シャルカの涙
足首まで覆う真っ白な長法衣を翻し歩くシャルカは、今までとは違った意味で人目を引いた。
「あに様、見てくださいっ。色んな帽子が売ってますよ!」
巡礼姿のシャルカを、様々な色の目が振り返る。けれど注がれる眼差しは好意的なものばかりだった。中には先程の亭主のように、シャルカに向け祈る仕草をする者もいる。
水を得ることもままならぬ厳しい平野を、ただ信仰のために往く巡礼者は、戴く神の名を問わず畏敬の念を抱かせるもの。人々を欺くことに思うところがないではないが、子供らしく無邪気にはしゃぐシャルカを見ていると、そんなものはたちまちセトの胸から消えてしまう。
故郷の島にいた時には考えられなかった光景だ。向けられる目のほとんどがセトと同じ灰色であったにも関わらず――否、であるからこそ、フードに隠れることもできず、棘のある視線を粛々と受け止めるしかなかった。
けれどここにシャルカを知る者はない。不当な蔑みに怯えることもない。
シャルカは故郷を出ることで、ようやく自由を手に入れたのだ。その自由が巡礼者の衣に守られていてこそのものだったとしても、それは尊く得がたいことだった。
(もっと早く連れ出してやれば良かった。いや、ローの機転がなければこうはいかなかったろう)
セトは、森の遥か先に見える山を振り仰いだ。
(どうにか恩が返せると良いんだが……)
そんなことを考えていると、セトの頭にぽすんと何かが乗せられた。
振り向けば、爪先立ちになったシャルカが必死に笑いを堪えている。頭に手をやると、この郷の者達が被っているものと同じ丸帽子が乗せられていた。
「試しに被ってみて良いって言われたので……でも、ちょっとあに様には似合わ……いえ、雰囲気違ったみたいです」
見れば、帽子売りの女も口許を懸命に手で覆っている。
セトは思わず額を押さえ、もう片手で帽子を台の上に戻した。
「あのな……俺のことはいいから、自分の好きな物を見たらどうだ?」
「自分の好きな物?」
シャルカはきょとんと小首を傾げる。
「ぼくの好きな物……」
顎に指を当てて考え込む様は、真剣そのものだった。
その様子にセトは改めて気付く。あの大嵐からこっち、島はあまり豊かでなく、子供が欲しい物を好きに購える機会はあまりなかった。
束の間宙を見やり、懐の中身を思い出す。
狼と鳥とを兄弟の旅衣に換えたあと、ローはセトに「釣りだ」と言って、虎目石や水晶の裸石、それに葉巻の束を渡してくれていた。それらはどこの郷でも値落ちせず嵩張らぬため、硬貨の流通していない南部では旅人の必携品なのだそうだ。
いくら物知らずなセトでも、あれきりの収獲とふたり分の衣服を引き換えて、なお余剰が出ようなどとは到底思わない。宿代同様にローが手持ちから援助してくれたに違いなかった。兄弟を宿に押し込め、ひとり調達に奔走してくれたのは、そうと悟らせぬためでもあったのだろう。そもそも、狼はローが射止めたものである。
(つくづくローには頭が上がらない)
セトはローが去った方角に目礼すると、改めてシャルカに向き直った。
シャルカの目は、隅に置かれた丸帽子に吸い寄せられている。
もう長いこと店に出されているのか、少しばかり日焼けしたつば付き帽子。白い仔兎の毛があしらわれたそれは、ぽっこり丸い形と相まって何とも可愛らしい。思えばこの店の前で足を止めた時も、あの帽子を見ていた気がする。
日頃簡素な物を好んで身につけるシャルカにしては意外だとセトは感じたが、迷わずその帽子を手に取った。
「これが気に入ったのか?」
するとシャルカは、
「えっ! あ、その……素敵だなって」
フードの奥の顔を耳まで真っ赤に染め、いじらしく俯く。が、すぐに兄の意図に気付き、
「だ、だめですあに様、まだまだ何かと揃えなきゃいけない物がたくさんあるんですから!」
手も首もぶんぶんと振って拒否したが、思わぬところから援護が入った。
「子供が遠慮なんてしちゃだめよ、優しいお兄さんじゃないの。男に恥かかせるもんじゃないわ。それに小さいとは言え巡礼者様だもの、安くしとくわよ」
帽子売りの若い女だった。隣の郷から売りに来たというその女は、窘める口ぶりや仕草がどことなく母ヴィセに似ていた。
「で、でも」
そんな彼女にきっぱりと断れず視線を彷徨わすシャルカに、セトはそっと耳打ちする。
「気にするな。この辺りの森は豊かなようだから、すぐに取り戻せる」
「でもあに様、」
「ローだって言ってたろう、オマエの兄貴は狩りの腕だけはいいって」
それでもなお遠慮し続けるシャルカ、そして手にした帽子を見、セトは何となくシャルカがこれを気に入った理由が分かった気がした。おそらく台の隅でぽつんと日焼けしていたこの帽子に、親近感めいたものを感じたのだろう。
彼女はそんなシャルカを眩しそうに見やる。
「帽子を作り始めてすぐの頃に作った物なんだけど、大きさの割にちょっと可愛らしくし過ぎたのかしらね、なかなか売れていってくれなくて寂しかったの。だからその帽子を気に入ってくれたのならとっても嬉しいわ。良かったらあげる、旅に連れて行ってあげて頂戴」
そう言うと、セトの手から帽子を取り、シャルカの胸へ押し当てた。
「そんなわけには……!」
「いいのよ、色も変わってきてしまってるし。そろそろ店から下げようと思ってたところだったの」
「折角だが、それでは弟の気が済まない。きちんと支払わせてくれないか」
口を添えたセトに、彼女は「なら」と首を傾げる。
「葉巻か刻み煙草は持ってる? ……そう、なら一本頂こうかしら。旦那が好きなのよ」
彼女はセトが差し出した葉巻の束から一本だけを抜き取ると、それ以上受け取ろうとはしなかった。代わりにシャルカに向け、
「良ければ被って見せてくれない?」
そう頼み込む。シャルカは弾かれたように物陰へ走って行くと、一筋も漏らさぬようきっちりと髪を帽子に収めてから、ふたりの所へ戻ってきた。
「ど、どうでしょう……? やっぱりぼくには可愛すぎますか?」
伏し目がちに尋ねるシャルカに、彼女は手を叩く。
「いいじゃない、とっても良く似合うわよ! ねぇお兄さん?」
同意を求められたものの、朴念仁のセトではうまい褒め言葉を見つけられず、またその愛らしさに束の間見とれてもいたため、おずおずと向けられたシャルカの視線に黙って頷きかけた。
シャルカは、それはそれは大事そうに帽子を両手で押さえ、ふたりへ深々と頭を下げる。
「ありがとうございますっ。きっとずっと大切にします!」
「こちらこそありがとう。道中気をつけてね」
すると、シャルカはもう一度丁寧に彼女へ一礼するや、踵を返し駆け出した。
「シャルカ?」
驚き呼び止めるも、シャルカは一目散に宿へ走っていく。セトは不思議そうに目を瞬く彼女に曖昧な笑みを返して、すぐさまシャルカを追いかけた。
宿に着くなり部屋へ駆け込んだシャルカは、床に膝をつき寝台に突っ伏し、堪えかねた様子で泣き出した。すぐに慌てて兄が飛び込んでくる。
「どうしたシャルカ、その帽子気に入らなかったのか?」
朴念仁の兄はおろおろと弟の背を撫でる。その大きな手のぬくもりに、シャルカの涙はますます止まらなくなってしまう。
「違いますっ、だって……!」
嗚咽に喉が詰まり、それ以上喋れなくなってしまったシャルカを、兄はそっと抱え上げ寝台の上へ座らせた。そして隣に腰を下ろし、困ったような戸惑ったような顔で窺う。
ようやく落ち着いてくると、シャルカは涙でぐしょぐしょになった頬を拭い、帽子を胸に押し抱いた。解き放たれた金の髪がはらりと落ちる。
シャルカは懸命に、胸いっぱいに溢れる気持ちをひとつひとつ拾い上げ、言葉に変えていく。
「……とっても嬉しかったんです。あに様がこの帽子を買ってくれたことも嬉しかったし……あの帽子売りさんもとっても優しくて、ぼくが気を遣わないで済むようあれこれお話してくれて、気をつけてとも言ってくれて……あの方、どことなく母様に似ていたから余計に嬉しくて。でも、とっても申し訳ないような気持ちもして……」
途切れがちに、ぽつりぽつりと零すように語られるシャルカの言葉を、兄は今日も静かに待った。あるいは朴念仁故、またかける言葉が見つからないだけなのかもしれないが。
「だってぼくのせいで、父様と母様は実の息子のあに様と離れ離れになってしまったんですもん……許されることじゃないって、分かってます。だけど、母様が送り出してくれたみたいに思えて、嬉しくて……
岩盤の大地に来てから、たくさんの人に優しくしてもらいました。ローさんにも、宿のご主人にも、この郷の人達にも……誰もぼくを変な目で見たりしません。巡礼者のフリをして、髪も目も隠しているからなんですけど、でも……でも嬉しくて。父様と母様の気持ちを考えたら、手放しで喜んじゃいけないって分かってても、それでも嬉しくて、嬉しくて……」
シャルカが胸の内を全て吐き出してしまっても、兄はしばらく黙り込んだまま、乱れた金の髪を手櫛で梳き続けていた。時折指に髪を巻きつけ、くるりと回す。兄が考え事をする時の癖だった。普通は自分の髪でやりそうなものだが、兄に限っては何故か傍らのシャルカの髪でそれをする。
一体何をどんな風に考えているのだろうかと、シャルカは少しばかり恐くなった。
するとそれを察したように、兄がようやくその口が開く。
「あのな、」
「はい」
思わず身構えたシャルカに、兄はどことなく不服そうな顔で言う。
「お前を連れ出したのは俺だろう?」
「それは、あに様がぼくのことを見かねて……」
「見かねたさ、もう我慢ならなかった。でもそれは俺の都合だ、俺の勝手だ。なのにどうしてお前が気に病む必要がある」
「……だって、」
「だってじゃない」
頭を撫でる手に少しばかり力が篭る。
「俺が自分で決めたことだ。こうしたいと思ったからした、それだけだ。それにな、ふたりは俺なんぞよりむしろお前のことをいつも気にかけていたじゃないか。あの両親だぞ? 息子ふたりが嬉しいと思っているのに、とやかく言うような人達じゃない」
その言葉に、紫の瞳がきょとんと丸くなる。
「あに様、嬉しいんですか?」
灰色の瞳は怪訝そうに眇められる。
「何言ってんだ? 決まってるだろう。俺が行こうと言ったらお前はついてきてくれた、何のあてもない旅にだ。その上こうして嬉しいと言ってくれている。兄としてこれ以上嬉しいことがあるか」
あくまで生真面目なその顔が、シャルカの視界の中でみるみるぼやけて滲んでいく。
(そう思ってもいいんだろうか。
自惚れてもいいんだろうか。
自分を許してしまっても――)
シャルカは声をあげて泣いた。
涙を拭うことも忘れ、幼子のように泣きじゃくる。兄はまた黙って頭を撫でてくれる。
兄は気付いているのだろうか。
兄自身にも多くのものを手放させてしまったことを。
この涙の中には、それを憂いて落ちるものもあることを。
けれどシャルカはもう何も言葉にすることができず、無心でその胸に縋りついた。
泣き疲れたシャルカが眠ってしまう頃には、部屋の中にはすっかり夕闇がたゆとうていた。油皿に火を入れ、木戸を閉めると、セトはすぐにシャルカの眠る寝台に戻った。縁に腰掛け、泣き腫らした顔をそっと撫でる。
いつ以来だろう、シャルカがあんな風に声をあげて泣いたのは。思い出そうとしたが、できなかった。
泣きたいような目には散々遇ってきたろうに。自分達家族に心配かけまいと、必死に押し殺してきたのだろう。そう思うと胸が詰まると同時に、シャルカが思うまま泣けるようになっただけでも、原野を出た意義を確かに感じられた。
疲れきった寝顔を見ていると、セトの脳裏にふとある光景が思い出される。あの奇怪な船上で、山岳の長と対峙した際のことだ。
(あれは一体何だったのか……)
シャルカの足許から突如発生した見慣れぬ色の蔦草。まるでシャルカを守るようにその身を包み、激情に呼応するように燃え、山岳の長を飲み込んだ。
シャルカは覚えていなかったが、あれはどう見てもシャルカの意志、あるいは言葉に反応しているようだった。であれば、あれは無意識にシャルカが呼び出したものなのだろうか。
一体どんな不可思議な力を持ってすれば、あんなことが可能だというのか。
もしあれが本当にシャルカの力だったとして、それが示す意味は――
炎に包まれなお恍惚とした長の絶叫が、セトの耳に蘇る。
『創造と破壊を司る御子のお力よ! 我らが長年待ち望んだ御子の、御子の……!』
鼓膜にこびりく不快な声を払うよう、セトは小さく首を振った。
今ここで寝息を立てているシャルカは、セトが良く知る幼い弟に他ならない。それ以外の何者でもない。ならば、セトが取るべき行動も何ら変わりはしないのだ。今までと同じように、否今まで以上に、弟が健やかに過ごせるよう尽くすだけだ。
そう決め込んだところへ、控えめなノックの音が響いてきた。扉を薄く開けると、眉を八の字にした亭主が盆を手に立っている。
「どうしました? 弟さん、随分泣かれていたようですが」
小声での問いに、セトは目線だけで室内を指し示す。
「あー……少々故郷が恋しくなったらしい、今しがた疲れて眠ったところだ。騒がせてすまない」
ぎこちないセトの嘘にも亭主は深く頷き、
「そりゃあ仕方のないことですよ、まだお小さいんですから。お兄さんと一緒とはいえ、寂しくもなりますよ」
ますます眉尻を下げると、手にした盆を差し出した。盆の上には火酒の小樽と杯、それと夕べローがシャルカに飲ませたものと同じ、蜜漬けの果実の水割りが乗っている。
「どうぞこれを、心ばかりの差し入れです。起きたら飲ませてさしあげてください。あの泣きようじゃあ、きっと起きた時には喉がカラカラになっているでしょうからね」
「すまない、助かる」
「弟さんが起きたら声をかけてください、食事をこちらへお持ちしますから」
そう告げて、亭主は帳場の方へ戻っていった。
(ローは機織の民のことをなんやかんやと言っていたが、案外気の良い人達じゃないか。いや、それもシャルカを巡礼者だと信じているからかもしれないが)
セトは盆を卓の上に置くと、椅子に座り深くもたれた。
昨日今日の疲れもある、シャルカが目を覚ますのはまだ先だろう。そう踏んで、火酒を舐めつつ得物の手入れを始めた。
改めて見ると大剣の傷みが激しい。山岳の民との戦闘後、ろくに拭えもしなかったため人の脂に曇り、アダンと打ち合った際にできたらしい刃こぼれもある。その深さから、あの時の友の本気さがまざまざと感じられ、セトはその面影を吐息に乗せ振り払う。
「これじゃあ近い内に研ぎに出してやらなきゃならない。いや、矢の補充をする方が先か」
その費用を思うと頭が痛む。さりとて疎かにはできない。
「近くに腕の良い職人がいればいいが……」
ゆらり揺らめく油皿の炎、その先端からちりりと煤が立ち上る。幾度も戦場を共にしてきた相棒を、柔らかな炎の揺らぎに照らしている内、強烈な眠気が彼を襲った。
抗いつつしばらく手入れを続けていたものの、いつしかセトも深い眠りに落ちていった。