝き、上気した頬にぺたりと沿った。


「ぼくこれ大好きですっ。あに様、この郷を発つ時には是非ひとつ買ってください!」


 その無邪気な笑顔に、セトの顔も自然と綻ぶ。こうしてシャルカが自分からねだるようになってくれたことも、セトにとっては嬉しい変化だ。


「そんなに気に入ったのか。なら、香り違いで色々買ったらいいじゃないか」

「本当ですかっ? なら身体用の石鹸に、髪用の石鹸に……あ、さっきアインさんにいるか訊かれて断っちゃったんですけど、髪の櫛通りを良くする仕上げ剤もあるんですって!」

「お、おう」


 石鹸の類ではちきれそうになる鞄を想像し、少しだけ怯んだ兄だった。


 身体を洗い終えると、覚悟を決めて「せぇの」で湯に足先をつけてみる。爪先から足首、膝から腿。こころもち熱めの湯に疲れが溶け出していくようだった。とうとう肩まで沈めてしまうと、


「あー……」

「あー……」


どちらからともなく弛緩しきった声が出てしまう。

 肌が湯にとろけていくような感覚を、兄弟はしばし無言で味わった。天井からぽたり、ぽたりと雫が落ちて、水面に輪を描いては消える。白木作りの湯船は森にいるようないい香りがして、身も心もほぐされていく。


「さっきは異文化具合に驚かされたが、これは良いな」


 セトがぽつりと漏らすと、目の下までひたっていたシャルカは顔を上げた。


「結婚の話ですか? ぼくは良かったって思いましたけど」

「お前聞いてたのか!」

「膝の上にいるのに、耳塞がれたくらいでどうして聞こえないと思うんです」


 焦る兄に、弟は肩を竦めて見せる。


「いや、だがあの奔放な仕方を良いだなんて……お前、」


 シャルカは水面を指で弾き、物言いたげにおろおろする兄の顔へ雫を跳ねかけると、ちょっとむくれて言う。


「違います、そんな目で見ないでください。ノンナさんにとっては良かったんじゃないかってことですよ」

「ノンナ?」


 シャルカは湯の中で身体をしなやかに反転させ、湯殿の縁に両腕をもたせかけた。濡れた頬を預け、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。


「だって、そういう結婚の仕方だったら……原野と違って、処女おとめじゃなきゃ結婚しづらいなんてことはないでしょう? ノンナさんの身に起きたことを知っても、きっとここの男の人達は気にしないで受け止めてくれるでしょうし……隙があった女の子の側が悪いだなんて、後ろ指さされることもなさそうです」

「おい待て、誰がそんなことを言うか。いくら原野の男だったってな、」


 反論しかける兄を、紫紺の瞳がどこか無機質に映す。


「ぼくの本当の母様は言われていましたよ。きっと油断していたんだって。年頃で浮ついていたから、名を明かせないような男の子を孕む羽目になったんだって」

「なっ! ……一体誰がそんなことを、」


 それには答えず、白い指は木目に溜まった雫をなぞった。


「だから、ノンナさんが原野の人じゃなくて、古森の人で本当に良かったなって」


 セトは怒りのあまり我を忘れそうになるのを必死に堪えた。

 子に親の悪口を吹き込むなど、どれだけ性根が腐っているのだろう。自らも人の子なれば、己の雑言を聞かされるよりなお堪えると分からぬはずがないのに。まして母親は弁解もできぬ死者である。

 そしてそれらを止めることはおろか、どんなにか傷ついただろう弟に気付けなかった己が、何よりも腹立たしかった。

 密かに息を吐き怒気を払うと、セトはシャルカの肩に手を置いた。濡れた瞳を見据え、告げる。


「ルッカはそんなひとじゃない。しとやかで控えめで、子供が好きな優しい女だった」


 紫の瞳が上目遣いに見上げる。その眼差しは、何か問いかけるようでもあり、どこか拗ねているようでもあった。なので吹き込まれた母親の印象を上書きするよう、セトは思い出話を続ける。


「とても綺麗な女だった。誰に対しても優しくて、いつもうっすら微笑んでいた。目が大きくて、手足がすらりと長くて……シャルカはルッカの良いところを貰ったな」

「…………」

「子供の頃にはよく遊んでもらったんだ。手先が器用で、飾り紐を編むのが得意だった」

「……へぇ、」

「俺も何本か貰ったことがある」


 シャルカはバングルを探した時に開けた小箱の中身を思い出し、ハッとして顔を上げた。


「あに様、飾り紐なんてつけないのにおかしいなって思ったけど、あの小箱に入ってた飾り紐ってもしかして……!」

「お前勝手に覗いたのか」


 その言葉でシャルカはもう一度ハッとなり、慌てて頭を下げる。

 けれども経緯を知らぬセトは、シャルカも子供らしい悪戯をしていたのかと微笑ましく思った。


「目にしていたなら良かった。とても綺麗だったろ? あぁいうものを作る女だったよ。いつかシャルカに渡そうと思ってたんだが……失敗したな。早く渡してやれば良かった」


 ふたりは、箱の中に納まった美しい飾り紐を思い浮かべた。

 今もあそこにあるのだろうか。

 泥の原を往く浮島の、三角錐をした琥珀色の家の中に。

 それとも、出奔した者の私物など、泥へ放られてしまったろうか。

 いずれにせよ、ふたりの手にはもう届かず、記憶の中で一際美しく煌いた。

 しばらく精密な飾り紐の編み目を思い起こしていたシャルカだったが、やがて照れを隠すように、からかい混じりに言う。


「あに様がそんなに大事にとっておくなんて。分かりました、あに様がこんなにぼくに優しくしてくれるのは、ぼくが母様にそっくりだからなんでしょう? きっとあに様の初恋の人なんだ」

「馬鹿言え、お前はお前だ。俺の大事な弟だ。それ以外の何者でもない」


 兄は揶揄にも乗らずきっぱりと言い切ったあと、「それに」と頼りなく語勢を弱める。


「女ってのは良く分からない。あんなに親しいと思っていたビルマでさえ、心の内は少しも分からなかった。ノンナにしたってそうだ。一刻も早く郷に帰りたかったろうに、何故毎朝身支度にあんなに時間をかける? 髪を結わなきゃ死んじまうのか? 俺にはさっぱり理解できない」

「あれ、」


 紫の瞳が目敏く光る。


「島を出る前に、ビルマ様と何かあったんですね?」

「い、いや? 別に、」

「ノンナさんも前途多難だなぁ……後ほど詳しくお聞きしましょうか」

「前途多難って何だ、ようやく帰郷したっていうのに。それに何でお前に話さなきゃならないんだ」


 シャルカは、顔は男前だが中身はとんだ朴念仁の兄を気だるげに見つめた。


「あに様のためと言うより、この先泣く女性を少しでも減らすためにですね、」

「はぁ? いや、話さないぞ。というか何もなかった!」

「何かあったのは夜警の日でしょうかねぇ」

「うっ」

「あに様は何でも顔にでちゃうんだ。そりぇもなンとか……はれ?」


 じりじりと兄を追い詰めていたシャルカだが、急に呂律が回らなくなり、くったりと赤い頬を腕に預ける。


「あに様ぁ……なんらかぼく、目が回ってます」

「どうし……、」


 その肩を再び掴もうとして、セトも腕が思うように上がらないことに気付く。比喩でなしに身体中が弛緩してしまったようだった。


「ロー、おいロー、」


 力なく呼ばわると、ややあって小窓が開き、ひょこりとローが顔を覗かせた。


「何だこれ、力が入らない」

「目がくるんくるんして、頭ががんがんして……おえ、」


 くったりと湯船の縁にもたれ、顔も身体も真っ赤にゆだった兄弟を見、ローは可笑しそうに吹きだした。


「のぼせっちまったんだよ、慣れねぇのに長々と湯に浸かってっからだ。待ってろ、今引っぱり上げてやっから」


 そう言い残し、ローの軽やかな足音が走り去る。

 兄弟の湯殿初体験は、かように幕を下ろしたのだった。





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