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モノクローム・サガ~彩色の御子~  作者: 鮎川 渓
三章 太古の森で
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野末の宿り


 帽子のつばの下で、シャルカの紫紺の瞳が空を仰ぐ。

 もうじき日が暮れる。

 右手の荒野から吹きつける風が、ひやり冷たくなってきた。風は『街道』へ黄砂を浴びせ、左手の草原をひやかして、その奥の森へ吹き抜ける。森の際の細い木々の合間を通り抜けると、すすり泣きに似た物悲しい音を響かせた。同時に夕告げ鳥のしゃがれた鳴き声を耳にし、シャルカはふるり首を竦める。

 ローの地図によれば、もう少し先に今宵の宿りと決めていた宿場があるはずなのだが、遠目の利く目をいくら凝らせど灯りひとつ見えてこない。

 あの見るからに大雑把そうなローが、記憶と経験を頼りに書き起こした地図だが、それが案外精密であることをシャルカはこの数日で実感していた。地図が誤っているのではなく、一行の歩みが想定よりずっと遅いのだ。

 シャルカはあどけなさの残る顔を曇らせると、馬に合図し、少し先を行く兄に追いつかせた。


「あに様、」


 明るい灰色の瞳が振り向く。何気ない視線でも、見慣れたその剛毅な双眸と目が合うと、シャルカはホッとして頬を緩めた。

 次いで、その腕の中の鳶色の瞳と目が合う。兄が羽織った外套(マント)の中、いかにも大事そうにくるまれたノンナは、少しうとうとしていたらしく、眦がとろんと垂れている。


「このまま日暮れまで馬を進ませても、次の宿場には着けそうにありません。ノンナさんもお疲れのようですし……まだいくらか明るい内に、野宿する場所を探したほうがいいかもしれませんね」


 その言葉に兄も四方を見回した。日中度々すれ違った隊商はことごとく姿を消していて、街道には兄弟が繰る二頭の馬しか見当たらない。旅馴れた彼らはきちんと行程を管理し、とうに宿場へ引っ込んだのだろう。

 原野の北を東西に走る赤土の『街道』を離れ、彼女の郷があるエレウス山へ続く黄土の『街道』へ入ってからというもの、ここ数日野宿続きだった。

 森と荒野の境に伸びるこの『街道』沿いに郷はなく、隊商向けの小さな宿場がぽつぽつとあるばかりなのだ。それは朝早く発った隊商が、順調に進んで日暮れまでに辿り着ける距離毎に設けられており、歩みが遅ければ必然宿にあぶれてしまう。

 兄は「参ったな」とこわい髪を掻きあげる。


「今夜こそ柔らかい寝床にありつけると思ったが」


 その独り言を聞きつけて、ノンナがすまなさそうに肩を縮めた。


「ごめんなさい、あたしが森の小道は嫌だって言ったせいで」

「あ、いや、そういうつもりで言ったんじゃない。俺は構わないが、お前達の小さな身体に野宿続きは辛いだろう?」

「あのまま森の中を進めば、機織の民の郷が幾つもあって、宿には困らなかったはずなんだけど……」

「いや、だから……すまない、要らんこと言ったな。頼むからそんな顔しないでくれ」


 俯き目を伏せるノンナは今や、地下牢で出会った時とはまるきり別人だ。

 綺麗に身を清め髪を編み込み、旅にも耐える厚手の一繋裳(ワンピース)を纏った彼女は、ローによく似たつぶらな瞳が印象的な、小柄で可憐な少女だった。

 そんな彼女に機嫌を直してもらおうと苦心する兄は、歳の離れた恋人に何とか嫌われまいと尽くす、不器用な年上男さながらだ。

 顔を背けたシャルカは、胸がずきりと痛むのを感じた。


(あに様を取られたとでも思ってるのかな。馬鹿みたいだ)


 その痛みを、子供じみた感傷のせいかと思い込んだシャルカだったが、鈍い痛みはなかなか消えてくれない。服の上からそっと手を当てると、触れた箇所が強く痛んだ。心痛ではなかったらしい。


(……どこかにぶつけたりしたっけ。あぁ、水源の民の商人に酷く噛まれたせいかもしれない)


 嫌なことを思い出した。シャルカはその記憶を痛みごと振り払うと、再び行く手に目を凝らす。少し進んだ先に、大きく枝を張り出した広葉樹がある。周りには潅木が茂っており、あの根元なら夜風も多少はしのげるだろう。


「あに様、あそこはどうですか?」


 弟の声を助けとばかりに、兄も顔を上げ、シャルカの指差す先を見る。


「そうだな」


 応えにはどこかホッとした色が滲んでいる。それは今夜の宿りを定めた安堵によるものではなかろう。シャルカは赤い唇から小さく溜め息を零した。


 古木に馬を繋ぐと、三人は何も言わずともそれぞれ野宿の支度にかかった。

 兄弟がノンナを連れ雲糸郷を発ってから、道々の郷や宿場に宿を得た夜より、こうして下草を寝床に過ごす夜のほうが多かった。三人の中で作業分担も自然と決まり、己が何をすべきかをきちんと把握していた。

 シャルカが枯れ枝を集め火をおこす間、ノンナは馬に水をやり、鞄から小さな鍋や保存食を取り出す。そして愛用の弓に弦を張ったセトは、矢筒を背負い、獲物を求め森に入って行こうとした。

 途端、


「待って、待ってコン・セト(セトさん)!」


取り乱した様子で、ノンナがその背にしがみつく。

 雲糸郷の男達に虐げられていた彼女は、最初こそセトに怯えていたが、彼に害意がないばかりか自分を庇護してくれるものと認めると、セトと離れることを極端に恐れるようになった。

 庇護者であるセトの目がなくなった途端、また黄土色の肌の男達が連れに来る――彼女の磨耗した心は、そういった妄執に囚われているらしかった。一行が宿の得やすい、機織の民の郷をいくつも経由する森の小道ではなく、『街道』を行くルートを選択したのもそれが理由だった。

 けれど、彼女が攫われたのは旅路の途中、『街道』の上。そして今一行は『街道』を北上している。そう、結局はこちらの道も、彼女に辛い体験を思い出せ、怯えさせてしまうのだった。牢では年下のシャルカの手前、気丈に振舞っていた彼女が、こうも己を見失ってしまうほどに。

 なのでこれはもう毎度のことなのだが、兄はさっぱり慣れないらしく、


「夕飯の足しに何か獲ってくるだけだ」


戸惑った顔で言い聞かすのだが、ノンナはその腰にぎゅっとしがみつき離れない。


「硬い麵麭(パン)や干し肉ばかりじゃ気が滅入るだろう。折角森のそばにいるんだ、ノンナだって柔らかい肉が食いたくないか?」


(違いますあに様。色々とこう、説得する方向性がっ)


 相変わらずの朴念仁っぷりをいかんなく発揮する兄に、再びひっそり息をつき、シャルカはノンナの肩に手を置く。


「大丈夫ですよノンナさん、あに様はすぐに何か獲って戻って来ますから。ね? あ、そうそう、向こうにシタン草が生えていたんです! それとお肉とでスープにしませんか?」


 はしゃいだ口調で誘うシャルカと、困り顔のセトとを交互に見やると、ノンナはようやく腕を解いた。

 寄せていた眉根を緩め、そそくさと森に分け入って行こうとする兄の背に、シャルカはひらり手を振る。


「そういうわけですから。あに様、きっちり狩ってきてくださいねー」


 どことなく棘のある弟の声音にぎくり振り返る兄が、「何か怒ってるか?」と目だけで尋ねる。それに笑顔で首を振ると、シャルカはいつものようにその背が見えなくなるまで見送り、ノンナを促してシタン草を摘みに向かった。また小さな小さな、小さな吐息を零して。




 薫り高いシタン草と丸鳥のスープ、そして脂の乗った兎を炙り、野末の夕餉は場末の宿のそれよりもよほど豪華なものとなった。狩場さえあれば、狩人の露宿の食事は粗末なものになりえない。

 温かな料理で胃と心を満たすと、ノンナは半ば気を失うように眠りについた。拘束されていたひと月もの間、ろくな食事も与えられず痩せ衰えた上、兄弟には告げぬが下肢に傷を負っているらしい彼女には、この長旅は相当堪えるのだろう。

 シャルカも、ひとりで手綱をとれるくらいに慣れてきたとはいえ、原野の馬とは全く違う蹄の馬での道行きにすっかり消耗していた。原野の馬は泥の表を滑るように移動するが、蹄の馬は跳ねるように駆ける。上下に揺さぶられながらも姿勢を保たねばならず、使い慣れない筋肉を酷使し、身体中が悲鳴をあげていた。

 それでもふたりは顔に出さぬよう努めているのだが、兄には筒抜けらしい。彼はたびたび馬を停め、ふたりに休憩をとらせた。一行の進みが捗らないのはこのためである。

 ふたりを休ませている間、兄はひとり周囲を散策しては木の実などを採ってきた。蹄の馬に慣れていないのは兄も同じはずなのに、一体どこにそんな体力があるのかと、シャルカは不思議でならなかった。

 それでいて今も、


「シャルカも先に休んでいいぞ」


焚き火に枝をくべつつ、先程の兎の毛皮にナイフを宛がい裏漉うらすきしている。

 そうして毛皮の裏に残った肉や脂をこそぎ、塩を塗って一晩火に翳し、乾かした状態にしておけば、次の宿場で宿代や水に換えることができる。狩られた獲物はその肉で彼らの腹を満たしてくれるばかりでなく、毛皮や羽根で懐までも潤してくれるのだ。

 原野で培った狩猟に関する兄の腕は、岩盤の大地で生き抜くのにも十二分に役立った。ローに渡された葉巻や裸石(ルース)は、ノンナの身支度を整えた際使い切ってしまっていたが、豊かな森沿いを走る『街道』の旅において、シャルカやノンナが不自由を感じることは何ひとつなかった。


「……あに様は本当に逞しいなぁ」


(それに引き換えぼくときたら)


 言葉の続きを飲み込んだシャルカを、


「何か言ったか?」


兄が振り返る。緋色の炎を映した灰色の瞳は、シャルカの髪に似た金色の光を帯び、雲間に差した陽光の中を勇ましく翔る猛禽のそれを思わせた。

 原野の上空を支配する猛禽達は、ヒレ持つ獣達とは違い、決して原野のみに生きるものではない。獲物の姿や生きやすい場所を求め、どこへでも飛んでいける。原に宿るも森に宿るもその心のままに。

 それらと同じ眼をした兄も、きっとそういったものなんだろう。

 そう思うと、シャルカは兄のこの並外れた逞しさがすとんと腑に落ちた。逞しさとはなにも身体の丈夫さを指すのではなく、どんな環境でもあるようにあり、この世に生まれ来た者が持って然るべき純粋で素朴な生への渇望、それに応えるべく身につけた術や強かさ、順応力、そういったものだ。

 身を用なきものに思っていたシャルカには、それが堪らなく眩しく、好ましく感じられるのだった。


(――あぁ、ぼくもあに様のように生きたい。盾になるんじゃなく、後ろをついて行くんじゃなく、あに様の隣に並んで立っていられるような……アダンさんやローさんのように、あに様の信頼に足る男になりたい)


 否、なりたいではなく()()のだ。でなければこのままずっと兄のお荷物のままだ。

 そう決心すると、シャルカは兄のそばへ寄った。


「あに様、ぼくにも毛皮の処理の仕方を教えてください」


 手伝いたいとは言わない。シャルカができるようになりたいのは、兄の手伝いではなく兄の仕事そのものだ。


「え?」

「覚えたいんです」


 そう言うと、兄は躊躇いがちに手の中の兎に目を落とす。


「いや……それはいいが、その……お前、大丈夫なのか?」


 兄の視線を追えば、身体は肉も骨も削がれているが、頭がついたままの兎のまんまるな目と目が合った。


「うっ」


 開かれた身体とはアンバランスな愛らしさを残す顔に、シャルカは一瞬同情し怯んだが、それでもぐっと持ちこたえる。


「だ、だだ大丈夫ですっ」

「そうは見えないんだが」

「だっ、大丈夫れすっ」

「噛んでるぞ。無理しなくても、」

「だいじょぶですってば!」


 シャルカは心配そうな兄を振り切り、強引に隣にしゃがみ込んだ。

 兄はまだ不安げな顔をしていたが、やがて小さく息を吐くと、立てた膝の間にシャルカを座らせた。小さな膝を保護するように剥いだ木の皮を敷き、その上に兎の毛皮を乗せる。獣の臭いがシャルカの鼻をツンとさせた。それに耐えていると、


「まず余計な肉を削いでいく。こうして、刃を寝かせて滑らせるんだ」


兄は渡されたナイフを握るシャルカの右手を取り、丁寧に教え始める。

 えずきを堪えながらの初めての作業は、覚束ず時間を食ってしまった上、結局は皮に穴を開けてしまい失敗に終わった。落ち込むシャルカを、兄は叱ることなく頭を撫でて慰めた。

 けれどこれを機に、シャルカは少しずつ兄の業を学び始めるのだった。

 そんな彼らを、下弦の月がしらしらと照らしていた。



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