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モノクローム・サガ~彩色の御子~  作者: 鮎川 渓
二章 獣神を崇める郷
32/51

冷たい床


 鼻をつく異臭に、セトの意識がゆっくりと表層へ浮上する。

 目蓋をこじ開けようとするが、(にかわ)で貼りつけたように酷く重い。頭を振ると、首筋から脳髄へ鈍い痛みが走った。

 目を閉じたまま身体の感覚を探る。何か固い物の上に横たわっているようだった。

 寝る前はどうしていたのだったか。

 確か、卓で剣の手入れなんぞをしていなかったか。

 けれどどうにもそれ以降が思い出せない。途中で寝こけてしまったのだろう。寝床に入った覚えもないので、椅子から落ちたことにも気付かず、床で寝穢(いぎたな)く眠りほうけていたらしい。


(何てことだ、情けない……)


 目許を擦ろうと右手を上げる。重い。一瞬疲労のせいかとも思ったがそうではなかった。ひやりと手首にかかる冷たい重み。じゃらりと響く金属音。引っ張られ、共に持ち上がる左手。

 たちまち意識が覚醒する。


「何だ?」


 無理矢理目を開け飛び起きたセトは、自分がどこに居るのか分からなかった。

 旅先でありがちな、見慣れぬ部屋に一瞬の混乱をきたしたのではない。彼が目覚めたのは、宿の部屋とは似ても似つかぬ場所だったのだ。

 薄暗く狭い室内。淀み、黴臭さと腐敗臭を含んだ湿気が肌にまとわりつく。不快。身体の下にあるのは、木の床ではなく均された赤土。目の前には石造りの壁がある。思わず手を伸ばし触れようとしたが、両の手首は鉄の手錠で繋がれていた。


「シャルカ!」


 何故という疑問よりまず弟のことが気にかかり、痛みをおして振り向くと、シャルカはセトのすぐそばで横たわっていた。先程までの彼と同じく、この異変にまるで気付いていないのか、土の上で健やかな寝息を立てている。その手首に手錠はない。いくらか安堵しつつ、


「シャルカ、シャルカ起きろ」


セトが肩を揺さぶると、シャルカは苦しげに小さく呻く。


「あに様、そんなに揺らさないで……戻してしまいそう、気持ち悪い……」

「すまん、でもとりあえず目を開けてくれ」


 焦りの滲んだ兄の声音に、白い目蓋が気怠げに持ち上がる。その途端一気に事態を飲み込んだのか、取り乱した様子で跳ね起きた。


「何っ? 痛ッ! 帽子はっ? あ、あったっ」


 寝つく時からずっと握りしめていた帽子が変わらず手の中にあるのを認めると、シャルカはすぐさま被ってほうっと息をつき、それから改めて周囲を見回した。

 宿の部屋とは似ても似つかぬ小汚い空間。兄の手を戒める手錠。そして前方に立ち塞がる鉄格子を見、


「ここは……牢?」


シャルカは掠れがちに呟いた。

 前方の鉄格子は剥き出しの土の床から天井まで伸びていて、扉はあるが錠前で固く閉ざされている。右側と背面は例の石壁。ところどころ白茶けているのは埃か黴か。左側は隣の房との仕切りらしく、燻し竹の格子で覆われていた。

 石壁の上部に小さく穿たれた明かり取りの穴を見つけ、セトは伸び上がって覗き込む。天井は低く、あと少しで頭を擦ってしまいそうだった。

 その目にまず飛び込んできたのは下生えの根元。どうやらここは地下であるらしい。草の隙間から望む空はやけに暗いが、早朝なのか夕時なのか定かでない。


「一体どうなってんだ」


 舌打ちしたセトに、シャルカがおずおずと尋ねる。


「あに様がここへ連れてきたわけではないんですよね?」

「当たり前だろう、どうして俺が。今しがた目を覚まして、お前と同じように驚いたところだ」


 心外だとどかりと胡坐を組む兄に、シャルカの柳眉が寄る。


「そんなのおかしい……いえ、あに様を疑ってるとかじゃなくて。ぼくはともかく、小さな物音でも起きるあに様が、寝ている間に誰かに運ばれても気付かなかったなんて」


 そこまで言って息を飲む。


「夕べの飲み物、あれはあに様が用意してくれたものですか?」

「いや、亭主からの差し入れだ」

「宿のご主人が……?」


 シャルカの表情がじわり曇った。押さえた喉から苦しげに言葉を押し出す。


「この気持ち悪さといい……その飲み物に何か混ぜられていたとしか思えません」

「まさか、」


 シャルカは夜中に一度自分が目覚めた時のことを話した。

 目覚めたシャルカは、椅子に座ったまま眠る兄に気付き、自分が起きたことに気付かないのことと併せて珍しく思ったが、飲みかけの火酒があったため、酔っているものとひとり納得してしまったのだと。


「それで、卓の上にあの飲み物があるのを見つけて……寝台に移るよう声をかけるのは、それを頂いてからにしようと思ったんです。でもそれで喉を湿らせたら、たちまち眠くなってしまって」


 説明し終えると、紫の瞳が気遣わしげに仰ぐ。


「あに様は全く何ともありませんか?」


 セトには吐き気こそないが、目覚めた時に感じた頭痛は今も続いていた。丈夫さが身上で二日酔い知らずのセトである。シャルカの推測を裏付ける証拠だろう。低く唸って額を押さえた。


「何故あの亭主がそんなことを」


 シャルカは沈痛な面持ちで眉を寄せる。


「分かりません。けど……ぼく達をここへ運んできた誰かと繋がっていると考えるのが自然じゃないでしょうか」


 それにしたって、突然こんな所へ放り込まれなければならない理由が思い浮かばない。宿代が足りてなかったのならまず言うだろうし、広場で揉め事を起こしたりもしていないのに。

 不条理な仕打ちに、セトはふつふつと怒りが湧いてきた。


(理由が何かは知らないが、見ろ、シャルカの哀しげな顔を。夕べはあんなに喜んで、亭主のことも親切だと褒めていたのに。それをあっさり裏切りやがって!)


 鉄格子の向こうへがなり散らしてやろうと立ち上がりかけた時、彼はかすかな衣擦れの音を聞いた。思わず耳をそばだてる。


「あに様? どうし……」

「シッ」


 セトは視線で竹格子の向こうを示した。ゆっくりと立ち上がり近付いていく。


「そこに誰か居るのか?」


 荒い格子の隙間から覗くと、隣もこちらと同じ作りの狭い房だった。

 凝った薄闇に細めた目が、対面の角に蹲るひとつの人影を捉える。引きつった悲鳴があがった。声音からして少女のようだ。

 シャルカも慌てて格子に顔をくっつける。

 目が慣れてくると、少しずつ少女の姿が明らかになってきた。

 声をあげられなければ、土くれで拵えた人形(ひとがた)と見紛ってしまったかもしれない。それほど彼女は何もかも汚れきっていた。

 歳はシャルカよりひとつふたつ上だろうか。編みこんでいたらしい長い髪は原型をとどめぬほど千々にほつれ、元の色さえ分からぬほど土埃にまみれている。肌は垢が浮き、痩せた身体には質素な長衣を一枚纏ったきりで、人種さえも判別できない有様だった。

 どれだけの時間ここに居るのかは分からないが、その間身体を洗うことはおろか、ろくに拭うことすら許されずにいたのは明白だ。

 少女は、格子越しにぬっと伸びた天井を擦るほどの大きな影――セトの姿に慄き、衣の前を必死に掻き合わせ、憐れなほどに震えている。


「酷い……一体どんな罪を犯したら、こんな扱いが許されるって言うんですか」


 格子を掴むシャルカの指に力が篭った。

 シャルカは少女を囚われの罪人と思い、目に余る悲惨な処遇に憤ったようだが、セトは違った。

 気付いてしまった。

 異臭に混じる饐えたような酸い臭い。やたらと下肢に集中した汚れ。衣の前を手で合わせているのは、とうに留め具などないからだと。何より、子供のシャルカに目もくれず、()のセトに怯える様が、彼女がここでどんな目に遇わされてきたのかを物語っていた。


(胸糞悪い。まだ年端もいかない子供じゃないか!)


 怒りは最早爆ぜる寸前だったが、彼女を恐がらせてはいけない。セトは懸命に心を落ち着け、格子から一歩下がると、なるべく穏やかな声で話しかける。


「俺は……俺達は何もしない、格子にさえ触れないと約束する。ただ、ここがどこで今がいつなのかも分からず困ってるんだ。知っていることがあるなら教えてくれないか」


 その言葉に、シャルカもぱっと格子から離れた。

 すると少女の身体の震えが止まった。安心してくれたのかと思いきや、ひび割れた唇から漏れたのは乾いた嘲笑。絶望と諦観に濁った瞳が、ひたとセトに据えられる。


「何もしない? 男なんて皆嘘吐き。いくら紳士ぶって見せたってね。ここがどこで、この先あなた達が辿る運命がどんなものかを知ったら、きっと気も狂わんばかりになって、その足でたちまちそんな柵を壊してしまって、あたしを無茶苦茶にするんだわ」


 怨嗟じみた呟きにシャルカも流石に察したようで、蒼白になって兄を見た。けれどそれも一瞬のことで、すぐに気を持ち直す。


「あに様はそんなことするような人じゃありません、だからそんなに怯えなくて大丈夫です」


 すると彼女の目が初めてシャルカに向けられた。


「……そう、その人あなたのお兄さんなの」


 セトに投げつけていたものより、棘も毒気も和らいだ声。それを聞きシャルカが素早く耳打ちしてくる。


「子供のぼくなら怖がらせずに済むみたいです。ぼくに話をさせてください」


 セトが頷くと、シャルカは彼女の意識を自分へ引きつけるよう、やや大袈裟な身振り手振りで話し始めた。


「そうです、だからあに様のことなら良く知ってますっ。あに様は原野の男らしく短気ですけど、何ていうか、()()()()()()に関しては弟のぼくが若干心配になるくらい興味がないっていうか……うん、そう、とっても朴念仁なんです!」

「おま、」


 思わず抗議しかけたセトは、シャルカに足の甲を思い切り踏んづけられ口を閉ざす。


「それに、万が一そんな馬鹿な真似しでかそうとした時には、ぼくが刺し違えてでも止めてみせますからっ」


 胸を叩いて請け負うシャルカと、何とも言えない顔で口を引き結ぶセトを、彼女の瞳が交互に見つめた。セトを見る目つきにはまだ恐怖が色濃く浮かんでいる。

 そこでシャルカは、不貞腐れるセトをてきぱきと離れた壁際に追いやり、目だけで謝ってから、自分は格子から一歩下がった場所にちょこんと座った。子供であることを強調するかのように膝を抱えて。

 あんまりな言われようにすっかり立つ瀬をなくしたセトだったが、シャルカの意図に気付くと、なるべく彼女の視界に入らぬよう腰を下ろした。

 セトが気配を潜めると、ようやく少女の顔からわずかに緊張が解けた。


「……まぁ、どうなったって今更構いやしないわ。どの道今夜には救われるもの。聞きたいのなら聞かせてあげる」


 呟く彼女の醒めきった顔、そしてそこにほの見える狂気は、とてもシャルカと歳が近い少女のものとは思えなかった。一体どれだけ辛い思いを強いられてきたのだろう。どんな惨い運命が、彼女の心を磨り減らせてしまったと言うのか。

 今ばかりはシャルカも兄に倣って、じっと黙って彼女の言葉を待つ。


「ここは牢じゃなくて納屋。倉。保管庫……呼び方なんてなんだっていいわ。ともかく、雲糸郷の連中が祭りに使う道具を押し込めておくための場所よ」


 淡々と語られた言葉に、シャルカはやっぱりと小さく頷く。


「ここは雲糸郷の中なんですね。じゃあ、ぼく達をここへ連れてきたのも……」

「そう、この郷の連中。夜明け前、あなた達を担いだ男どもが来たわ」

「そうですか……納屋って言いましたよね? お祭りの道具ってどれのことでしょう?」


 シャルカは暗い牢の中を見渡した。それぞれの房の中には茣蓙の一枚すら見当たらない。隅に、ここで用を足せとばかりに無造作に置かれた木桶があるばかりだ。

 そんなシャルカに少女は鼻を鳴らす。


「目の前にあるじゃない。あなただってそう」

「えっと……?」


 彼女の両眼が爛々と照った。


「ここは牢なんかじゃない、祭りに使う供物の保管庫。雲糸郷の連中が望月の度に催す忌まわしい祭りのね。わたしは今夜、あなた達のどちらかは次の望月の晩に、獣神の御遣いへ供物として捧げられるのよ」



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