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モノクローム・サガ~彩色の御子~  作者: 鮎川 渓
三章 太古の森で
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「鼻で笑っちゃいます」


 可憐な声音が開始を告げた刹那、両者一瞬の遅れもなく渾身の力をぶつけ合う。

 腕相撲は機先を制した者が優位に立つ。セトもそれを承知で即座に動いたが、立ち上がりの速さは互角だった。この勝負のつけ方を提案してきただけあって、ダトックは流石に慣れている。

 片や、重量のある大剣を自在に操る原野の戦士。

 片や、己が腕のみを頼りに大地を渡る荒野の傭兵。

 褐色の強靭な肉体を持つ両者の力は拮抗し、二本の腕は天を指したまま膠着した。

 舞台となった卓はミシミシと悲鳴をあげるが、観戦者オーディエンスと化した客達は歓声をあげ、自らが賭けた方を好き勝手に鼓舞しだす。その大音量にも掻き消されることなく、骨と言わず筋と言わず、互いの腕の軋みが聞こえてくるようだった。

 ならばと、セトはダトックの力を削ぐべく手首を巻き込みにかかるが、当然ダトックも同様に仕掛けてくる。互いに一歩も譲らない。技に頼ることができず、勝負は純粋な力比べの様相を呈した。


「どうした? 原野の戦士ってのはこんなモンかよ、こっちゃまだ本気出してねぇぞ!」


 ダトックが叫ぶと、酒臭い吐息がセトの鼻先を掠める。

 言葉とは裏腹に、ダトックもすでに全力であろうことは、額に浮いた汗の量からも明らかだ。セトは応じず、噛みしめた歯の隙間から細く息を吐きながら、じっと機を窺い続ける。

 小手先の技は使えず力は伯仲。となれば、あとはもう根競べだ。けれどいずれも武で鳴らす民、気力も意地も十二分だろう。思いがけず長丁場となりそうな気配に、観客達もいつしか固唾を飲んで見入り始める。

 ところが、決着の時はすぐに訪れた。


「あに様? 一体何をしてるんです?」


 酒場と宿を繋ぐ戸が開き、場にそぐわぬ涼やかな声が響く。一斉にそちらを振り向く客達。「げっ」とくぐもった呻きがセトの口をついて出た。

 この絶好機を見逃すダトックではない。


「もらっ――!」


 手練れの傭兵は、今が勝機とばかりにありったけの力を振り絞る。

 否、振り絞ろうとした。

 しかしその瞬間、ダトックの手の甲は激しく卓を叩いていた。

 余所見していた客達はおろか、ダトック本人さえ何が起きたか分からぬ顔で、原野の若者を凝視する。けれどセトの視線はすでにダトックから離れ、こちらへ向かってくる白い長法衣(ローブ)の少年へ注がれていた。

 言うまでもなくシャルカである。

 セトは慌てて武骨な手を放り立ち上がる。今の今まで満面朱に染め、力づくで荒野の傭兵を下した男とは思えぬ狼狽っぷりだった。

 そんなセトへあと一歩の距離まで歩み寄ったシャルカは、帽子を目深に被り顔を伏せていて、口許しか窺えない。その赤い唇はほのかな笑みをともしているのに、何故かしら見る者に冷ややかな怒りを忍ばせているような印象を与えた。この猥雑な場に似つかわしくない清白な衣がそう感じさせるのか、あるいは勝者をここまで動揺させたからなのか。いずれにせよ客達は、好奇心に満ち満ちた目で兄弟の動向を見守った。


「お、おまっ、どうしてひとりで酒場なんかに!」


 上ずったセトの言葉に、帽子の下でふっくりとした唇が吐息を零す。嘆息めいたそれを受け、セトの額にじわり汗が浮かんだ。


「何言ってるんです。ローさんへ文を出せたのは()()()を出た翌日一度きり、今日は雨で先を急げるわけでもなし、ノンナさんに文を書くよう勧めたのはあに様ですよ?」

「む」

「それができたからこうして持ってきたんです。まさかノンナさんをここへ来させられないでしょう?」

「む」


 シャルカは手にしていた文を見せ、周囲をちらりと見渡した。居並ぶ客は成人の男ばかり、しかも酔客。ノンナにとっては地獄だろう。


「で、」


 シャルカは両手で帽子を直すふりで、正対した兄にだけ紫の瞳を曝した。その瞳に浮く光は、やはりどこか冷ややかだった。


「あに様は一体何を?」

「え、と……別に、何も」

「ふぅん」


 しどろもどろになる兄から顔を背けたシャルカの目は、まだ椅子に呆然と座り込んでいるダトックを映す。


「あに様、本当に何も?」

「あぁ、何も」

「なかったんですか?」

「なかった、」

「ふぅん……で、今回は何てからかわれたんです?」


 まるで見ていたかのような言葉、そして次第に低くなっていく弟の声音に、セトは弱り果てて額を押さえた。


 セトとダトック、互角の戦いを演じたふたりの勝敗を分けたのは、至極単純なことだった。

 ほんの一瞬セトの気が逸れたと見みるや、即畳みかけようとしたダトックの瞬発力は素晴らしいものだった。雇い主を守るため、いつ何時襲い来るやも知れぬ賊や獣を常に警戒し、対処してきた傭兵ならではのものだろう。

 が、しかし。

 近頃なんだかご機嫌ななめな弟に、挑発に乗り(こんな)喧嘩を買った姿(体たらく)を見咎められ、呆れられてなるものかという()の脊髄反射的な反応速度が、傭兵のそれを上回ったのだ。

 そのためには一刻も早く勝負をつけてしまわねばならなかったが、いっそ負けてしまおうなどという頭は彼にはなかった。故に余力を全て出し切り、相手をねじ伏せにかかったのだった。

 結果、先んじたセトが勝利した。以上である。見上げたものか呆れたものかはさておき、驚愕には値する兄根性だった。

 それも虚しく、弟の紫紺の瞳は全てお見通しだったわけだが。


 さてどう言い繕ったものかと、兄がない頭を懸命に捻っていると、


「情けねぇ野郎だ、そんな小せぇ弟の尻に敷かれてんのか。まさか手前が()()()()の方だってんじゃねぇだろうな?」


ダトックが手の甲を擦りながら吐き捨てた。しつこく女に手を出していたことといい、懲りない質であるらしい。

 無様な負け惜しみ以外の何物でもないのに、たちまち殺気立つ兄を見、シャルカは納得したように小さく頷く。

 道中、こうした猥雑な宿場をいくつか経る内に、意に反しすっかり耳年増めいてしまったシャルカは、ダトックの意味ありげな物言いから成り行きを察したようだった。

 ダトックに詰め寄ろうとする兄の腕を急いで捕らえ、怯えたように縋りつく。そしてダトックの方へ顔を向けると、


「そんなおかしな考えがすぐに出てくるなんて……普段からそういうことばかり考えてらっしゃるんですか? やだ、恐い……」


泣きそうな声で告げ、兄の後ろに身を隠したものだから、虚をつかれたダトックは泡食って立ち上がる。そんな彼を面白がって、客達は口々に囃したてた。


「悪口は自己紹介って言うもんな」

「幼女趣味に男好きたぁ救えねぇ」

「アタシに言い寄っておきながらそんな趣味が? ホンットサイテーねアンタ!」


 周囲の注意が逸れると、シャルカは腕を解き兄に向き直る。

 一見の客達とは違い、シャルカの恐がる素振りが演技であることに気付いていた兄は、粛々とこうべを垂れて弟の言を待っていた。


「あに様、慣れましょう? 初めてじゃないじゃないですか、こんな風にからかわれるのは。ぼく達三人、事情を知らない人から見たら不思議に思われても仕方ありませんもん」


 溜め息混じりに窘められ、灰色の目が不服を滲ませ弟を見やる。


「……お前は口惜しくないのか? やましいところなんて何もないのに、勝手なことばかり言われて」

「いいえ、まったく」


 弟は強がる風もなくさらりと首を横に振った。


「島にいた時に向けられてきた目に比べたら、好奇の目やくだらない憶測くらいなんだってんです。それもてんで的外れな。さっき誰かも言ってたでしょう? ばっちいオトナの自己紹介です、鼻で笑っちゃいます」

「そ、そうか」


 そう逞しく言い切られてしまっては、兄はただただ頷くしかない。


「揉め事を起こして余計な恨みでも買って、万が一ノンナさんを巻き込んだらどうするんですか」

「む」

「『む』じゃありません」

「ぬ」

「『ぬ』でもありません、父様の真似したってダメなものはダメですっ。……もしそうなってしまったら、その時はあに様、どんな顔してローさんに謝るつもりです?」


 後半和らげられた口調にとうとう兄は折れ、しんなりと頭を下げる。


「……反省する」

「『する』じゃありません、今してください」

「した」

「過去形、」

「してる」

「はい」


 ようやく頬を綻ばすと、シャルカは目の前で揺れるこわい髪をわしゃわしゃ撫でた。いつも兄がシャルカにするように。

 一回りも年下の細身の少年に、屈強な大男が叱られた上、飼い犬よろしく撫でられている様はちょっとした見物だったが、生憎客達はまだダトックを囲み冷やかしていた。

 けれどだしぬけに「あっ!」と誰かが叫んだ。


「胴元の男はどこ行った?」

「え? ……居ねぇ。野郎、賭け金持ち逃げしやがったな!」

「探せ! まだその辺にいるはずだ!」


 酒場の中はたちまち上を下への大騒ぎとなった。大の大人が揃いも揃って、慌しく駆けずり回る。この雨の中外へ飛び出していく者も多くいた。開け放たれた戸口から雨風が吹き込むのを見、亭主の唇が不機嫌そうに歪む。

 我関せずの兄弟は、この喧しさに辟易して顔を見合わせた。


「いつまでもノンナさんを待たせるわけにはいきませんから、文を出して戻りましょうか」

「……そうだな」


 頷くセトはまだ意気消沈していたが、特に気に留めず、シャルカが周囲を見渡した時だ。扉の外から、喧騒を蹴散らさんばかりの派手な蹄の足音が聞こえてきた。馬が立てるにしてはやけに大きい。兄弟は揃って戸の向こうを覗き込む。

 と、目にした物にふたりは息を飲んだ。


「うわぁ……」

「何だあれ」


『街道』を逸れ宿場に駆け込んできたのは、三頭立ての幌馬車だった。幌馬車自体はさほど珍しくもない。ふたりを驚かせたのは、馬車を牽く三頭の馬の方だった。

 銀灰色の馬体は、通常の蹄の馬よりも優に二回りは大きい。躍動する四肢は太く、厚い蹄は黒金くろがねを思わせ、濡れそぼる大地を力強く蹴りつける。降りしきる雨をものともせず駆けてくる馬達は、草食動物らしからぬ威圧感を醸していた。

 けれどよくよく見れば、細かなウェーブがかったたてがみは豊かで、毛並みは銀糸さながらに美しい。知らず見惚れたシャルカはほぅっと息をつく。


「やけにでかいな。馬だよな?」


 しかし兄の率直な感想はそれだった。すると小馬鹿にしきった嘲笑がその背にかかる。


「何だ手前、知らねぇのか。流石は原野の田舎モン」

「何だお前、まだ居たのか」


 さっきとは打って変わって素気ない兄、そして怯える様子もなく一瞥もくれぬ弟に、ダトックは肩透かしを食ったようだった。けれどすぐにニヤリ笑って顎を擦る。


「言われなくても今に消えてやるよ。ちょいと泥ッ原の引きこもりをからかいに来てやったんだ」

「暇人め。で、あれは何だ、荒地の酔っ払い」

荒野あらのだ阿呆、間違えんな! ……ありゃあエレウス山の固有種、ネール馬ってんだ。他の馬の倍も飼葉を食うが、倍の荷を牽き倍以上の距離を駆ける」

「へぇ、」


 やたらとでかいが馬は馬であるのだと知り、セトの関心は御者台の男へ移った。その容貌は雨除けの外套(マント)に隠されている。けれどセトから感心した風の相槌を引き出したダトックは、得意になって続ける。


「あぁ、でも手に入れようなんて思うなよ? 泥臭ぇ原野のモンには過ぎた馬だ。あれと引き換えるには、この宿一棟建てられるくれぇの……」

「分かった分かった、もういい。じゃあな、荒地の種馬」


 セトはいよいよ目の前まで来た馬車を見据えたまま、シッシッと手を振る。意外なことに返答はなく、そのままダトックは気配を絶った。

 けれど兄弟はもうそれを訝るどころではない。エレウス山の馬を繰る男の手首に、見覚えのある刺青を見つけたからだ。

 ふたりは馬車が過ぎる前に、急いで外へ飛び出した。


「ロー!」




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