守る者、守られる者
外へ連れ出されてみると、牢があったのは郷の奥まった場所に建つ古びた物置小屋の地下だった。これでは他所から訪れた民が近寄ることはまずあるまい。地下でいくら声を張り上げようと、この場所を知る住人以外の耳に届くことはないだろう。
春の星座が散りばめられた夜空を仰げば、星々の主とばかりに真円の月が鎮座している。その硬質な輝きは暗がりにいたセトの目には眩しく、立ち止まり数度目を瞬いていると、突然左のこめかみを強打された。皮膚が裂け、生温かい血が細く頬に伝う。見れば、脇を固める若者の手に蛮刀が握られており、その柄尻で殴られたらしかった。
「今になって怖気づいたか? とっとと歩け」
手の甲で傷を拭い無言で一瞥すると、セトは先立つ長に続き歩き出す。向かう先は郷の中央の広場だった。
夜の大気の静謐を破る太鼓の音。近付くにつれ、ウゥともオォともつかぬ、無数の男達の地を這うような声が聞こえだす。広場に満ちる呪いめいた唸りの唱和は、郷中へ溢れ、漆黒の影化した森にまで滲み出していく。
日中とは一転した広場の様相を目にした瞬間、セトはぞっと総毛立った。
ぐるりを松明で囲んだ上、中心にある彫像の傍らには大掛かりな篝火が焚かれており、井桁に組まれた薪は忙しなく爆ぜ、火の粉と黒煙とが夜空を舐めんと吹き上がる。
異様なのは、それを取り囲む邪教の徒ども。漆黒の外套に身を包み、炎を拝すが如く地に伏して、一心不乱に不気味な声をあげ続けている。
祈りの仕草は一糸乱れぬものなれど、声の高さや抑揚は微妙に少しずつ異なっていて、それがどうしようもなく不快感を掻きたてた。頭蓋と脳の間をさりさりと削るような、不快な音の擦れ。生理的な嫌悪感と言ってもいい。耳にしているだけで気が違いそうだった。今その手に剣があったなら、セトは腹の底から吠えたてて、手当たり次第に斬りかかっていたやもしれぬ。
彼が気取られている間に、広場の者どもと同じローブを着込んだ長が贄の到着を告げると、伏した連中が一斉に振り向いた。炎に照らされたその顔に、セトは少しだけ安堵する。ここに子供の姿はない。女の姿も。居るのは若者から老人まで、全て成人と思しき男達だけだった。いくら郷の祭りとはいえ、この邪な儀式のただ中に子供の顔を見つけていたら、正気を保ち続けることはできなかったろう。
しかし同時に、贄として現れたのがノンナでないと知り、幾つかの顔に喜色が走るのをセトは見た。彼女に狼藉を働いていたのは三人だけではないらしい。
(害獣を仕留めた暁には、こいつら端から斬り捨ててやる)
燃えるような呼気を吐き、群居る邪教徒どもにありったけの殺気を叩きつけながら、セトは長に引かれるまま彫像の前に進み出た。その歩に合わせ太鼓の音が早まり、男達の唸り声も一層高まっていく。
大きな一本の丸太から彫り出したと思われる像は、兎や狸、鳥や狼など、周辺の森に棲む様々な生き物が刻まれている。それらを懐に抱くようにして仁王立ちしているのは、雄雄しく毛を逆立てた熊の像。カッと口を開けた形相は逆巻く炎の赤に染まり、酷く禍々しく映った。
(あぁ、御遣いの獣はこれか)
セトはローと森で見つけた巨大な爪痕を思い出す。狼をも引き千切る圧倒的な力に神性を見出し、尊びたくなるのは分からぬでもない。けれどこの郷の連中の崇め方は異常だ。
まさか原野のすぐそばにこんな魔境があろうとは。
最初に辿り着いた郷が邪教徒の巣窟だったなんて、ついてないにも程がある。蒼穹神は原野を去った自分達を見放したのか。唇の内で己が神に対し、信心深いシャルカにはとても聞かせられない悪態をつく。そんな彼の腕を、長の手がしかと掴んだ。
「さぁ、御遣い様にその血を捧げよ。その血の匂いで、御遣い様をお招きするのだ」
セトは芝居がかった物言いをせせら笑う。
「血だと? お前のとこの若いのに、既に流させられているんだが」
切れたこめかみを指で示すと、長は一瞬蛮刀を手にした若者を睨み、それから無理矢理セトの腕を熊の口に押しつけた。大きく開かれた口に腕を噛まれる格好になり、鋭利に磨がれた牙の先が肌に食い込む。穿たれた穴からまたぞろ血が流れ出した。
熊の口の端から赤いものが滴ると、男達の熱狂は最高潮に達し、呻きの唱和はいまや狂おしいまでの絶唱となって広場に渦巻いた。
「ここにその御遣いとやらを呼び寄せるのか?」
尋ねると、長はフードの奥の顔を不敵に歪める。
「まさかよ。巻き添えはご免だ」
そう吐き捨て、長はセトの身柄を先程の三人に引き渡した。別の場所へ移動させられるらしい。例の小太り男が自分の弓矢と剣を抱えているのを見、セトは密かに胸を撫で下ろした。
両脇を抱えられ広場を後にすると、郷の外れを抜け夜の森に分け入っていく。けれど男達の声はどこまでも不気味に追いかけてきた。
女子供はどうしているのだろう。
歩きながら、セトはそんなことをぼんやりと考えた。
いくら家の中に篭っていても、男どもの声が聞こえていないはずがない。夫が、父が、息子が、恋人が、憐れな贄を死地に追いやる声を、どんな心持ちで聞いているのだろう。卓に、あるいは寝床に突っ伏して、耳を塞いでいるのだろうか。もしくは男達と同じように、拳を握りしめ、狂乱の恍惚に頬を染めているのだろうか。
どちらにせよおぞましいことだ。セトは小さく頭を振って、嫌な想像を振り払った。
背中にかかる男達の唸り、風に弄られた梢のざわめき。夜の森は喧しく、相変わらず幾多の気配に満ちていたが、ローの助言のお陰か、自分でも驚くほどにセトの心は凪いでいた。
しばらく進むと、ぽっかりと開けた空間に行き着いた。
薄鈍色の下草が月の光を反射し、思いのほか明るい。その中央に、雲糸で織った真っ白な生地で覆われた祭壇が設えられている。高さは膝程度、広さは大の男が丁度横たわれるほどだった。
「ここで御遣い様を待て」
そう言ってセトを台に押し上げると、中年男は持参した足枷をセトの片足に嵌め、鎖の先を祭壇の杭に繋いだ。
「おい待て、俺は喰われに来たんじゃないぞ!」
抗議すると、小太りの男は怯えたように手錠を外したが、抱えてきたセトの武器は祭壇の下、手を伸ばせどぎりぎり届かぬ位置に置いた。
「それを渡せ、好きにしろと言ったろう」
凄んで見せるセトに、男はおどおどと丸目をきょろつかせる。
「えぇ、だって君ぃ、今渡したら帰っていく僕らの背を射るだろう? それは困るよ。ねぇ、それよりも君ぃ、良ければ眠り薬を打ってあげるよ? とっても強い薬だから、打てばすぐさま夢の中、噛みつかれたって気付く間もなく逝っちゃえるよ。そうしたら全然恐くない。恐いのは嫌だろう? 皆そうしてあげてるんだ」
セトはようやく理解した。この気色悪い男こそが、雲糸郷が誇る優秀な薬師なのだと。
まったく人は見た目と喋り方によらない。セトはこの男とこれ以上喋るのが苦痛で邪険に手を振った。
するとその時、森の奥がシンと静まり返った。葉擦れの音はそのままに、小さな生き物達が一斉に息を殺し、気配を隠す。
「……来た!」
「戻るぞッ」
サッと青ざめた男達は、口々に言い合い一目散に逃げ出した。
「待て! ……クソッ」
セトは祭壇の上に這いつくばり、草の上の得物に精一杯手を伸ばす。届かない。指先がかすかに触れるが、掴むことあたわず空しく宙を握るばかりだ。それでもこのまま丸腰でいればまんまと贄になってしまう。
冷たい枷が肉に食い込むのも構わず腕を伸べ続け、足首に血が滲んだ時、ようやく剣の柄を掴み取った。鞘で地を掻き、その向こうの弓と矢筒を引き寄せ、慣れた重みに人心地つく。
刹那、後方の茂みががさりと鳴った。反射的に立ち上がり、四本の矢を引き抜きつがえ、月光の下目を凝らす。
がさり、がさりと、木々の間に積もった葉を踏み鳴らし、一歩一歩近付いてくる。そしてそれがゆっくりと姿を現した時、セトは知らず喉を鳴らした。
一方、地下のふたりは漏れ差す月の光に向かい、セトの無事を一心に祈っていた。
太鼓の音は未だ続いており、しばらく前から聞こえだした邪教徒の唄が、いやが上にも焦燥を煽る。
シャルカはもう何度目かの印を切り結ぶ。
(――あぁ、またこうして祈ることしかできないなんて。ぼくにも力があれば。せめて弓ひと張、矢の一本さえあれば。ローさんやアダンさんみたいに力があれば……!)
懸命に祈り続けていると、いつしかその顔からはノンナに見せた余裕は消え、月の白さを写したように一層ほの白くなっていった。
それを横目で見たノンナは、繋いだ手に力を込める。
「……ねぇ、聞いてもいい?」
声をかけられ、シャルカはびくりと顔を上げる。
「はい、何でしょう」
その顔は辛うじて笑みを象っていたものの、発した声は上ずっている。
ノンナはシャルカの気を紛らわすように、少し声を明るくした。
「あたしね、ちょっとびっくりしてるの」
「びっくり?」
「だってあなた、咄嗟に泣きながら演技して、お兄さんに武器を持たせてあげたでしょ? あたしだったらきっとあんな風にできない……もし目の前でコン・ローが連れて行かれそうなったら、精々あたしが行くって泣きつくくらいしかできないと思う」
そう言ってノンナは虚空を仰いだ。その胸に、恋しい兄の顔を思い浮かべているのかもしれない。先程の張り詰めた横顔とは違い、その唇にはほんのりと温かな笑みが浮いている。
「でもあなたはそうせずに、お兄さんに武器を持たせて送り出すことを選んだ。……臆病だなんて思ったりしないわ、むしろその逆。余程お兄さんを信じてなくっちゃできないことだと思う。なのに、」
ノンナはシャルカの青ざめた頬を見、からかうようにくすりと笑った。
「そうかと思えば、今にもあなたの方が死にそうな顔して祈ってるんだもの。お兄さんの腕を信じてるの? 信じてないの? どっち?」
「勿論信じてますよっ。ノンナさん、何にも心配要りませんからね!」
また力強く請け負ってから、シャルカは虚勢を見抜かれていることを悟り、吐息混じりに肩を落とした。膝を抱えて座りなおし、ぽつぽつと語りだす。
「信じてるのは本当です。あに様はとっても強いんです。きっと無事に戻って来てくれるって信じてます。でも、やっぱり心配は心配で……できることなら、ぼくも名乗りをあげたかったです。あに様に人食い獣のところへなんて行って欲しくない……だけど、」
そこで一旦言葉を切ると、シャルカは被っていた帽子を脱いだ。金色の髪がはらりと頬にかかる。それを見たノンナは目を丸くした。
「この距離でなら分かりますよね。ぼく、こんなおかしな色をしてるんです、髪も目も。巡礼者っていうのは、髪や目を隠すための嘘なんです。こんな色をしてるから、故郷の島で疎まれてしまって……ぼくが義弟としているばっかりに、あに様の結婚をダメにしてしまうくらい」
ローと同じ育ちのノンナは、不思議そうに首を傾げる。
「どうして? 確かに珍しいけど綺麗な色なのに。結婚がだめにって、お兄さんには言い交わした女性がいたの?」
「あ、いえ、それはぼくの早とちりだったんですけど……でも、そのくらい疎まれてたのは本当です。だからぼく、あに様の邪魔になりたくなくて、身売りして郷を去ろうとしたんです」
身売り、と鸚鵡返しに言い、ノンナは目を白黒させた。何てことをと唾を飛ばすノンナに、シャルカは困ったように笑う。
「連れ戻しにきたあに様、すっごく怒ってました。あんな顔今まで見たことないってくらい。それに、とっても哀しそうでもありました。そこまでぼくが思い詰めてると知って、あに様はぼくを郷から連れ出してくれたんです」
「……そう、」
戸惑い言葉を探すノンナに、シャルカは続ける。
「あに様はたくさんのものを捨ててまで、ぼくを助けてくれました、守ってくれました。だけどぼくは、あに様の手助けをするどころか、足手まといになるくらい弱くて……情けないですけど。だから、戦うことで力になれないなら、せめてあに様の心を守らなきゃって、そう思ったんです」
「心?」
再び首を傾げるノンナに、シャルカは眉間に皺を寄せ、ぴっと人差し指を立てて見せる。
「だって、仮にぼくがあそこで声をあげて、うまいこと贄になったとするでしょう? あのあに様が素直に助かったーなんて喜ぶと思います? むしろあの世まで追っかけてきて、めちゃくちゃ叱りそうだと思いません?」
言われてノンナは宙を仰ぐ。先程男どもの狼藉に怒り狂い、拘束された身にもかかわらず挑みかかったセトを思い出したのだろう。ふるりとひとつ身震いし苦笑する。
「あなた達のことまだ良く知らないけど、そんな気がする」
「でしょう?」
釣られてシャルカも微笑み、己が肩を抱きすくめた。
「あに様がそこまでして守ろうとしてくれているのに、ぼく自身が自分をないがしろにしてしまったら、あに様の苦労も覚悟も何もかも無駄にしてしまいます。共に戦うことができないなら……足を引っ張ってしまうくらいなら、せめてあに様が守ろうとしてくれるこの身を大切にして、思う存分力を揮ってもらえるようにしようって」
ノンナはしばらく顔を伏せ、じっと何かを考え込んでいたが、やがてゆるりと頭を振った。
「いくら気持ちに報いるためとはいえ……大事なお兄さんを恐ろしい獣の許へ送り出して、待ってることを選ぶなんて……人によっては自分が死ぬより辛いことじゃない。あたしなら足手まといを承知でついて行こうとすると思う。コン・ローは戦いづらくなるかもしれないけど、それでもただじっと待ってるなんてできない」
苦みを含んだ呟きに、シャルカは同意を込めて頷いた。
けれど、原野の戦士である兄に、動きを制限してしまう盾や鎧など必要ないのだ。
将来に夢など抱けなかったシャルカは、いつか戦場で兄の盾となり散ることだけを望んでいたが、それは最も兄の心を傷つけ、哀しませる行為だと今は理解している。
「ぼくだって、いつまでも守られるだけの立場に甘んじている気はありません。弓を手に入れて、訓練して、一刻も早くあに様と共に戦えるようになるつもりです。だけど、今は……」
そこまで言うと、そっとノンナの手を解いて立ち上がり、明かり取りの穴をじっと見上げる。月明かりの中、母の顔が浮かんだ。
「原野の女は待つものです。
一歩間違えば呑まれてしまう泥の原へ、日々男達を送り出します。子供の時は狩りに出かける父や兄弟を、嫁げば戦場に赴く夫や子を、老いてはこんな危険な大地に商いに行く連れ合いを。
それが今生の別れになるかもしれないから、いつだって笑顔で見送るんです。それが自分達家族のためだって分かっているから、温かな料理でそのお腹を満たして、準備万端整えて、笑顔で。例え不利な戦の前だって涙は見せません。それが原野の女の強さなんです。
ぼくはそんな母を見て育ちました。だから力の及ばない今は、大人しく待ちます。あに様を信じて。それがぼくに唯一できることだから」
そう語るシャルカの幼い顔には、原野の民ならではの強かさが確かに秘められていた。
ノンナはまた少し考えてから、肩を竦ませ口を開く。
「古森の女とは違うのね。古森の民の女は、黙ってるといつまでも子供みたいにはしゃぎまわる古森の男の手綱を取って、そのお尻を蹴っ飛ばすのが役目なの」
「わぁ、それはそれは……」
シャルカは絶えず喋り続けていたローを思い浮かべ、くすりと笑った。
「一歩下がって男に従う原野の女とは相容れないけど、それでもその心の強さは素直に尊敬する。こうして待っててくれてる人がいるから、帰る場所があるから、原野の男は安心して戦えるのかもしれないわね」
そう言って微笑まれ、シャルカは妙に気恥ずかしくなって頬を染めたが、ノンナはどこか羨ましそうにその顔を見つめていた。




