『クラライシュ・ラウ・ドット・コン・ロー』
「いやぁ、さっきはホンット悪かったなぁ!」
若者はやたらと通る声を響かせ、頭を下げる。
「おれぁまたてっきり子供が攫われたのかと思ってよぉ! 恩人を疑うなんざあっちゃならねぇこったが、子供が絡むとつい熱くなっちまって。おれの悪いクセだ、ホンット悪かったなぁ!」
「いえ、こちらこそ」
「にしても泣かせるじゃねぇか。不憫な義弟を放っとけず、郷捨てる覚悟で連れ出してやるなんてよぅ。アンタぁいい兄貴だ、長男の鑑だっ!」
涙声で背をバシバシ叩かれ、セトは顔を顰めた。
どうしてこの若者はこんなに声がでかいのか。
喋っていなければ死んでしまう病気なのだろうか。
絶え間なく飛んでくる声に、やや疲れて肩を落とす。
彼の荷車の上でのことである。
兄弟は伸びてしまった彼をそのままにしておくわけにもいかず、その場に留まり意識の回復を待った。
そして目を覚ますなりまた騒ぎ出そうとするので、自分達が義兄弟であることや、急遽旅に出ることになった経緯を話すことにした。説明を買って出たのはシャルカだ。人攫いの疑惑をもたれているセトの言など、まともに取り合ってくれそうになかったのである。
けれど行きずりの彼にどこまで話していいものか。
シャルカは考えた末、こういうことにした。
『自分が変わった色をしているために故郷の島で浮いてしまい、見かねた兄が半ば逃げるようにして連れ出してくれた。それを見咎められて捕まりそうになり、そのいざこざの中で兄に怪我を負わせてしまった』と。
島の人々を悪く言うのは気が引けたが、山岳の民に攫われそうになったことや、そうなった理由を口にしたくなかったのだ。
すると根が素直なのか情に厚いのか、彼は兄弟の境遇に酷く心打たれた様子で、若干ふたりが引いてしまうほど泣きに泣き、持っていた水と食料を気前よく振舞ってくれた。その上で、最寄の郷まで乗せていってやると請け負ってくれたのである。
と言っても、彼の足はまだ痺れが残っていて、御者台に座ることさえままならない。
なのでセトが手綱を預かることになり、彼とシャルカは荷台の上。『街道』はひたすら一本道で、セトでも迷うことはない。連れていってもらっているのか連れていってやっているのか分からない状態だが、徒歩とは比べるまでもなく快適だ。
まだ真っ赤な目で鼻をすすっている彼へ、シャルカは改めてお辞儀した。
「こちらこそすみませんでした。あに様……というか、原野の男はちょっと短気で、その、」
「なぁに、先に失礼なこと言っちまったのはこっちだぃ。締め殺されなかっただけありがてぇや」
若者は豪快な笑い声を轟かす。それに合わせ、瞳と同じ鳶色の髪がゆさりと揺れた。肌はオークル。捲くりあげられた袖から伸びる腕は、部族固有図案の刺青でびっしりと覆われている。
原野には刺青の風習がないため、最初は内心怯んでしまったシャルカだったが、彼の闊達さに助けられすぐに打ち解けることができた。何より、彼はシャルカを見てもさほど驚きも恐れもしなかったのである。
剥いたケーグの実を差し出しつつ、シャルカはおずおずと尋ねた。
「あの、ぼくのことを見ても、あんまり驚いてませんでしたよね。びっくりしませんでした?」
若者は遠慮なく実を受け取るや早速頬張り、汁でべとべとになった唇で笑う。
「ここいらじゃどうか知らねぇけど、おれが住むエレウス山の周りじゃ、ごくたまにまっさら白い獣が出ンだよ。兎や狸、猿に鹿……毛も肌も真っ白で、目だけが赤く光る特別な獣がな。親兄弟は皆普通の色なのに、ソイツだけがポッと白い。お目にかかれるこたぁ滅多にねぇ。
おれら古森の民の神は、幹も葉も真っ白な『太古の木』に宿る古木の巨神。だから白い獣は縁起モンだって珍重してんだ。見れたら幸運が訪れるっつってな。アンタもきっとそういったモンなんだろ、いやありがてぇありがてぇ」
一息にまくし立てると、若者は両手を擦り合わせてシャルカを拝んだ。それが古森の民の祈り方らしい。シャルカは慌てて頭を振る。
「やめてください、ぼくはそんな大層なものじゃ……」
言いながら、困り果てて兄の背を仰いだ。振り向いた灰色の瞳が頷きかける。
ほら、受け入れてくれる人もいるじゃないかと。
拝まれるのは困ってしまうが、山岳の民が見せた狂信的なものとは違う。
岩盤の大地で最初に出会った人物が、シャルカの色や姿に寛容であったことは、ふたりにとって明るい兆しだった。
シャルカは希望に膨らせた胸の前で、小さく蒼穹神の印を切った。
「ところで、そのエレウス山とやらはどこにあるんだ?」
セトが尋ねると、若者は仰天して北東を指差す。
「知らねぇのかっ? ほらアレ、見えるだろ? 森のずーっと向こうにドーンと聳える三角山、あれがエレウス山だ。この平野じゃ一等高い山だぜ?」
見れば、連なる森の遥か先に、ぽつんとひとつ巨大な山が聳えている。柔らかな襞を思わせる裾野を広げ、頂上付近は真白な雪を被っている。懐に霞を抱く佇まいは優雅で、女性的な美しさを感じさせた。
けれどそれに見とれるでもなく、セトは若者の発した言葉に首を捻る。
「平野?」
「おう、ムール平野」
「ムール平野?」
打てども響かぬセトに、若者はますます目を丸くする。
「げっ。まさかアンタ、自分が居る地方の名も知らねぇのか? アンタらが住んでた原野だって、ムール平野の南端にあンだぞっ」
「そうなのか?」
若者はもうぎょっとなってシャルカの腕を掴み、声を落とす。
「なぁなぁ、アンタは知ってるよな? なっ?」
「え、えぇ、前に本で読んだ覚えが……」
「だよな、だよなっ。あぁ良かった、おれが何かおかしなこと言っちまったのかと思ったぜ。言いたかねぇが、アンタの兄貴ちょっと世間知らず過ぎやしねぇか?」
「聞こえてるぞ」
セトはフンと鼻を鳴らし、手綱をぴしり捌いた。
「原野の民は基本的に原から出ない。女達のほとんどは、一度も大地を踏むことなく生を終える。出るのは隊商の老父達だけだ」
「あぁ、道理で。岩盤の大地で見かける原野の民が爺さんばっかなワケだ。でも何でだ?」
尋ねられ、今度はセトの目が丸くなる。
「何で、って……女は葦を編む仕事があるし、男は狩人として働けるうちは日々狩りに出なくちゃならないからだ。狩りに出られる男手を行商に割く余裕はない」
「あに様は昔から弓が得意だったので、早くから狩りの隊列に加えられていたんです。それこそ本を読んだりする間もないくらい、ずっと忙しくしていて……」
横からシャルカがそっと補足すると、若者は先程目の当たりにしたセトの腕前を思い出してか大きく頷いた。
「なるほどな。今まで原野から出る必要がなかったから、知る必要もなかったっつーことか。でも何だか意外だな、原野の民ってのはもっと裕福で余裕があるモンかと思ってたぜ。何せ獲れる獲物全部が、原野でしか獲れない特産品なんだからよぅ」
(一二年前の大嵐の前なら、確かにそうだったんだが)
セトは心の中で呟いた。
セトが子供の時には、豊猟な春などはむしろ狩り手よりも売り手が足りず、若い男達も隊商に加わることがあった。そんな父に連れられ、三度岩盤の大地の郷へ赴いたこともある。蹄の馬の扱い方はその時父に教わった。
けれどいずれも遠い記憶で、嵐の年に生まれたシャルカは、今まで一度も原野を出たことがなかった。
若者は果汁まみれの手を拭うと、刺青だらけの腕を組む。それからどこかけぶるような目でセトの背を眺めた。
「原野の民の事情は分かったけど、何か勿体ねぇよな。若い内にこそ広ーい世界に出て、あれこれ見て知るべきだと思うんだよなぁ。心も頭もやっこい内によぅ」
彼の主張に、セトはすんなり頷く。
「今となっては、そう思う」
束の間、どちらからともなく口を噤む。
生まれも肌の色も違う者同士が、初めて心胸を共にできたあとの心地よい沈黙だった。それを敏感に察したシャルカも、綻ばせた唇を閉ざしていた。
馬の首につけられた鈴の音がしゃらしゃらと、暮れ始めた『街道』へ鳴り渡る。両脇の森から宵闇が忍び寄って来ていた。
今度はセトの方から話を振ってみる。
「ところで、どうして独りきりで荷運びを? これじゃあ賊に襲ってくれと言ってるようなものじゃないか。古森の民はそんなに人手不足なのか?」
肩越しに振り返ると、若者は人の良さそうな顔をニヤリ歪める。
「いや、そういうことじゃねぇんだ。まぁ、こっちもちょいとワケありでね」
「ちょいとやらまぁやら、随分歯切れが悪いじゃないか」
さっきのお返しだとばかりに言い返したセトへ、鳶色の目が意味ありげに細まった。けれども口を割る気配はない。セトは小さく息を吐く。
「まだ成人するかしないかくらいだろう? ……いや、古森の民が幾つで元服するか知らないが。あまり危険な真似すると、親御さんが心配するぞ」
すると、
「はぁ? アンタおれが幾つに見えてんだ?」
彼は聞き捨てならぬとばかりに身を乗り出した。セトはそんな彼を改めて見やる。
身体つきはしっかりしているが、背はセトの肩程度、シャルカよりも拳ふたつ分高いくらい。くっきり二重の大きな目に、よく動く口もまた大きい。それが彼をより子供っぽく感じさせた。
「一七か、一八くらいか?」
答えるなり、彼は鼻で笑い飛ばす。
「馬鹿言うなぃ、多分アンタとそう違わないぜ? 聞いて驚け、二四だっ」
「は……同じ歳?」
セトは思わず手綱を取り落としかけた。そしてシャルカが自分と彼とをまんまるな目で見比べているのを見、地味に傷つく。そんなセトへ彼はとどめの一撃をくれる。
「郷に帰りゃ、可愛い嫁さんと三人のガキんちょがいるんだぜ」
自分より随分若く見える同じ歳の男。
なのに既婚者。
その上子持ち。
しかも三人。
自らの意思で結婚を拒んでいたセトではあるが、何とはなしに打ちのめされる。反応できずにいると、すかさずシャルカが助け舟を出す。
「随分お若く見えますね」
嫌味のないその言葉に、彼はまんざらでもなさそうに胸を張った。
「古森の民は、他の民より若く見られがちなんだ。全体的に小柄だしな。あっ、でもおれがチビってワケじゃあないぜ? おれはこれでも郷で一番背ェ高いんだ、原野の男がデカすぎンだよ」
どうやら彼は彼で、セトに劣等感を刺激されていたらしい。
キッと兄の背を睨む彼を、シャルカは慌ててフォローする。
「えっと、あに様はその中でも特に大きいので……別にあなたが小柄だなんて思ったりしません、ぼくよりずっと大きいですし。なのにとっても若く見えるなんて素敵ですっ」
これでもかと誉めそやすと、彼はにんまりと頬を緩ます。
が、一方でセトの肩に哀愁交じりの陰が落ちた。
「……大人の男の人って、結構繊細なんだなぁ……」
一回りも年上であるはずの大人達の間で気疲れし、こっそり溜め息を零す子供なのであった。
辺りは少しずつ暗くなり始め、風がひんやり冷たくなってくる。じきに日暮れだ。最寄の郷へ行くとは聞いたが、あとどれくらいかかるのだろう。シャルカは彼に尋ねてみる。
「あの、これから行く郷はまだ遠いんですか? えぇっと……」
シャルカは彼の名を呼びあぐねたことで、ようやく互いに名乗っていなかったと気付いた。
「ごめんなさい、自己紹介がまだでしたね。ぼくはシャルカといいます。あに様はセト」
それを受け、御者台のセトがうっそり会釈する。しかし彼はぱちくりと目を瞬いた。
「シャルカにセトだな。……それだけか?」
「それだけ、とは?」
「いや、なきゃいいんだ」
小首を傾げるシャルカを前に、彼はセトにも届くようはっきりと告げる。
「おれはクラライシュ・ラウ・ドット・コン・ローだ」
兄弟はぽかんと口を開けた。
「……何だって?」
思わず聞き返すセトに、彼は独特の抑揚をつけて言う。
「クラライシュ・ラウ・ドット・コン・ロー」
「クラ……?」
「クラライシュ・ラウ・ドット・コン・ロー」
「すまない、もう一度」
「何度でも言うぜ、クラライシュ・ラウ・ドット・コン・ロー。覚えたか?」
兄弟は思わず視線を交わした。
これだから兄弟が名乗った際、『それだけか?』と尋ねたわけか。
シャルカはその長い名前を唇の内で反芻した。
「えっと、それ全部お名前なんですか?」
「あったり前だ。『クラライシュ』は郷の名、『ラウ』は昔の古森の民の言葉でおれの生業を指す。『ドット』は家族名、『コン』は長兄っつー意味で、『ロー』がおれ個人の名だ。呼ぶ時はローでいい」
「……古森の民の方は、皆さんそんなに長いお名前なんでしょうか?」
「そうとも、名を聞いただけでそいつの何もかもが分かるようになってんのさ。おれからしたら、アンタらの名が短すぎるんだけどな?」
人種間で、名ひとつとってもこれだけの差があろうとは。
なるほど、世界は確かに広いらしい。
しみじみ噛みしめつつ、セトは疑問を口にした。
「生業と言っても、古森の民は大方杣人じゃないのか?」
古森の民が交易に出す品は、その大半が材木である。現に荷台に積まれているのも立派な角材だった。
ローは「分かっちゃねぇな」と首を振る。
「杣人にも色々あらぁな。木を切り倒すのが主な仕事のヤツもいりゃ、苗木を育てるヤツもいる。丸太から材木へ加工するヤツ、他の郷へ運ぶヤツ……」
「それぞれ名が違うのか?」
「当然っ」
そう答え、ローは低い鼻をそびやかした。わざわざ名前に細分化した生業名を入れているくらいだから、古森の民は己の仕事によほど誇りを持っているらしい。
シャルカは興味津々で目を輝かせ、
「じゃあ『ラウ』って、こうして荷を運ぶ人のことを言うんですか?」
尋ねると、ローはにんまりと口角を上げた。
「いや、おれの本業は荷運びじゃねぇ、今に分かる。なぁセト、もうすぐ右手に細い道が出てくるからそっちへ曲がってくれ」
言われた通り現れた分岐に差し掛かると、赤土の『街道』を離れ、砂利敷きの小道に入っていく。荷車の車輪がガタガタと鳴り、馬につけられた鈴の音も一段と大きくなる。シャルカは振動でローが転げないよう、その身体をしっかりと支えた。
小道は『街道』に比べると随分細く、両側から木々が迫ってくるような錯覚に見舞われる。鬱蒼と茂る葉に西日が遮られ、森の中は早くも薄闇に包まれていた。
初めての感覚に、戸惑いもあらわにシャルカが身震いすると、気付いたローは細い肩に手を置いた。
「じき機織の民の郷に着く。心配すんなぃシャルカ、このクラライシュ・ラウ・ドット・コン・ローがついてんだ」
童顔に頼もしい笑みを浮かべると、ローは自力で身を起こし弓矢を取り出した。途端、ローの顔つきが変わる。人懐こい笑みが消え、代わりに好戦的な光が双眸に灯る。
セトも森の中に獣の気配を察知し、素早く左右に視線を放った。人間に対する明確な殺意。それが群なして押し寄せるのを肌で感じる。けれど森に慣れていない彼の視覚、聴覚は、風で揺らぐ枝やかすかな葉擦れの音に惑わされ、獣の数や位置を正確に把握することができない。
歯噛みするセトへローが言う。
「セト、気にせず全速で突っ切ってくれ。露払いはおれがする」
「だが、」
「信用してくれていいぜ。頭を低くしてろよシャルカ」
言い終わるが早いか、すぐ脇の茂みが激しく揺れた。
暗がりから現れたのは、灰色の毛並みに長い尾、黄ばんだ牙を剥き出した狼の群。
セトが急ぎ馬達に合図すると、頑強な蹄が砂利を蹴立て一気に加速する。けれど荷を満載した荷車を牽いていては、とても狼達を振り切ることはできない。狼達は唸りをあげ、統率された動きで一斉に飛びかかってくる。
「わ……っ!」
思わず身を伏せかけたシャルカの目に、二本の矢を同時につがえるローの姿が映った。
瞬きした次の瞬間にはもう、後方に迫っていた二頭の狼が地に転がっている。ローは不自由な下肢を苦にする風もなく、柔らかな上体を器用に捻り、四方へ矢を射掛けていく。まるで曲芸のようだった。
セトもローの動きを背で感じ取り瞠目する。
驚くべきはその連射速度。わずか一呼吸の内に幾度も響く弦鳴り、それと前後して狼達の悲鳴が森の静寂を打つ。撒き散らされる血飛沫に、小道が赤く染められていく。
あまりのことに息を飲むふたりへ、ローは手を止めぬまま歌うように告げる。
「杣人は森を拓くからな、どうしたって獣の恨みを買うモンだ。だからそいつらを払う必要がある。
おれは『ラウ』、ラウは『露払い』。おれはクラライシュ・ラウ・ドット・コン・ローだ!」
放たれた矢が、群の頭目と思しき古狼の腹を穿った。




