荒野のダトック
安普請の天井越しに、激しく屋根を叩く雨音が響く。窓にはきっちりと鎧戸が下ろされ、湿気と陰気臭さとが細い廊下に蔓延っていた。その中を、不機嫌さを隠しもせず大股に歩く男がひとり。
セトである。
山岳の民に負わされた左頬の傷はまだ癒えていない。かつての親友と揃いのバングルはもうないが、その傷があたかも代わりであるかのごとく、彼の右頬の傷と対なして残っていた。
長靴の踵で強く踏みつけられた床が、抗議するようギシリと軋む。
不機嫌の原因は、なにもこの天候のせいではなかった。
この日は朝から暗い雲が垂れ込め、雨が降り出す前にと馬を急がせ、一行は次の宿場へ滑り込んだ。
十軒足らずの宿兼酒場が並ぶ小さな宿場は、同様に雨を避けようとやって来た行商人や、出立を見合わせた隊商でごった返していた。
客引きの小男や、胸元を大胆に露出させた酒場女――こういった宿場にはありがちなことだが、彼女達は客に給仕するばかりでなく、大概娼婦を兼ねている――を振り切って、セトはふたりを促し、いくらか品の良さそうな宿を見定め駆け込んだ。
とうとう降りだした雨は強さを増す一方で、夕刻までに止むとも思えない。なので、
「部屋をふたつ頼む」
そう告げたセトを、客引き達と同じ疾風の民の亭主は、胡桃色の目で食い入るように見やった。
長法衣から白い肌を覗かせた少年巡礼者、褐色の肌の傭兵、そしてオークルの肌の少女という、傍目に首を捻らざるを得ない組み合わせであることは認めるので、セトもそこまでは寛容でいられたのだが。
年嵩の女中に通された部屋を見、彼は唖然とした。
また、女中も女中で、二人部屋にシャルカを伴い入って行こうとする彼を見、ぽかんと口を開けていた。
部屋の中に寝台はひとつきり。おまけに小綺麗に整えられたその上には、枕がふたつ並べられていたのである。
宿の者達は三人を、『巡礼者』に『庇護者とその情婦』とでも捉えたものらしかった。
「俺に幼女趣味はないぞ!」
荒げかけた声を何とか飲み込んだものの、自分が一体どういう目で見られていたかと思うと、憤懣やるかたないセトなのだった。
「ったく、何だってんだ。人を変態扱いしやがって」
ボヤきながら酒場へ続く戸を開けると、安酒独特の鼻を突く匂いや男達の体臭、酒場女が身に振りかけたクセのある香水の香りなどが、混然となって彼に押し寄せた。天井には葉巻や煙管の白い煙が、雲のように立ち込めている。
足を踏み入れるや、一斉に彼へ注がれる色とりどりの目。黄土色、鳶色、胡桃色、亜麻色――客達は肌の色や戴く神の名にかかわらず、居合わせた者とともに卓を囲み、杯と情報を交し合っていた。
様々な民が往来する『街道』の宿場は、どんな者でも受け入れる。
富める民も貧しき民も、太鼓腹の商人も清貧な巡礼者も、支払うものさえ支払ったなら、ここでは皆『客』として扱われる。例えそれが長いこと職にあぶれた傭兵でも、賊と思しき胡乱な輩であっても、支払い相応の寝床や酒が供される。客は出身の郷の大小や職によって区別されず、その上下を分かつのは懐具合のみ。客側も宿場にいる間はその方針に準じなければならない。
それが『街道』の宿場の不文律。
金だけが物を言う、いっそ清々しいくらいに明快なルールである。
それなのにセトがこうも視線を集めた理由は、岩盤の大地では滅多に見かけぬ原野の若者というだけではあるまい。客達も奇妙な取り合わせの一行に興味を引かれていたのだ。その興味が下衆な類であろうことは、彼らの表情から容易に察しがついた。
(ふたりを部屋に置いてきて良かった)
そこここで手が挙がり、我が卓へとセトを手招く。この先の宿場や郷の情報を得ようとやって来たが、これでは質問攻めに合うのが関の山だ。そう思い、セトはカウンターの最奥へひとり腰を下ろした。
途端、背後で落胆の吐息と舌打ちとが響いたが、それも束の間のこと。雨で足止めされた退屈な客達は、下卑た笑いを浮かべつつ、三人の関係について好き勝手な憶測を飛ばし始める。セトは苛立ちを抑え、有益な情報はないかと、酔いどれどものどよもしに耳を傾けた。
「北にある宿場のそばで賊が出たってな」
旨味もなく酒精度ばかりが強い火酒を舐め、辛抱強くそうしていると、やがて飽きた男達は別の話題に興じ始めた。
「へぇ、野茨郷で近々婚礼がねぇ。丁度今まっさらな絹地を仕入れたところだ、そっちへ足を伸ばしてみるかね」
「今砂漠の向こう側じゃ、流行り病が蔓延してるらしい」
「流行り病? 参ったな、これからそっちへ行くつもりだったのに」
「大湿原へ行くのか。無事に着きたきゃケチらず『ダーダネルの鳥女』を雇うこったな」
交わされる情報は実に多様で、セトには聞きなれない単語や地名がいくつもあった。その中からこの先の道中に役立ちそうな情報を精査していると、セトの耳に「雲糸郷」の名が飛び込んできた。喉を鳴らし、全神経をその会話に集中させる。
「雲糸郷にゃ行ったって無駄さ、あそこはもう廃郷同然だ」
「どういうことだい?」
「知らないのか。祭りの最中に、篝火の火が家に燃え移ったらしくてよ、建物なんかほとんど燃えちまったって。知らずに翌朝訪ねた男が言うにゃ、焼け死んだ連中を森の獣どもが食い散らかして、酷ぇ有様だったって話だ」
「何てことだよ……でも全滅したわけじゃないんだろう?」
「あぁ、でも生き残った連中は皆呆けたようになっちまって、何を訊いてもロクに口もきけねぇんだとよ」
「楽しい祭りの夜だったろうにねぇ、可哀想に」
セトは手の中の杯を握りしめた。あの夜の記憶が蘇り、目蓋の裏を赤く染める。
彼はまだ、ことの次第をシャルカとノンナに話せずにいた。それでもふたりは、郷の惨状とセトとが無関係ではないことくらい勘付いているだろう。
いずれは話さなければならない。けれどどうにも気が進まないセトは、ふたりが追求して来ないのをいいことに、だらだらと先延ばしにしているのだった。
そんな彼をよそに、男達の話題は別に移る。
「傭兵のクチ? それなら水源の民を捕まえて聞いてみたらどうだい、最近やたらと傭兵を集めてるって聞いたよ」
「水源の民が何でまた、」
「さぁ、近々大きな取立てでもあるんじゃないかな」
水源の民による水代の取立て、それも傭兵を投じて行うようなものと言えば、ローが言っていた若い娘を引っ立てていくというものだろう。
「胸糞悪い」
丁度セトへ新たな杯を運んできた酒場女は、彼の漏らした独り言を聞き、胡桃色の目を丸くした。
「あら、お客さん悪酔いしたの? アタシの部屋で少し休む?」
蠱惑的な微笑を浮かべ、セトの肩にしなだれかかる。その性急な振る舞いからは艶っぽさよりも、昼間から一稼ぎしてやろうという商魂がひしひしと感じられた。
水源の郷の娼館で働かせられる女達と違い、こうした宿場にいる疾風の民の酒場女達は、自ら望んで客を取っている。彼女達の倫理観では、手軽に荒稼ぎできるいい商売なのだそうだ。そうして若い内に貯めに貯め、いずれ宿や店を持つことが、疾風の女のステータスだという。
セトは彼女が持ってきた火酒の杯を受け取ると、その代金としては多めの裸石を握らせ、
「ひとりにしておいてくれ」
穏便にあしらおうとした。
が、それが良くなかった。
彼女の目がきらりと光り、セトの首にがっちりと腕が回される。どうやら金払いのいい上客と見なされてしまったらしい。
「ねぇ、いいじゃない。この雨じゃすることもなくて暇でしょ?」
「暇じゃない、放っておいてくれ」
あんまりきつい香水に思わず顔を背ける。セトは今度こそ身体的な意味で胸糞悪くなりそうだった。
「アタシ原野の若い男相手するの初めて!」
「だから、」
「ううん、きっとこの宿場じゃアタシが初めてね、これは自慢になるッ!」
「人の話を、」
「ねぇ、どうするのが好み? 原野のおじいちゃん達は何人かはべらせるのが好きな人多いけど、若い人もきっとおんなじよね」
「おい待てどこの島の糞爺ぃだ、うちの島じゃないだろうな!」
知りたくもなかった老父達の実態を知ってしまい、セトは思わず額を押さえた。貞潔は美徳が聞いて呆れる。
盛大な溜め息を吐いて髪を掻きむしると、セトは無理矢理彼女の腕を剥がしにかかった。
「いいから、他所を当たってくれ」
「どうせ暇でしょ? ねぇったら、ねぇ!」
けれど彼女はなかなか諦めない。
そんなこんなで押し問答していると、横から伸びてきた褐色の手が彼女の肩を掴んだ。そして、
「止めとけ、そいつぁ絶対客になんねぇよ」
野太い声が降ってくる。
自分と同じ肌の色に、まさか原野の民かとセトが急いで振り仰ぐと、手の主は鉛色の髪をした大男だった。荒野の民だ。歳は二七、八といったところか。傭兵風の出で立ちだが、強か酔っているらしく、耳の先まで上気させている。
彼女は男の顔を見ると、あからさまに嫌そうな顔をした。
「また来てたのダトック、アンタ仕事は?」
ダトックと呼ばれた大男は、不精髭の目立つ顎を撫でさすり、
「勿論してきた、機織の民の隊商を郷まで送ってやった帰りだ」
反対の手を彼女の尻へ伸ばす。が、彼女にぴしゃりと叩き落とされた。
「なら懐はあったかいワケね。でもお生憎様、アンタの相手はしないよ。力任せでしつこいわ噛みグセは酷いわで、アンタの相手したら夜に客とれなくなっちまうもの」
「そりゃお前にだけさ、お前目当てでここに通ってやってんだぞ?」
熱心に口説きながらも、ダトックは性懲りもなく手を出して、再び叩かれた。
揉めている隙にとそろり席を立ちかけたセトだったが、彼女に腕を絡め取られてしまう。
「ともかく、アタシもうこの人に買われてんだからっ」
「いや、買ってな、」
「アンタはお呼びでないのよ、他所を当たって!」
「それさっき俺がお前に言っ、」
「シッ、シッ!」
セトの言葉をことごとく遮って、彼女が虫でも払うように手を振ると、ダトックの視線がセトに移った。値踏みするようにしげしげとセトを見、ニヤリと口の端を歪める。
「へぇ、手前この女を買ったのか」
「だから買ってな、」
「乳臭ぇ娘っ子連れてっから、てっきり幼女趣味の変態野郎かと思ったぜ」
「何よそれ」
セトの腕に腕を絡ませたままの彼女が声を尖らすと、
「何だお前、見てなかったのか」
ダトックは厚ぼったい鼻をそびやかす。
「こいつな、巡礼者のガキんちょと、それと同じくらいガキんちょの女連れだぜ? それも肌の色の違う。男やもめの旅路の慰みに、どっかで買った奴隷だろ」
「違う。旅の途中で、連れとはぐれていたところを保護した。今は彼女の郷へ送り届ける途中だ」
セトはノンナの名誉を守るためにも、あえて嘘をついた。今度こそ最後まで言い切ったが、ダトックは取り合わずひらひらと手を振る。
「いいっていいって、そんな格好つけしい理由こさえなくたって。……あぁ、でも」
そこで一旦言葉を切り、墨色の両眼をいやらしく眇める。
「こうして独り寂しく酒場に来てるってこたぁ、手前の情婦じゃねぇってのはホントかもな? 今頃あのガキの方としけこんでて、部屋を追ン出されたんだろ。とんだ生臭坊主もあったもんだな」
セトは不快感をあらわに眉を顰めた。
「どうしたらそんな下衆なことばかり考えつくんだ、お前の頭の中は色事ばかりか? 馴染みの女に袖にされた八つ当たりなんだろうが、俺はともかく弟やあの娘を貶めるのは止めろ」
図星を刺されてか一瞬怯んだダトックだったが、弟の発言にわざとらしく肩を竦めた。
「肌の色も違うのに弟と来たか! ……ははぁ。坊主ってのは大概どこの教義でも女淫を禁じられてるもんな、手前が相手すんのはあのガキの方ってことか。弟は弟でも念弟ってワケだ」
その言葉にセトの目の色が変わった。女の腕を振りほどき、無礼極まる荒野の男へ殺気を叩きつける。
「……それ以上あいつを侮辱するなら、その口二度ときけないようにしてやる」
それに応じ、たちまちダトックの四肢にも闘気が満ちる。
「面白いじゃねぇか、一度原野の男と戦ってみてぇと思ってたんだ。『勇猛果敢な原野の戦士』なんて言われちゃいるが、泥の原から出て来れねぇ臆病者どもに決まってら」
「違う」
「なら手前が証明してみせろ」
張り詰めた空気に、女は慌ててカウンターの奥へ駆け込んでいく。他の客達も不穏な気配を察し、固唾を飲んでふたりを遠巻きにした。
相対したふたりは、同じ褐色の肌をし、負けず劣らずの上背に屈強な身体つきをしているため、まるで鏡合わせのようだ。
緊迫した睨み合いの中、どちらからともなく重心を落とし、腰の得物に手をやる。
が、その手は揃って空を切った。
宿場の規則で、この建物に入る際、店の者に武器を預けていたのだ。無論こういった揉め事を防ぐための処置である。
相手のまぬけな所作を見、己のことは棚の上で、揶揄するように片眉を跳ね上げたのも同じだった。その表情にむっと口を引き結んだのもまた同じ。
両者ともに不本意なことだろうが、なりから行動まで、ふたりは非常によく似通っていた。
そこへ、先程の女に連れられ、奥から宿の主でもある亭主が現れる。
「ダトック、またアンタか! 原野のお方もソイツに何を言われたかは知りませんがね、構わないことですよ。『街道』の宿場じゃ揉め事は御法度、破るようならお連れさんごと出てってもらいますよ」
セトは奥歯を噛んだ。この雨の中を放り出されては堪らない。けれどこの怒りはそう簡単に治まりそうもなかった。
するとダトックは、「ようし」と手近な空席へ足を向ける。そしてどしりと腰を下ろし、
「なら宿場流の勝負といこうぜ。なぁ店主、これなら文句ねぇだろうが」
卓の上に右肘を突いた。腕相撲で雌雄を決そうと言うのである。確かに武器によらない勝負ではある。
セトも島にいた頃は、よくアダンと戯れに腕比べをしたものだった。この憤りのぶつけ方としては物足りないが、カードや賽などの遊戯で挑まれるよりはずっといい。セトは亭主が何も言わないのを確かめてから、ダトックの向かいの席に座った。
途端に物見高い客や酒場女達がわらわらと群がってくる。
「さぁさ、どっちに賭ける?」
「ダトックだな。荒野の民の男と言やぁ、腕利きの傭兵揃いで有名だからな」
「あたしは原野の人に!」
たちまち賭博が催され一騒動となった。
まったく宿場の酒場とは猥雑な場所である。セトはやや鼻白みながらも、ダトックの墨色の双眸をひたと睨み据え、その手を握った。組み合う両者の手に手を添えたのは、先程セトに言い寄ってきた女だ。興奮に小鼻を膨らませ、
「それじゃあいい? いくわよ」
こっそりセトに片目を瞑って見せると、
「よーい……始めッ!」
声高に叫び手を離す。
瞬間、原野の男と荒野の男の意地とが、小さな卓の上で激突した。




