人のなりした獣達
「それ生贄ってことじゃ、」
「そう」
思わず声を震わせたシャルカに、彼女は事も無げに頷く。
「そんなことって……機織の民は皆、生贄を欲するような野蛮な神を崇めているんですか?」
彼女はシャルカの胸元を見やり、訝しげに眉を寄せる。
「だったら、機織の民はとっくに他所の民に攻め滅ぼされてるでしょうよ。あなた、小さいとはいえ巡礼者でしょ? なら機織の民の主神がどんなものか、あなたの方こそ詳しいんじゃない?」
シャルカは自分の姿を顧みた。白い長法衣は寝る時に脱いでしまったが、巡礼者の証である装飾は今も胸にかかったままだ。
彼女に怪しまれぬよう、シャルカは大急ぎで記憶を掘り起こす。きちんと神学を学んだわけではないが、本なら神殿で沢山読んだ。神官長セラフナに神々の物語を聞かせてもらったことも。友のなかったシャルカは、兄のいない時間の多くを神の社で過ごしてきたのだ。
「えっと、獣神だから……大地神が獣面の悪神に攫われた際に成した半人半獣の子・羊蹄神、ですよね? 悪神は激怒した蒼穹神によって討たれ、不義の子である羊蹄神は森の奥深くに幽閉されたものの、その心根は優しく、毛皮を持つ全ての獣の王として森の守護神となった……それが神話の中で語られている羊蹄神像ですよね。そんな羊蹄神が、生贄を欲するなんてとても思えません」
淀みない答えに疑いの眼差しを解くと、彼女は冷えてきた空気に小さく身震いした。
「この郷が異常なの。獣神……いえ、羊蹄神そのものよりも、その遣いである森の獣こそを、郷の守り神だとして熱心に崇めてる。他の郷の人達には気付かれないよう、密かに生贄まで捧げてね。それでも身内から贄を出すのは嫌なものなんでしょ。他の郷の人間を連れてきてはここに押し込めて、祭りの夜に出すってわけ。まるで獣面の悪神そのものよ」
吐き捨てられた最後の言葉に、セトの眉が寄った。
人を攫う獣面の悪神。
ローを襲った賊どもがつけていた面は、歪ながら獣の顔を象ったものではなかったか。
けれど賊を見ていないシャルカは、ますます首を傾げる。
「満月の度に生贄を、って……この郷の周りで、たったの一年で十数人も姿を消したら、何かしら噂が立ちそうなものですけど」
「そうならないよう、連れてくる人間は選んでるってことでしょ、知らないけど。あたしだってここに捕らえられるまでは何も知らなかった。あなた達みたいな巡礼者なんて特に、途中で行き倒れて郷へ戻らないこともざらだし、うってつけじゃない」
そう話を打ち切ると、彼女は音もなく立ち上がった。爪先立ち、明かり取りの穴を仰ぐ。シャルカと変わらぬ背丈の彼女では、覗き込むことは叶わない。それでも垣間見える暗い空を熱心に見つめた。
「もうすぐ雲が晴れて月が出るわ……そうしたら、あたしはようやくここから解放されるの。獣の牙に裂かれてしまえば、もう黄土色の肌の男どものいいようにされることはない。このひと月、本当に長かった……あと少し。ほんの少しの辛抱よ」
彼女は彼女の命の終わりを、御遣いの獣に捧げられるその時を、心の底から待ち侘びている。その横顔はまるで花婿を待つ花嫁のごとき一途さを秘め、哀しくも美しかった。
死が救いと思えるまでに凄惨な時を過ごしてきたのだと思うと、兄弟の胸は強く痛んだ。
同時に、セトの予感はますます強くなっていった。声を発すれば彼女を脅かしてしまうだろうが、代わりにシャルカに尋ねてもらうわけにもいかず、極力そうっと声を押し出す。
「ならお前も、この郷の人間じゃないんだな?」
けれど案の定、細い肩がびくりと跳ねる。
「あに様っ、初対面の女の子に向かって『お前』って!」
シャルカに睨まれ、セトは咳払いして背筋を伸ばす。
「悪い。えっと……君もどこかで攫われてきたんだな? 機織の民ですらないのか?」
たどたどしい問いに、彼女は口惜しそうに奥歯を噛んだ。
「何であたしがひと月も生き恥晒して生き延びたと思うの? あたしが羊蹄神を崇める機織の民だったら、とっくにこの舌噛み切ってる! でも古木の巨神は自死を禁じてるもの、どうしてもできなかった……! だからひと月も耐えたんじゃないっ!」
身を切るような絶叫に、セトは思わず身を乗り出した。
「古木の巨神……お前、ローの妹か?」
「何ですって?」
彼女とシャルカは揃って聞き返し、セトを凝視した。
セトは必死になってローとの会話を思い出す。ローは妹の名をきちんとセトに告げていなかった。けれど確かどこかで零していたはずだ。
「名は何て言ったか……ノーラ? いや、ノーナだったか……」
「……ノンナ、」
「そう、ノンナだ!」
呟かれた名にセトが膝打つと、彼女は転がるように駆けて来て竹格子に取り縋る。
「コン・ローを知ってるのっ?」
「あに様、どういうことですか?」
シャルカには伏せておくよう言われていたが、こうなった上は隠しておく意味がない。
セトはその場に座ったまま、ふたりに分かるよう事の経緯を話して聞かせた。
『街道』で、ノンナを攫った賊と思しき一団に襲われているローと出くわしたこと。
その賊を誘き出し、ノンナの行方を突き止めるため、ローがあえて単身荷を引いていたこと。
行きがかり上ローを助けた形だが、ローこそ自分達兄弟の恩人であること。
ローに連れられこの郷へ来たこと――
話を聞くうちに、ノンナの両目へ徐々に光が差し始める。
「……コン・ローは、あたしのためにそんな危険なことを……?」
ノンナは無我夢中で壁へ縋ると、穴に向かい声を張りあげる。
「ロー! コン・ロー! あたしはここよっ、馬鹿な真似はやめて!」
「落ち着け、ローが発ったのは昨日だ。それに応援を呼ぶため一度郷へ戻ると言っていた、もうあんな無茶はしないだろう」
「でも郷へ戻るまでは独りきり、危険なのは変わらないじゃない! 嘘でしょ……ほんの、たった昨日まで、コン・ローがこの郷にいたなんて……あぁ、コン・ローにもしものことがあったらあたし、義姉さんに何て謝ればいいの!」
そう叫び泣き崩れたノンナに、セトは目を丸くした。
彼女は散々傷つき死が迫っているにも関わらず、兄の身と、その兄の子を抱えた義姉の行く末を案じている。なかなかできることではない。
セトは兄妹の結びつきの強さを再確認すると共に、ノンナ自身の情の深さにすっかり感じ入ってしまった。恩人の妹ということを抜きにしても、この稀有な少女をどうにかして助けてやりたい。
(何か手はないか……)
セトは素早く視線を巡らす。
けれどこの鉄格子と錠前は、とても人の手でどうにかなる物ではない。剣も弓も取り上げられている上、手首には手錠までかけられている。
(となると方法はひとつだ)
彼が腹を括ったその時、頭上で木の軋む音がした。次いで、天井を歩く足音が降ってくる。セトは急ぎふたりに言う。
「お前達を必ず無事に連れ出してやる、だからこれから何があっても絶対に口を出すな。いいな」
ふたりが疑問を呈す前に、天井の一部が開かれる。そこから続く階段を下り、鉄格子の向こうへ三人の男達が降り立った。無論雲糸郷の者達である。
その内一番若い男は、セトを認めるなり両目に憎悪を滾らせた。剥き出しの二の腕には包帯が巻かれている。滲む血はまだ新しい。
男の正体に勘付いたセトは、その双眸を見返しゆらりと立ち上がった。
「傷の具合はどうだ? あの距離からでも、原野の矢はなかなか効くだろう?」
――そう。ノンナを攫い、ローを襲った異形の賊は、この郷の民自身だったのだ。
今にして思えば賊のあの姿――己が素性を秘匿するかのような装いは妙だった。賊というものは大方、何がしかの罪を犯し郷を追われた者、あるいは出奔した者どもの成れの果て。己が人種や郷が割れようが、既にそこに身を置いていない者どもにとっては関わりなきこと。あそこまで執拗に肌や髪を隠す必要はない。隠す必要があるのは、戻る郷があるからだ。
賊の目的は奴隷商に売ることだろうとローは踏んでいたが、真相は祭祀に必要な贄を確保するための、郷人による人狩りだったのだ。
そんなことに今更思い至った己の愚鈍さに歯噛みしつつも、セトはそれを面に出さず、目の前の若者を見据えた。格子にもたれ、薄笑いで挑発する。
「肩を射てやった奴はどうした、まさか死んだりしてないだろうな?」
「コイツ……ッ!」
若者は真っ赤になってセトの胸倉を掴む。
「止めとけ、騒ぐな」
けれどすぐに連れの中年男が制した。
年長者に従い、渋々拳を下ろしかけた若者を、セトはなおも焚きつける。
「そうムキになるってことは……そうか、機織の民の男ってのは、狩りも戦もしないだけあって随分柔だな。あぁすまない、随分勇ましい家業があったな、人攫いっていう」
その言葉に激昂しながらも、若者はセトの眼光に一瞬の怯みを見せた。この見るからに屈強な原野の男は、丸腰で囚われの身にもかかわらず、己の優位を微塵も疑っていないように見受けられるのだ。
「黙れ!」
それでも若者は憤怒の形相で拳を突き出したが、セトは一歩下がるだけで良かった。鉄格子に阻まれ、若者の拳は届かない。
セトは傍らで固唾を飲んで見守るふたりへ目配せし、そのまま黙っているよう無言で言いつける。
「俺も馬鹿だよな、賊の正体がこの郷の連中だと気付けそうな糸口はあったのに。この郷には解毒の術に長けた薬師がいるんだろう? なら毒の扱いを熟知していて当然だ。身体の一部だけをうまいこと麻痺させるような毒、そう簡単に調合できるものじゃない」
「黙れと言ってるだろう! クソッ、こっちへ来い!」
「行くわけないだろう、お前俺以上に馬鹿だな」
我を忘れた若者が腰の蛮刀を抜こうとすると、とうとう連れの中年男がその肩に手をかけた。
「止せって、大事な贄だぞ」
「でもオレぁコイツに矢傷の借りがあるんだよ!」
言い争うふたりをよそに、もうひとりの小太りの男はノンナの牢の鍵を開けようとしていた。太い指で鍵を取り出すと、性急に鍵穴に差し込みガチャガチャと音を立てる。
「いいから早く済ませちまおうよ、これが最後なんだからさぁ。まったく勿体無いよ、そっちに煮ても焼いても食えない男がふたりもいるってのに、こんなに若い女の子を贄に出すなんて」
執着を覗かせるねちっこい喋り方に、子供達の肌は不快感と恐怖とで粟立った。
ここへ来た本来の目的を思い出した若者は、険しさを増したセトの目を見、卑下た笑い声をたてる。
「そうだったなぁ。長に見つかると厄介だからな。ったく長め、自分が歳いって愉しめなくなった途端口煩くなりやがってさ」
「嫉妬してんだよ」
「器もアレも小せぇオヤジだ」
子供達の耳を塞ぎたくなるような雑言を吐きつつ、若者はもうセトに用はないとばかりに悠然と歩を進める。開錠の音が重々しく地下へ響いた。扉が開く。ノンナは壁に身を貼りつけ、強張った顔で男達を見上げた。
若者は手も足も出ないだろうセトへ言い放つ。
「そこで黙って見てんだな。手錠されてても自分で慰めるくらいはできんだろ?」
その言葉に男達は揃ってセトを嘲笑うと、見せつけるようゆっくり扉を潜っていく。人の姿をした獣達がたちまちノンナを取り囲んだ。
「あに様ぁ、」
泣き出しそうなシャルカに下がるよう手で合図すると、セトは房を隔てる竹格子に向き直る。そしておもむろに片足を胸へ引きつけると、硬い長靴の靴底を格子へ叩きつけた。
無造作だが充分に体重の乗った一撃に、燻し竹が軋みをあげて砕け散る。竹の繊維が貫通を阻んだが、ますます体重をかけ踏み込むと、メリメリと嫌な音を立てて破れた。再びのひと蹴りで、シャルカが通れるほどの穴が開く。
凍りつく男達へ、
「お前ら、何か勘違いしてないか?」
その身の芯まで凍らせんばかりの、冷ややかな声音が降りかかる。殺気を隠すことを放棄した灰色の瞳が、真っ向から獣どもを射る。
「毒なんぞに頼ってろくに鍛錬もしてない、賊としても生半なお前らと原野の男とを一緒にしてくれるな。手錠されててもこのくらいはできんだよ」
若者の口調を真似て皮肉ると、セトはもう一度足を振り上げる。とうとう穴はセト自身が潜れるまでに広がった。
「俺の前でそんな卑しい真似してみろ。その長とやらに、お前らの骸を贄として捧げさせてやるからな」