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モノクローム・サガ~彩色の御子~  作者: 鮎川 渓
二章 獣神を崇める郷
37/51

ひとつの郷の終焉


 この色味に乏しい世界で、シャルカの見目を除けば、人々が目にすることができる唯一鮮やかな色彩は『赤』である。

 皮膚の下を流れる紅、燃え盛る朱、そして老いた巨星が放つ緋。


 邪教徒達の悪しき祭祀は、今やその赤全てに彩られた獣達の宴と化していた。

 凪ぎ倒された松明から機織場へ火が燃え移り、木造の建物はたちまち炎に包まれる。隣接する建物へ次々に燃え広がる大火に、地獄の様相が詳らかに照らし出された。

 広場を逃げ惑う黒衣の男達へ襲いかかる狼ども。その背に飛びかかり、引き倒し、思う様食らいつく。

 猪どもはその巨体を家屋の戸に打ちつけ壊し、我が物顔で押し入っていった。家々からも凄まじい絶叫が漏れてくる。

 そして、夜空へ太く立ち昇る黒煙の周囲を旋回する猛禽の影。


「どうなってるんだ」


 酸鼻極まる光景を前に呆然と呟いた直後、セトは全てを理解した。

 この郷を眺めた時に抱いた違和感の正体。

 そして己が()()()()()ことの意味を。


 これだけ多くの獣が棲む森の只中にあるにもかかわらず、この郷には()()()()()()()()()()()()()()()()()。肉食獣が跳梁する森に対して、この郷はあまりに無防備すぎた。それが郷の風景に対する違和感の原因だったのだ。

 島育ちのセトには、郷の周囲を柵で囲うという発想がないため、すぐにそうと気付くことができなかった。それでもこの森へ入ってすぐ狼の群に襲われたあと、辿り着いた郷の門があれだけ簡素だったことが、どこかで引っかかっていたのだろう。

 何故ローや他の民が訝らずにいたのか不思議に思うセトだったが、本来獣というものは人郷を避けるもの。森が痩せ食うに困るか、余計な恨みを買わぬ限り、好き好んで立ち入る獣などいない。岩盤の大地に暮らす彼らはそれをセトよりもよく知るがため、そしてこの郷が森の獣を尊ぶ機織の民の郷であるがために、無用心とは思えど訝るまでには至らなかったのだ。


 なら何故この郷に柵がないのか。獣除けの鈴を下げた門ひとつ設けたきりで、今日まで無事で来られたのか。

 何故今こうして獣達は群なして人を襲うのか。


(あの熊は、確かにこの郷を()()()いたのか――!)


 月に一度饗される贄のため、あの熊の親子は雲糸郷の周囲一帯を縄張りとしてきたに違いない。贄を得る対価として、他の獣達を払いながら。

 熊としては自らの縄張りを守っていたに過ぎぬだろうが、結果として雲糸郷の民は柵よりも強固な守護者に護られ、今日まで安寧な暮らしを享受してきた。無論、贄となった者達の犠牲の上に成り立つ、邪な安寧ではあるが。

 一体いつ、どうしてこんなおぞましい取り引きが始まったのだろう。

 最初の民がどうやって熊を躾けたかなど、セトには到底分からぬ。贄と、鈴を鳴らして森を往く郷人の違いを、どう教え込んだのか。まさか本当に人語を解す『神の御遣い』であったとでも言うのだろうか。

 ともかく、郷人が贄の儀式を受け継いできたように、熊側もまたそれを子や孫に伝えてきたに違いなかった。先程の仔熊のように、親がそうするのを見て育つのだろうから。


 けれどその取り引きによって、人の味を覚えたのは熊ばかりではなかったのだ。

 セトの死をじっと待ち構えていた無数の獣達。

 あれらも皆毎回熊のおこぼれに預かって――否、あの勢いでは掠め取ることさえあったかも知れないが――ともかく人の味をしめていることは明らかだ。

 それにより御遣いの熊ばかりでなく、森中の肉喰らう獣達が、人間を餌と見なしていたのである。

 戦も狩りもせず、ろくな武器を持たぬこの郷の民など、獣達にとっては無抵抗な贄とさして変わりあるまい。郷に行けば確実に群れて居るのだから、どれだけ餌として魅力的に映っていたか。

 けれど今までは御遣いの熊に阻まれ手出しすることができなかった。それでその死を契機に押し寄せて来たのだろう。


「獣どもめ、人の肉がそんなに旨いものかよ」


 そう吐き捨てたセトだったが、この郷唯一にして絶対の護りを打ち破ったのは他ならぬセト自身だ。

 この惨状は己が引き起こしたのだと察し、にわかに青ざめる。


(いや、)


 けれど、胸と肩に重く圧し掛かりそうになるそれを、頭を振って追い払う。


(例えそうと知っていたとして、俺はあれを倒さずむざむざ喰われたか? いや、それでもこうしていたはずだ。でなけりゃ――)


 牢にいるふたりの顔を思い出すや現実に立ち返ったセトは、剣の柄を握り直し、獣どもが這い回る広場へ飛び込んでいった。

 右往左往する人々を押し除け、狼に(はらわた)を喰われている男の脇を抜ける。

 弱肉強食の食物連鎖に取り込まれれば、生身の人間などこうも弱い。残酷な眺めではあるが、狼の鋭利な牙で一思いに裂かれる者はまだ幸いかもしれない。猪の平らな歯で少しずつすり潰すようにして食まれる者などは、なかなか致命傷を与えられず、意識を手放すこともできずに、身を削がれる激痛に叫び狂っている。

 けれどこれも彼らが続けてきた悪習の業が返ったに過ぎぬ。贄など与えなければ、獣どもがここまでこぞって人肉(ひと)の味に魅入られることなどなかったのだから。

 そう感傷を断ち切って、セトは牢の鍵を持つ長の姿を探した。けれど男達は誰も彼も黒いローブを被っているため、いちいち顔を覗き込まねば見分けがつかない。


「もう鍵ごと喰われちまったんじゃないだろうな」


 獣達を牽制しながらの人探しは容易でなかった。

 もしかしたら宿に逃げ込んだりはしていないだろうか。どの道部屋に置いてきた荷を回収しに行かねばならない。セトは宿の方へ走り出した。

 すると民家の横を駆け抜けざま、


「助けてぇ!」


中から子供の泣き声が聞こえてきた。丁度シャルカと同じ歳頃の少年の声だ。同時に獣の激しい息遣いもする。


「誰か助けて、お父さんどこにいったのッ?」


 咄嗟に踏み込もうとした己の足を、セトは必死で地に縫いとめた。

 牢の中にいる限り、シャルカとノンナが獣に襲われることはないだろう。しかし思いのほか火の回りが早い。いくら牢が奥まった場所にあるとはいえ、火の粉が飛ばぬとは限らない。


(この郷がいかに業深くとも、何も知らない子に罪はない。けれど目につく子らを片っ端から救おうとして、万が一俺が斃れてしまったらどうなる。そうなればあのふたりは……――)


 過度な謙遜は見通しを誤らせる素だが、過剰な自負は破滅の素だ。己の力量を見誤り、己が腕に余るほど抱え込んでしまえば、本当に大切な物ひとつ護れなくなる。

 誰かの庇護者でありたいと望むなら、まず己が無駄死にせぬことだ。生きて庇護すべき者の許へ戻れなければ話にならない。

 セトは歯を食いしばると、その声に背を向け再び駆け出した。


「助けて、助け……!」


 救いを求める声が痛ましい絶叫に変わる。渾身の力で噛みしめるあまり、歯茎(しけい)が破れ口の中に鉄の味が広がった。それでも振り向くことはせず、彼はただ前だけを睨み走り続けた。




「ねぇ、やっぱり様子が変だわ」


 表の様子を窺おうと爪先立ちになったノンナは、形の良い鼻を宙に向け注意深く息を吸う。


「焦げ臭い……松明はこんな臭いしやしないもの」

「…………」


 祈るため膝を折ったままでいるシャルカにも、外の変化は伝わってきていた。

 少し前、長いこと聞こえていた唸り声が止んだかと思うと、怒号や悲鳴にとって代わった。太鼓も止まり、大地を転げ回るたくさんの足音もする。


「祭りの最高潮(クライマックス)の馬鹿騒ぎってんじゃないでしょうね? この郷の連中の考えることときたら、ホンットに分からないんだから」

「さぁ……」


 状況が分からず苛立ち始めたノンナに、シャルカは生返事を返す。

 嫌な想像ばかりが浮かぶ。

 もしノンナの言うとおりなら、祭りが最高潮に達するきっかけがあったということでは。そのきっかけとは、贄として連れて行かれた兄が、御遣いの牙にかかったということでは……そんな不安が渦巻き、シャルカの膝はガタガタと震えだす。

 けれどそうとノンナに知られ怯えさせてはならないと、じっと座っていることしかできない。

 その時、ひとつの足音が慌しく近付いてきた。次いで天井の一部が大きく開かれる。


「あに様っ!」


 思わず呼ばわったシャルカだったが、文字通り階段を転がり落ちてきたのはセトではなく、例の小太りの男だった。

 脂汗の滴るその顔を見るや、「ヒッ」と小さな悲鳴をあげ、ノンナは壁にへばりつく。けれど男の方はノンナを見るとホッとしたように目尻を下げた。


「良かったぁ、無事だったんだね! この郷はもうだめだ、一緒に逃げるんだよ!」

「どういうこと……?」


 男は焦って何度が鍵を取り落とし、やっとのことでノンナの牢の鍵を開けると、大股に歩み寄り彼女の手首を掴む。肉付きの良い男の手とやせ細った腕の対比が痛々しい。


「やめてください!」


 シャルカは震える足を叱咤して、セトが開けた穴から隣へ飛び込んだ。男を止めようと肉厚な背にしがみつく。


「やめて、触らないでっ。それよりあの人はどうなったのよ!」


 ノンナも遮二無二腕を振り回すも、小さなふたりの抵抗はあっさりと跳ね除けられてしまった。ノンナを引き摺るようにして扉を潜りながら、男は虚ろな目でぶつぶつと独りごつ。


「もうだめだもうだめだ、この郷はもうだめだ御遣い様がおかくれになったもうだめだ。でも大丈夫、これでも薬師だからねどこへいっても歓迎されるよだいじょうぶ」

「いやぁッ、離してったら!」


 男の足が階段にかかる。シャルカはその背に体当たりしようと身構えたが、


「シャルカ、退がれ!」


耳馴染んだ低い声がそれを遮った。

 慌ててシャルカが飛び退くと、天井に開いた口から黒い影が降ってきた。尖った長靴(ブーツ)の爪先が、落下の勢いそのままに男の頬へめり込む。男は声もなく吹っ飛ぶと、鉄格子に強か頭を打ち気絶した。代わりにノンナの喉からか細い悲鳴があがる。


「あに様、よくぞご無事でっ!」


 シャルカは着地した兄の背に思わず飛びついた。抜き身の剣を持ったままだったセトは慌てて窘める。


「危ないだろう、お前が怪我したらどうする! いやそれどころじゃない、すぐにこの郷を出るぞ」

「何があったんです?」


 その問いに、セトの表情がかすかに強張る。


「郷は今、森の獣達の襲撃を受けている。あちこちから火の手が上がり酷い有様だ。早く出ないといずれここにも……」

「どうしてそんなことに、」

「話はあとだ。ふたりとも、とにかく上へ」


 セトがノンナに手を貸そうとすると、その肩が大きく跳ねた。セトは己が彼女の恐怖の対象であることをすっかり失念していたのだった。


「シャルカ、ノンナを手伝ってやれ」

「分かってます」


 短く答えた時にはもう、シャルカはノンナの腕を取っていた。

 ノンナは申し訳なさそうに、そして色々と訊きたそうにしていたが、黙って従い地上を目指す。

 小さいながら利発なふたりを見、セトは密かに己に言い聞かせた。

 ――これで良かったのだと。



 ひと月もの間狭い牢に押し込められ、暴行を振るわれてきたノンナの足腰は、すっかり萎えてしまっていた。山育ちであるのに、階段を登るのさえやっとだった。

 ようやくのことで地上に出たふたりは、小屋の窓から臨む郷の現状に声もない。


「あまり見るな」


 セトの声にも、ふたりは赤く染まった町並みから目を逸らすことができずにいた。

 その間にセトはひとり小屋を出、裏に回されていた二頭の馬を確認する。どうやら男がノンナを連れて逃げるため、郷の馬小屋から連れ出してきたものらしかった。それぞれきちんと鞍がつけられ、括りつけられた革鞄には水や携行食などの旅道具が一通り詰められている。

 気色悪い男だとばかり思っていたが、毒の調合の腕といい、突然の窮地に際しここまで冷静に行動したことといい、それなりに有能なのかもしれない。だからと言って、子供達の目がなければ首を刎ねてやりたい気持ちに変わりはないが。

 そんなことを思いながら、セトは宿から回収したささやかな荷も鞄に詰めると、周囲の安全を確認してからふたりを外へ連れ出した。シャルカには白い長法衣(ローブ)を、ノンナにはローが見立ててくれた己の外套(マント)を手渡して言う。


「シャルカ、お前はこっちの馬を使え。こっちの方が大人しそうだ」

「はい。……って、えぇ! ぼくひとりでですかっ? ぼく、蹄の馬なんて……!」

「お前なら大丈夫だ。慣れるまでは併走して俺が手綱を取る。原野の馬も蹄の馬も、扱い方はそう変わらない」


 そう言ってセトはシャルカを抱えると、馬の鞍に押し上げた。初めて乗る蹄の馬、その視界の高さに、シャルカは堪らなく不安になる。

 けれど今のノンナはどう見てもひとりで馬に乗れる状態にない。それに、兄に信頼してもらえたことが誇らしかった。シャルカは覚悟を決めると、馬の首をそっと撫で、「よろしくね」と囁いた。

 が、そんなシャルカよりもたじろいだのがノンナだった。


「乗れそうか?」


 馬上から差し出されたセトの手を取れず、うろうろと視線を彷徨わせる。まだ渡した外套すら着ていない。

 そんなノンナを見、


「すまない、気持ちは分かるが少し我慢してもらえないか。シャルカにいきなり二人乗りは無理だ」


セトは心底申し訳なさそうに顔を曇らす。ノンナは慌てて首を振った。


「ち、違うの、その……」


 引き摺るほど長い外套を抱え、素足の爪先をもじもじと擦り合わせる。


「その……だってわたし、その……」

「何だ、」


 セトは忙しなく辺りを探りながらも、威圧しないよう続きを促す。けれど彼の耳はこちらへ駆けて来る四足の獣の足音を捉えていた。


「その、だから……」


 早く。早く。

 足音はもうすぐそこだ。急かしたくなる気持ちを堪え、


「何だ、言ってくれ」


セトが催促すると、ノンナはしばし躊躇ったあと、耳まで真っ赤に染めて呟いた。


「だってわたし、こんなに汚れているし……その、酷い臭いだし」


 乙女らしい苦悩がその唇から漏れるのと、小屋を回りこんできた一頭の狼が姿を現したのは同時だった。空腹の唸りをあげ、ノンナを見るや牙を剥き飛びかかる。


「きゃっ……!」


 思わず頭を抱えるノンナ。けれどその牙は彼女に届くことはなく、狼はセトの抜き放ちざまの一閃に胴を裂かれた。


「そんなこと気しやしない、いいから乗れ!」


 少女の恥じらいなど、妻はおろか女兄弟すら持たぬセトは全く解さない。微笑ましく思うどころか少々苛立ち、真新しい外套でノンナを包むと強引に鞍の上に引き上げた。


「や、やだっ、外套だって汚れちゃう、まだ新しいのに!」

「言ってる場合かっ、暴れるな! シャルカ、しっかり鐙に足をかけろ!」


 荒々しく吼え、鐙を蹴って走り出す。

 燃え盛る家々を抜け、郷の出口を目指した。

 獣どもは逃げ出す一行を振り向きはしたが、まだ抗う術を持たぬ郷人がたくさん残っている。武器を携え馬を駆る三人をあえて追おうとはしなかった。

 背に人々の断末魔や、絶望に打ちひしがれた叫びが追い縋ってくる。燃え尽き、崩落する建物の軋み、熱狂する獣達の咆哮も。

 それらを振り切り、郷の門を潜りざま一瞥すると、錆の浮いた鈴の表はひとつの郷の終焉を静かに映し出していた。

 三人の胸中は様々だったが、誰一人顧みることはせず、夜の森へ駆け去った。



                                <二章・了>



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