乙女の潔白
尋常でないルッカの様子に、セラフナは人払いをし、この祭壇の間で彼女に尋ねた。何かあったのか、不安なことがあればなんでも言って欲しいと。
しばらく俯き震えていたルッカは、突然祭壇に縋りつくと激しく泣きだした。
「どうか信じてください! 私は蒼穹神に仕える巫女。そのお役目をいただけたことを心から誇りに思い、今日まで生きてきました。いえ、一四で父母を亡くした私が今も生きていられるのは、蒼穹神と神殿のご加護あればこそ。教えに背くことなど、私は決していたしておりません!」
そう泣き叫ぶのを懸命に宥め、ようやくのことで落ち着かせると、ルッカはおそるおそる自らの腹を撫でた。
「……ここに、子がいるようなのです」
それはセラフナにとっても衝撃的な告白であった。
真面目なルッカが掟に背いたとは到底思えなかったが、男女の交わりなくして子ができようはずがない。
男から狼藉を受けてしまったなら無論のこと、仮にひとときの情熱から過ちを犯してしまったのだとしても、セラフナにはルッカを責めるつもりはなかった。
そもそも『蒼穹神の乙女』とは、一生を神に捧げるというような厳しいものではない。むしろ島の少女達の花形役職とも言うべきもので、妙齢になり、好きあった相手ができるとお役目を降りて帰俗し、嫁ぐ。言ってみれば子女の花嫁修業的な側面を持っていた。
順序こそ違えてしまったが、ルッカに想い人ができたのなら喜ばしいことで、そうでないのなら相手の男こそ罰を受けて然るべき。だからどうか臆さず真実を話して欲しい。そうセラフナは彼女を諭したが、彼女は頑として父親の名前を明かさなかった。
「相手などおりません、私は掟を破ってなどおりません!」
そう繰り返すばかりで、とうとう寄宿舎の自室に引き篭り、一切出てこなくなってしまった。
そこでセラフナは、他の『乙女』達にはルッカは病であるとして事実を伏せ、族長に事情を話し、密かに父親探しを進めていたのだという。
「方々手は尽くしたんだけどね。それらしい噂一つありはしなかったのさ」
そう言って族長は水煙管に火を入れた。物憂げな溜め息は紫煙となり、細く長くたなびく。立ち上る煙は祈りを天へ届ける媒体であり、水煙管は祭具の一種だ。
セラフナは眉間に深い皺を刻みながら、更に話を続ける。
「そして夕べのことです。
いよいよルッカの腹は膨らみ、産月に入ったかと思われました。事情を知らない他の『乙女』達も、全く部屋から出てこず、ろくに食事も摂らないルッカを大層案じておりましたから、わたくしはなんとしても真相を聞き出そうと部屋を訪ねたのです。
ルッカが独りこれだけ苦しんでいるというのに、父親は一体何をしているのか。何故名乗り出ないのか。何故ルッカを迎えに来ないのか……憤りに目が曇っていたのでしょう。わたくしが部屋に入るなり、ルッカは怯えた声でこう言いました」
「掟を破っていないと証明します」
言うなり服を脱ごうとするルッカを、セラフナは慌てて押しとどめた。
いかな神官とはいえ、男のセラフナが確認するのはまずい。産婆を呼び確認させることもできるが、ルッカの懐妊が露見してしまう。なによりセラフナは彼女自身の尊厳のために、それをすべきではないと考えた。
あくまで問題は彼女が掟を破ったかどうかではなく、相手の男が誰かだと捉えていたのだ。ルッカは自らの罪に怯え、気も狂わんばかりなのだろうと気の毒にさえ思っていた。
もう子はいつ産まれてきてもおかしくない。
ここまで来てしまったら、ルッカが好いた男であれば少々のお咎めのみで嫁がせてもいいと思っていたし、そうでないならば彼女と赤子が安心して暮らしていけるよう、下手人が判明した暁には厳罰を求め族長に談判する気であった。ただただルッカと赤子の幸せを願っていたのである。
だからこそセラフナは、それを確認するつもりはないこと、それよりも我が身と子のため少しでも食事を摂るよう言い聞かせ、族長の許へ報告に向かった。
そうして二者で、夜を徹して今後のことを話し合っていた間のことだ。
不審な物音を聞きルッカの部屋を訪れた『乙女』が、変わり果てた彼女を見つけたのは。
「……まさか、ルッカが自害するなんて」
ビルマは両手で口許を覆う。
夕べ隣で自分達が騒いだあと、そんなことが起きていたなんてと、セトもやりきれない思いで奥歯を噛んだ。けれどセラフナは更に強い悔恨を滲ませ呟く。
「わたくしがもっと、きちんと耳を傾けていれば良かったのです。もっと彼女の心に寄り添えていれば……!」
「そう言うなセラフナ」
族長にも同様の悔いがあるのだろう、いつもは飄々とした顔に苦渋の色が浮いている。軍団長のアトとは違い、都度報告を受けていながらどうすることもできなかったのだから。
セトは義憤に駆られ、拳を床に叩きつける。
「で、今も分からないんですか、赤子の父親は。ルッカがこんなことになったのに、そいつは今もこの島のどこかで、素知らぬ顔でいるんでしょう? 例えルッカの想い人だったとしても絶対に許さない!」
「その通りです! 父様、もう一度相手の男を洗い出しましょう。ルッカ、独りきりで日に日に大きくなるお腹を抱え、どんなに心細かったか……この手でそいつの喉笛切り裂いてやります!」
いきり立つ子供達に、族長は一つ息をついてからアトを見、セラフナを見た。それから深く煙を吸うと肩を竦める。
「まずは最後まで話してしまおうね。
事切れたルッカを見つけた『乙女』は、仲間の『乙女』達を呼んだ。ある者はルッカの身体に縋って泣き、ある者はわたし達のところに駆け込んで来た。わたしとセラフナはせめて赤子だけでも助かればと思い、夜更けではあったが急ぎ産婆を呼びに行かせ、宿舎へ駆けつけた。
ところがね……この赤子、産婆を待たずひとりでに産まれてきてしまったのさ。母の骸から這い出すようにして、ひとりでにね。居合わせた乙女達はおろか、わたしでさえ足の竦む光景であったよ」
母の骸を押し開き産まれ出た、血と羊水にまみれた赤子――想像するだにぞっとする。ビルマはセトに肩寄せ縮みあがった。
「で、だ。遅れてきた産婆が後産の……つまり産後の処置を施してくれたのだけどね。そこで産婆も腰を抜かすことになった。ルッカは処女であった可能性があると言うのさ」
セトとビルマは顔を見合わせる。
到底信じられることではなかった。否、ルッカの無実を未だ固く信じてはいたが、処女が子を成すということ自体はあり得ぬことだ。けれど何も知らずに連れて来られた産婆が、この期になってルッカの潔白を偽証するなど考えられない。
つまりルッカは彼女の主張通り、汚れを知らぬ乙女のまま孕んだかもしれないということだ。
族長は再び煙を吐いた。天井には香の煙と紫煙とが混ざり合い、頼りなげに揺れている。
「さて、ここからが本題だ。お前達を呼んだのは他でもない。『見極め』をして欲しくてね」
「見極め? そんな今更……だって父様、ルッカはもう」
沈痛な面持ちで小舟を見やるビルマに、族長は優しく語りかける。
「ルッカのことではないよ。彼女の訴えを取り合わず、死をもって潔白を示すという選択をさせてしまったのは我々だ。この罪はいずれこの身で贖うことになるだろう。けれど問題は別に残されている」
不穏な言葉を、彼は気負いもなくさらりと言ってのけた。
恐れるでもなく、自嘲するでもなく、いつか己に下されるだろう裁きを粛々と待つ。人の上に立つ者が持つ泰然たる強かさだった。そうでなければ、己が判断一つで島の明日を左右する長など到底務められまい。
族長は心配そうに見上げてくる娘に頷きかけ、セラフナの手許を見やった。
そこには件の赤子がいる。
ルッカは亡くなってしまったが、遺された子はセラフナの腕の中、今も安らかな寝息を立てているのだ。
「そう、問題はこの赤子の処遇についてさ。
父もなく、死せる母より出でしこの子は、果たして一体何者か? 無論ただの赤子ではあるまいよ。見目も我らとは異なっている。
『蒼穹神の乙女』が産んだ子だ、蒼穹神の落とし子として丁重に扱うがいいか……尋常でない産まれ故、化け物の子として屠るがいいか。
災いをもたらす存在であるならば、早いうちに摘んでしまわなければならない。しかし後者と見なすなら、神殿に邪悪な者が侵入したと認めるも同義だ。二柱の神のお力を恐れ多くも疑ることになってしまうのだよ。悩ましい限りさ。我ら三人、こうして額を突き合わせていても、どうにも分からなくてね」
セトの喉がごくりと鳴った。
「その見極めを、俺達が?」