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モノクローム・サガ~彩色の御子~  作者: 鮎川 渓
二章 獣神を崇める郷
36/51

原野の狩人対四足の捕食者


「冗談だろ」


 現れた一頭の熊を前に、セトは思わず零していた。

 その巨躯たるや。四肢を地につけた状態で、壇上の彼の腰ほどもあろうか。後ろ足で立ち上がったなら、上背のあるセトをも優に越えてくるはずだ。毛皮にされた熊ならばセトも幾体か目にしてきたが、それらと比ぶべくもない。恐らく種を異にしているのだろう。

 熊がのそりと茂みから這い出し、月明かりの許に全貌を晒すと、見るからに(こわ)い墨色の毛並みが白銀の光沢を纏う。その輝きを呼吸に合わせ波打たす様は、害獣と認識しているセトをして息飲ますほど神々しい。

 正に『神の御遣い』の名を負うに相応しい、堂々たる威厳と貫禄を備えた見事な雄熊だった。


(これほど大きな獣が、人郷のそばに巣食っているとは)


 こんな森の浅い場所で、その巨体を維持できるほどの糧が確保できるのだろうか。この森の豊かさの左証か。否、郷人の手で定期的に(えさ)が饗されるからここに留まっているのかもしれない。

 そこまで考えて我に返り、セトは改めて弓を引き絞る。

 けれど熊は空き地の際から動かない。両眼でじっとセトを観察している。

 小太りの男の言が嘘でなければ、贄とは祭壇で伏して動かぬものなのに、身を起こし武器を手にした(セト)を訝っているのだろう。

 それでも威嚇すらしてこないのは、その必要性を感じていないからだ。油断ではない。人の子が蚊を叩くのにいちいち威嚇せぬのと同じ。炎を持たぬ二本足の獣(人の子)が、己を脅かすことなど有り得ぬと。


「…………」

「…………」


 互いに身じろぎせず睨み合う。

 その茶色の瞳と目が合うことに、セトは妙な感覚を覚えていた。

 原野では、獲物と正面きって目が合うことなどほぼなかった。合うのはせいぜい蛇か猛禽類程度。

 原野に生息する大型の獣と言えば、野生の馬や牛、鹿などで、その目はいずれも顔の側面にある。草食動物であるそれらは、一早く敵の存在に気付けるよう広い視野が要るためだ。正対しても視線が交わることはない。

 対して、この熊の目は顔の正面。正面にあるのは、獲物との距離を正確に測るために他ならぬ。

 そう。

 この巨大な熊は、セトが初めて対峙する四足(よつあし)の肉食獣だった。


「ついてないどころじゃないな」


 よりによってそれがこんな大物だなんて。

 そんなぼやきがつい口をついて出る。

 おまけにセトはこの場から動くことができない。弓使いは相手の接近を許さず、いかに距離をとり続けるかが肝要だというのにだ。

 両者間の距離は、セトの見立てでわずか四十歩程度。あの四肢であれば一息に詰めて来られるだろう。立て続けに矢を放ち、その全てが急所を捉えたとしても、ここへ到着するまでに仕留めるには短すぎる。

 ふいに視線を感じ、セトは目だけを動かし辺りを探った。木々の合間から幾対もの光る目がこちらを窺っている。森の動物達がおこぼれに預かろうと、贄が喰い散らかされるのを待っているのだ。

 己がくたばるのを望まれるのはいい気がしない。それも有象無象の獣風情に。

 セトは乾いた唇を舌で湿した。

 早まる鼓動が耳の中で反響し、一切の雑音を遮断していく。それにより緊張感と集中力が高まっていくのを心地よく感じていた。

 恐怖はない。

 より優れた者が生き残り、そうでない者が地に伏す。戦いも狩りもそれだけのことだ。

 けれどそれだけのことに血道をあげ、幾世代にも渡りその術を磨いてきたのが原野の男である。その末たるセトも、強敵を前に武者震いを禁じ得なかった。

 逸る心を抑えつけ、じっと機を待つ。


 睨み合ったままどれほど時が流れたか。

 動かぬ両者にしびれをきらした一羽の鳥が甲高く鳴いた。熊の目がそちらを向く。

 この好機に即座に黒羽根の矢が飛んだ。狙いは右目。その矢が届くのを待たず、セトはすぐに次の矢をつがう。奴が気付いた時にはすでに遅く、第一の矢は右の眼窩に吸い込まれていった。

 熊の口から形容しがたい咆哮が迸る。身悶え、太い腕を振り回し、右目から生えた矢を遮二無二叩き落とす。へし折られた矢と共に、潰れた眼球が糸を引いて転がり落ちた。

 動きが激しい。セトは左目を狙うのを諦め、上体を浮かせた隙にその左胸めがけて射た。

 が、しかし。

 矢は確かに命中した。心の臓がある場所に。けれど熊は容易くそれを払うと、四足で地を蹴り猛然と向かってくる。


(刺さりが甘い――!)


 すぐさま第三、四の矢を顔面めがけ射掛ける。けれどいずれも固い毛に阻まれ、頬を浅く抉るに留まり、突進を阻止するには至らない。


(この弓じゃ奴に致命傷は負わせられない!)


 セトは己の弓と、森の狩人であるローの弓とがああも違っていた訳を思い知る。

 原野の弓に求められるのは主に飛翔性。当然ただ飛ぶだけでいい訳ではなく、有効射程距離を伸ばすことに重きを置いている。

 セト自身がローに語ったことでもあるが、遮蔽物のない原野で狩りをするため、そして戦で自陣の被害を最小に抑えるため、こと弓島では馬上での取り回しの悪さを呑み長弓(ちょうきゅう)を扱うようになった。

 一方、威力に関してはあまり重要視されていない。何故なら狩場は泥濘の上であり、あまり威力を高め過ぎると、泥の表を這う小型の獲物を矢もろとも沈めてしまいかねないからだ。


 対して古森の弓は短く、ローが原野の弓のしなやかさに驚いたように、セトもまた古森の弓の硬さに驚かされていた。

 木々の入り組む森を狩場とする――それも『露払い』であるから、狩りの対象となるのは杣人(そまびと)や隊商を襲う害獣である――古森の狩人にとって、射程距離を伸ばすことはさして重要ではない。

 むしろ、出くわせば逃げだす草食獣と違い、人と見れば向かってくる肉食獣を相手取るのだから、被矢(ひや)の際の威力、殺傷力、貫通力などが求められて然るべきだ。ローが素早い連射の腕を身につけたのもそのことに因るのだろう。


 決して原野の弓が劣っているとは思わない。

 弓に求めてきた性能が違うのだ。

 けれど原野の弓では四足の捕食者、それもこれだけ頑丈な体躯の大物を斃すことなど叶わぬのは紛れもない事実。

 セトは島の誇りである弓に固執することなく即座に見切りをつけると、大剣の柄に手をかけた。

 怒り狂った熊は、屈強な四肢で下生えを蹴散らし迫ってくる。顔面の穴という穴から血と粘液を滴らせる姿に、最早神の遣いとしての威厳はない。代わりに鬼気迫る手負いの猛獣がいるばかりだ。

 気を吐き、大剣の切っ先を目線の高さに構える。刃こぼれが目立つこの刃では、あの毛皮ごと肉を断ち切るのは容易でない。

 ならば。


 とうとう熊の前足が祭壇にかかる。勢い壇上に飛び上がると、熊はその巨体を見せつけるよう後ろ足で立ち上がった。やはり大きい。間近で熊を見上げながら、その圧倒的迫力にセトの喉が鳴る。

 熊は右腕を無造作に振り抜いた。人の子には到底抗えぬ力で構えた大剣を払い除けると、がら空きにした胴へ左腕を振り下ろす。

 咄嗟に後ろに飛んで避けたセトだったが、足枷の鎖が突っ張り、空中で身体の制御を失うと背中から段の下に転落してしまう。衝撃で手から剣が零れた。

 この好機を見逃すはずもなく、熊もセトを追い壇上から身を躍らせる。骨さら噛み砕かんと、凶暴な顎門(あぎと)が開かれた。

 人の味を覚えてしまった獣は、気が逸ったか(えさ)の動きに気付かなかった。

 セトは取り落としたと見せかけた剣を掴むと、まだ辛うじて鋭さを保つ切っ先をその口腔へ差し込んだ。落下を開始していた熊はもう後戻りできない。己の重みと勢いとが仇となり、深く刃を呑み込む羽目になる。

 ずぶりと粘膜が破れる音、そして奥の頭蓋すらも、ごりりと嫌な音を立て貫かれていく。

 夥しい血液と涎とがセトの顔面に降りかかる。けれどそんなことを気にする余裕はなく、重みで自らの喉許にめり込みそうになる柄を必死に支え続けた。

 やがて墨色の巨体が大きく戦慄き、肢体から力が失せた。途端、大の男七人分はあろうかという重みがセトの身体に圧し掛かる。


「げっ……!」


 重い。生臭い。息が詰まる。一旦柄から手を離すと、両手足に渾身の力を込めて押し返し、何とか熊の下から這い出す。それだけでもう一苦労だった。疲れた身体を祭壇の側壁にもたせかけ、大きく息をついた。

 四肢を投げ出し横たわる熊は、まるで黒い小山のようだ。それを見下ろしながら顔を拭っていると、ようやく勝利の実感が沸いてくる。

 何とも危うく、得意な得物を捨てて得た勝利だが、


「俺の勝ちだ」


勝ちは勝ちである。

 ささやかな勝鬨をあげると、熊――神の御遣いを討ち取った証として、その右耳を切り取った。郷の者達に見せ、牢のふたりを解放するために。

 だが問題はまだ残っている。

 セトはますます傷めてしまった相棒の剣を翳し、


「悪い、落ち着いたらすぐ砥ぎに出してやるから」


心底申し訳なさそうに詫びてから、足と杭とを繋ぐ鎖の継ぎ目へ切っ先を押し込む。鎖の輪を押し開きながら、継ぎ目の断面でごりごりと擦れる様子に胸が痛んだ。

 ようやく鎖を断ち切ると、足枷はそのままだが一先ず自由を得る。

 ホッとしたのも束の間、再び大きく茂みが揺れた。

 見れば、潅木の間から二頭の熊がこちらを窺っている。どちらも今仕留めたものよりは小さいが、それなりの大物である。その大きさ、顔つきからして、この熊の(つがい)と仔だろう。


(おいおい、今あの二頭に同時に来られたら……!)


 さしものセトの額にも嫌な汗が浮かぶ。

 けれど二頭は動かぬ熊をじっと見ていたかと思うと、何度か宙に向けて鼻を鳴らし、くるりと背を向け去っていった。


「何だ、脅かしてくれるなよ」


 脱力しかけたセトだったが、すぐにまた緊張を強いられることになった。

 今度は周囲の茂みという茂みが鳴り、八方から灰色の狼達が現れたのだ。


「……ッ!」


 すぐに跳ね起き剣を構えなおすも、いかんせん数が多すぎる。見れば、狼達の背後には丸々肥えた大猪達が控え、木の上には屍肉を漁る猛禽の姿もある。隙間なく取り囲まれ、退路が見出せない。

 歯噛みするセトへ向かい、正面にいた一際大きな狼が一歩進み出た。恐らくこの群の頭目だろう。鋭い双眸と視線がぶつかる。

 けれどその視線の中に、セトに対する敵意はあれど、不思議と害意は感じられなかった。


 ――(それ)を置き失せろ。


 それが獣達の要求らしい。

 どんなに強く恐ろしい獣でも、死んでしまえばただの肉塊に過ぎぬ。つまりは目が合う彼らの餌。それもこれだけ大きな餌だ。セトの死骸を漁る気だった彼らには予想外、むしろ喜ばしい結果となったわけだ。

 すでに討伐の証明となる片耳を得ているセトは、執着する素振りを見せずゆっくりと弓矢を拾い上げ、後退していく。それに連れ徐々に獣達の輪が狭まってきた。狼の頭目にその気がなくとも、背後のものどもが飛びかかって来ぬとは限らない。後ろも気がかりだが、頭目と交えた視線を逸らす訳にもいかなかった。怯みを見せた瞬間、彼の身も餌と見なされることになるからだ。

 剣を油断なく構えたまま、じりじりと後退さっていく。すぐ後ろで狼の唸り声がした。

 しかしその時、突然茂みから別の狼の一団が飛び出して来たかと思うと、元いた狼達へ一斉に飛び掛った。

 それを機に壮絶な餌の奪い合いが始まる。食らいつき合う狼達を尻目に、枝を離れ殺到する猛禽ども。それを踏み散らし、屍肉に牙を突き立てる大猪。が、そうはさせまいと今度は狼の群が結託して猪に牙を剥く。

 たった一頭の熊を巡り、草原はたちまち獣達の戦場と化した。


(こうなることが分かっていたから、あの熊達はすぐ退いたのか!)


 セトも二頭に倣い、すぐさまその場を離脱した。

 もう獣どもは一頭たりともセトのことなど気にかけない。包囲を突破し、連れてこられた道とも言えぬ道を全力で駆ける。足枷が邪魔をして思うように速さは出ないが、それでも逃げられるだけマシだ。

 木の根に足をとられつつ駆けに駆けると、ようやく郷の明かりが見えてきた。邪教徒達の唸り声はまだ続いている。

 忌々しく思いながらも少々安堵しかけたその時、背後から猛追してくる幾多の足音が響いてきた。

 足を止めぬまま振り向くと、どうやら戦いに敗れたらしい獣達が群なして追ってくる。


「クソッ、次から次に!」


 逃げ切れぬと悟ったセトは、振り返り剣を構えた。

 しかし獣達はセトの手の大剣を見るや、彼を迂回し雪崩打って雲糸郷へ駆け込んで行く。


「なっ……」


 最後の一頭がセトの脇を通り過ぎるが早いか、背にした郷の方から身も世もない悲鳴が上がりだす。

 急ぎ後を追うと、郷は獣達の戦場よりも壮絶な修羅場(しゅらじょう)と化していた。




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