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悪夢


 シャルカを前に乗せたセトは、泥が跳ねるのも構わず一心不乱に馬を飛ばす。

 ふたり乗りでは速度が落ちるが、この霧の中シャルカをひとり騎乗させるのは心配でならなかったのだ。その分の遅れを技で埋めるべく、人馬一体となり幾重の霞を突き破っていく。シャルカは兄達の邪魔をせぬよう、身を縮め息を潜めていた。

 そんな彼らを嘲うかのごとく、曇天が雨粒を落とし始める。朝靄の日に雨が降ることは珍しい。それが兄弟には不吉な兆しのように思えてならず、悪戯に焦燥を募らせる。次第に雨脚が強まり、視界は更に悪くなる一方だった。

 雨霞の向こうにようやく島が見えてくると、同時に視界へ飛び込んできた物体に、ふたりは我が目を疑った。


「……何だ、あれ」


 無理からぬことだった。

 島の西側に接近しているそれは、小島と見紛うほど巨大な鉄の船。

 それは、船と呼ぶにはあまりにも兄弟の常識からかけ離れたものだった。それでもかろうじて船だと認識できるのは、それが泥の上を前進しているからだ。

 黒い木葉型の船体の側面で、見るからに頑強そうな輪が回転している。その輪に取りつけられた幾枚もの刃が泥を掻き、推進力を生み出していた。それがこの喧しい音と地響きの原因だったのだ。

 ――こちらの世で言う外輪船。

 そんな代物が、機械などという複雑な道具は何ひとつない原野に、突如として出現したのである。


 それの接近に気付いた島民達は、西の桟橋付近に集まっていた。

 男達は手に手に武器を握っているが、途方もなく巨大な物体に言葉を失い凝視するばかり。あれは何かと問う声もない。ただただその威容に圧倒され立ち尽くしていた。

 漆黒の船体はもうすぐそこだ。けれど減速する気配はない。族長を支えながら広場に駆けつけたビルマは、顔色を変え叫ぶ。


「桟橋にいてはいけないっ」

「そうだ逃げろ、広場の奥へ!」


 自らも桟橋の先にいたアダンは、殿を務め皆を誘導しつつ走った。

 アダンが島へ駆け込んだ次の瞬間、船の鋭利な舳先が桟橋に激突する。木材が軋みをあげて木っ端と散るが、外輪は未だ回り続けている。明らかに意図的な破壊行為に、広場は混乱と恐怖の渦に叩き込まれた。

 族長はビルマの手を解くと、逃げ惑う人々に逆らい広場の中央に進み出た。病み衰えたとは思えぬほどしっかりとした足取りで、船の行く手に立ちはだかる。

 船は桟橋を砕き尽くすと、葦の足場を切り裂きその眼前に迫った。それでも彼は泰然と構えて退かぬ。


「父様ぁ!」


 駆け寄ろうとするビルマを、アダンが必死に押し止める。

 すると、ギィ……と不快な音をたて、船が止まった。族長が手を伸ばせば触れられるほどの距離であった。

 族長は船の上部、甲板と思しき部分を仰ぎ朗々と言い放つ。


「わたしはこの島の長トウマ。布告もなしに島の破壊に及ぶとは非礼であろう。用あらばまず申せられよ」


 圧倒的な力を見せつけられようと微塵も怯みを見せぬトウマの背に、原野の戦士達の魂が奮い立つ。男達は武器を握り直し、彼の左右に展開する。矢をつがえ、何者かが現れるのを固唾を飲んで待ち受けた。


 ようやく島に到着したセトは、船から死角となる納屋の影で下馬すると、その納屋へ馬ごとシャルカを押し込んだ。


「いいか、俺が迎えに来るまで絶対にここから出るんじゃないぞ」

「ダメですあに様、ぼくも……!」

「いいな!」


 言い切ると、セトは馬に積んでいた弓矢を引っ掴み、外から戸に閂をかける。シャルカが激しく戸を叩く音が聞こえたが、構わず広場へ急いだ。

 物陰で身を寄せ合う女子供を掻き分け、陣の最前列にアダンを見つけた彼は、迷わず横につけ弓を引く。


「おう、どこ行ってた」

「あれは何だ?」

「知るか、オレが訊きてぇ。アト様は?」

「分からない」

「なんてこった、こんな時に」


 油断なく船を見据えたままふたりが囁き交わした直後、キィと金属音が響いた。次いで甲高い足音が鳴り、甲板上に黒衣の男達が現れる。黒い肌に黒い髪、夜の闇で染めたかのような漆黒の瞳。その姿に島の男達は瞠目した。


「山岳の民……!」


 セトは瞬時に合点がいった。

 夕べ見た山岳の民は恐らく斥候。常に原野を移動するこの島を、密かに探していたに違いない。

 舳先に立つ長と思しき老人は、動揺する島の男達を睥睨した。肌も服も黒一色で、黄ばんだ白目ばかりがいやに目立つ。それからトウマに向き直ると、


「失礼した、操舵を誤ってしまってな」


悪びれた風もなく嘯いた。

 大方真っ先に自分達の力を示し、島民の気勢を挫くつもりだったのだろうが、トウマ始め、弓島の男達は未知のからくりの前にひれ伏すことはなかった。

 トウマは鷹揚に腕を組み、山岳の老人を正視する。


「用あらば()く申されよ、山岳の。原野の男は気が短いのでな」


 あくまで対等か、それ以上の姿勢で臨む彼の態度が癪に障ったのだろう。老人は目許をひくつかせながら、それでも寛大を装って言う。


「この島に珍しい色の子があるとか」

「であれば?」

「我らに引き渡してもらいたい」


 広場中がざわりどよめく。セトは内心、シャルカを隠してきて良かったと安堵した。


「何故?」


 トウマの問いに、老人は「知れたこと」と胸をそびやかす。


「我らにとって神の御子に他ならぬからだ。否、我らだけではない。この茶色く汚れた忌まわしい世に生ける者全ての救世主。我らの許へ丁重にお迎えし、そのお役目を果たして頂く所存である」


 セトとアダンは無言で目配せし合った。

 老人が何を言っているかは分からない。ただ、各民族がそれぞれ違った神を主神と崇め、異なる教義の許生きているのは知っている。原野の民は蒼穹神、水源の民は泉の姫神、古森の民は古木の巨神といった具合に。

 山岳の民がどんな神を奉っているかは知らないが、色付きの子をその神の御子と見なす教えがあるらしい。

 けれどトウマは即座に「断る」と切り捨てた。


「この弓島で生まれ育った、紛れもない島の子である。子は島の宝、くれと言われて渡すわけにはいかぬ」

「無論ただでとは言わん。何が望みだ、鉄でも馬でも望むだけ……」

「何も」


 にべもない返答に、老人の取り巻き達が一斉に色めき立つ。それを察したセトも開戦の気配に身を引き締めた。

 ところが、にわかに戦列に乱れが生じた。


「……おい、本当にあれと()るのか? 『色付き』のために?」


 外輪のただのひと掻きで桟橋を破壊し、鋭い舳先で島を裂く魔物のような船。それを操る山岳の民と戦り合うとなれば、島は甚大な被害を被ることになるだろう。

 いかに原野の男が勇猛な戦士と名高くとも、それはあくまで対人戦においてのこと。鉄の装甲を持つ船など想定外、果たして矢や剣でどれほど傷がつけられるというのか。

 まして、賭けるものはあの『色付き』シャルカひとり。

 セトはざわつく男達に苛立ち、一喝しようと振り返る。

 が、次の瞬間見たくないものを見てしまった。肩を並べた親友の顔に、かすかな翳りが見てとれたのだ。


「アダン……」


 喉まで迫り上がっていた言葉が、重さをもって彼の臓腑に落ちる。

 統率に乱れが生じたのを見、老人は甲板から勝ち誇ったようにトウマを見下ろした。


「そもそも、この島では『色付き』と蔑み疎んでいると聞く。ならば引き受け手が現れむしろ喜ばしいことじゃあるまいか。人間、欲をかくと良いことはない」


 老人を見据えたままでいるトウマにもそうと分かるほど、男達の戦意が潮のように引いていく。(おもて)には出さぬまま懸命に策を巡らせる彼を尻目に、老人は脇に控える男に合図した。痩せこけた頬に酷薄な笑みが貼りつく。


「そうそう、非礼と言えば……この者はこの島の者であるか?」


 両脇から男達に抱えられ、甲板に引っ立てられてきたのは――


「父さん!」

「アトっ!」


 セトとトウマは同時に叫ぶ。アトはぐったりと項垂れ動かない。腹に穿たれた小さな風穴、そこから漏れる夥しい鮮血が見て取れた。男達が手を離すと、アトの巨躯は木偶のごとく甲板から転がり落ちる。


「父さんしっかり!」

「アト様ッ」


 瞬時に駆け出し、その身体を受け止めたセトとアダンが呼びかけるも、アトは土色に変色した唇から浅い呼吸を繰り返すばかり。その身が纏う濃厚な死の気配に、セトは唇を噛んだ。

 立場のあるトウマはその場から微動だにしないものの、親友の変わり果てた姿にきつく拳を握る。爪が手のひらに食い込み、指の間が赤く染まった。

 その反応に、老獪な山岳の長は唇の端をつり上げる。


「ここへ来る途中、この船を獲物と見紛ったかやたらと矢を射掛けてきたのでな。沈められても困るので抵抗させてもらった次第」


 その言葉に船上の男達が卑下た笑い声をたてた。

 島一番の剛の者、軍団長アトの敗北。その事実は揺らいでいた島民達の心を一気に傾がせた。雨の広場は再び騒然となる。


「あいつはどこだ?」

「探せ、『色付き』をここへ連れてくるんだ!」

「あぁ……待って、待ってください! お医者様はどちらに!」


 がなり散らす声の向こうから、母の悲痛な叫びが聞こえる。セトは奥歯を砕けんばかりに噛みしめた。冷えゆく父の身体を抱きながら、最後の望みをかけトウマを見やる。

 トウマは固く目を閉ざし顔を伏せていたが、やがてゆっくりと老人を見上げ、告げた。


「承服した。連れて行くがいい」


 それからセトを見、「すまない」と唇の動きだけで詫びると、激しく咳き込み膝を折る。その唇から、咳とともにどす黒い血が吐き出された。


「父様!」


 ビルマが駆け出すより早く、老人が動いた。

 懐から黒光る筒のようなものを取り出すと、その先端を(くずお)れたトウマに向ける。


「胸を病んだか。蛮族の術では到底治せるものではあるまい、いっそ楽にしてやろう。そこの男と共に逝くがいい」


 その指が小さく動いた。刹那、筒が乾いた音が響かせると同時に、トウマの胸にも小さな穴が穿たれる。


「父様あぁッ!」


 今度こそ父の許へ駆けつけたビルマは、両腕を震わせながら痩せた身体を抱き起こす。けれど心の臓を貫かれたトウマに既に息はなく、胸の穴から血を零れさすばかりだった。


「そんな……」


 敬愛するトウマのあまりにも呆気ない命の終わりに、セトもアダンも愕然となる。

 島民達は阿鼻叫喚、男達も弓を投げ出し、気も狂わんばかりにシャルカを探し始める。


「出て来い『色付き』!」

「これ以上犠牲者が出る前に、早くあいつを引き渡すんだ!」


(――今朝は誰一人シャルカを探そうとはしなかったクセに!)


 セトはアダンに父を託すと、トウマの骸に泣き縋るビルマへ駆け寄った。


「ビルマ! 皆を止めてくれ、これじゃあまるで生贄じゃないか!」


 けれどビルマは目を合わそうとはしない。それでもセトはその肩を掴み言い募る。


「頼むビルマ! もうお前しか皆を止められないんだ!」

「……何故わたしが」


 ビルマは涙を拭うとすげなくその手を払い、自嘲じみた笑みを浮かべた。


「酷い男だ。よりによってわたしにあの子を助けろと? 長の名代としても、ひとりの女としても、到底頷けない相談だ」

「なっ……俺が夕べお前の申し出を断ったからなのか? だから……!」


 ビルマは答えず、父の亡骸を抱え屋根の下へ連れて行こうとする。セトはその前に回りこみ、両膝を折って手をついた。


「この騒動が終わったら、必ずお前を娶ると誓う! だからシャルカを連れて行かせないでくれ!」

「……ッ馬鹿にするのもいい加減にしろ!」


 耳まで紅潮させたビルマは、跪くセトの肩を強か蹴りつけた。それでもセトは退かない。


「頼むビルマ! 話を……!」


 その時、背後から響いた母の悲鳴が、彼の耳をつんざいた。

 思わず振り向けば、島の女や老人達が母を取り囲み詰め寄っている。幾つもの手が母の腕や髪を鷲掴み、乱暴に揺さぶっていた。


「『色付き』はどこだいヴィセ!」

「本当に分からないの、今朝からずっと探してるのよ」

「嘘をお言い!」

「嘘じゃないわ! それに例え知っていたって言うもんですか。あの人を……あの子にとっての父親を害した人達に、あの子を渡そうと言うの? 死んでもご免よ!」


 ヴィセが毅然と退けると、女達は我勝ちにその身へ躍りかかった。人の輪が縮まり、僅かに見えていた母の姿が隠される。


「母さん!」


 思わず駆け出そうとしたセトは、後ろから誰かに力一杯突き飛ばされた。不意打ちに堪らず転倒すると、その身を拘束せんと幾人もの若者達が背に覆い被さってくる。それは彼の隊の仲間達だった。


「何をする、放せ!」


 力尽くで振り払おうとするセトを、彼らもまた必死で地に押さえつける。


「堪えてください、隊長!」

「ここで飛び出して行ったら、いくら隊長だって無事では……!」


 言い募る彼らの視線の先を追って、再び母の方へ目をやる。 

 こちらに背を向けた女達は、輪の中心へ無我夢中で腕を振り下ろしていた。武器を持たぬ女達は、その手で、爪で、歯で、シャルカの居場所を聞きださんとヴィセを苛む。女達の怒声の合間に、かすかに母の叫びが漏れてくる。

 セトは何とか駆けつけようと足掻くも、数人がかりで圧し掛かられては手も足も出なかった。母を虐げる人々の背を、目尻が裂けんばかりに見開いた目で、ただ見ていることしかできない。

 母を苛むのは見知った顔ばかり。普段気さくに声をかけてきた人々が、その顔を憎悪に歪め一心不乱に母に害なす光景は、正に悪夢そのものだった。

 女達の指に母の長い髪が絡まり、爪に赤いものが滴り始めると、やがて母の声が止んだ。それでも狂気にかられた女達は止まらない。


(――何が隊長だ! 俺は目の前の母親ひとり助けられないじゃないか!)


 噛みしめた彼の歯の間で、枯葦がざりりと鳴った。


 一方広場の奥では、まだシャルカを見つけられずに大人達が駆けずり回っている。そのただ中で、カルムは真っ青になって立ち尽くしていた。

 彼は知っていた。否、誤解していた。

 シャルカはもう島のどこにもおらず、醜い商人に買われていった後なのだと。


「どうしよう。どうしよう。まさかこんなことが起こるなんて……」


 茫然自失となってひとりごつ彼の肩を、男が叩いた。


「なぁカルム、『色付き』を見なかったか?」


 ひりついた喉がごくりと鳴る。


「い、いえ、」


 言いかけたカルムを遮るように、一際通る声が言った。


「おいカルム。お前、ホントは知ってんだろ? 『色付き』がどこにいるのか。夕べ家の前で、親しげに話してたじゃねぇか」


 たちまち肝が凍りつく。声の方を見やれば、氷のような目をしたヨキが立っていた。

 ヨキの一声で周りの大人達がカルムに殺到する。


「本当か? 知ってるなら早く教えるんだ!」

「『色付き』はどこ?」

「い、いえ、その……僕はシャルカと親しくなんて、」

「庇うとロクなことにならんぞ、さぁ言え!」


 胸倉を掴まれ、振り上げられる拳に、カルムは怯えきってヨキに手を伸ばす。


「ヨキ、ヨキッ! 助けて……!」


 族長の甥という肩書きも、もう彼を守ってはくれぬ。たちまちカルムの身が人垣の向こうに沈む。怒号、悲鳴、詰問、罵倒、そしてあらゆる負の感情が逆巻く渦へ。

 けれどヨキは無感情な瞳で、じっとその様を見つめるばかりだった。


 やがて、


「『色付き』が居たぞ!」

「あんな所に隠れてやがって」


絶望に打ちひしがれたセトの目に、男達に髪を掴まれ、引き摺られるシャルカの姿が飛び込んできた。


「やめてください、離してっ」

「大人しくしろ!」


 白い頬を、骨張った手が強か打ち据える。


「止めろ! シャルカに何をする!」


 セトが叫ぶと、声を辿って振り向いたシャルカは、兄までもが取り押さえられていることに目を瞠った。


「あに様っ、何がどうなって……離してください、あに様がっ!」


 閉じ込められていたシャルカは何も知らないままだった。

 シャルカがセトの許へ駆け出そうとすると、再びその頬を男が打つ。

 それに気付いた山岳の男達は、血相変えて船を下りてきた。


「止せ! 何てことをする、この蛮族どもが! その汚らわしい手を離せ!」


 彼らの手に光る例の筒に、シャルカを捕らえていた者達は慌てて後退さった。

 ひとりその場に捨て置かれたシャルカを一目見るや、


「おぉ……!」


山岳の民は歓喜のあまり足をもつれさせながら駆け寄り、その足許へ額を擦りつけんばかりに平伏する。


「その眩い金の御髪(おぐし)、唯一無二の煌きを湛えた瞳……やはり貴方様こそ彩色の御子! 貴方様がお生まれになるのを、我ら一族郎党、幾星霜心よりお待ち申し上げておりました。お迎えが遅くなり申し訳ございませぬ。我らが住処へお連れいたします、もう何人にも無礼な真似はさせませぬ故」


 黒ずくめの男達に額づかれ、シャルカは蒼白になって言う。


「な、何のことですか? ぼくは、」

「何も仰いますな。今は分からずとも、その使命を果たされる時が迫れば自ずと分かりましょう。さぁ、我らと共に参りましょうぞ」


 差し出された黒い手が、シャルカの白い手を掴む。


「やっ……!」


 意味の分からぬ妄執じみた言葉の数々に、シャルカは恐れ慄き兄を求め首を巡らせる。と、その視界に船のそばで横たわる父、それに寄り添うよう伏している母の姿が映り込んだ。父は腹、母は全身から血を流し、血の気を失ったその肌からは生気の欠片も感じられない。

 息を飲むシャルカを仰ぎ、山岳の長は告げる。


「……さぁ、参りましょうぞ」


 残忍さを忍ばせたその笑みに、幼いシャルカの心は完全に打ちのめされた。膝の力が抜け崩れ落ちそうになるのを、黒い腕々が恭しく抱きとめ、そのまま船へ連れて行こうとする。


「シャルカ! シャルカーッ!」


 未だ地に押しつけられたまま、セトが必死にその名を呼ばわると、紫の瞳が振り向く。唇が動き、懸命に何かを訴えているが、その声は届かない。そんなシャルカを黒衣で覆い隠すと、男達は船の中へ消えていった。

 セトは手の下の葦を握りしめる。

 無力な己に対する憤りで、全身の血が激しく沸き立つ。押し広げられた血管が大量の血液を四肢に巡らせ、鍛え上げられた筋肉が膨張する。


 ――お前まで失って堪るものか!


「放せっ!」


 一喝し、渾身の力で仲間達を払いのけると、追い縋る彼らを振りきって駆け出した。けれどすぐに後ろから誰かの腕が絡みつく。


「放……!」

「お待ちなさいセト!」


 神官長セラフナだった。跳ねのけようとして、彼の頬を濡らすものが雨だけではないと気付き足を止める。セラフナはセトの肩口に額を押しつけた。


「ここであの子を引き留めてなんになりましょう……? 取り戻し、かの民と戦をし、多大な犠牲を払いあの子を守り抜いたとて……御覧なさい、皆の目を。ここにあの子が生きられる場所がありましょうか。

 あの者達はシャルカを神の御子と呼び額づいていました、手荒なことは決してしないでしょう。ならば、いっそ……この島で虐げられながら生き続けるより、彼らの郷で御子として大切にされ過ごす方が、あの子にとってむしろ幸いなのではありませんか、」


 耳を傾けている間に、シャルカを乗せた船の外輪が動き出す。それを見たらもう居ても立ってもいられなかった。セラフナの言を(おもい)みる余裕もなく、セトは彼の腕を振り切った。

 けれど無情にも外輪は後転を開始する。解けた葦を踏みしだき、再び地響きを轟かせながら原へ漕ぎ出してしまう。

 セトは納屋の方へ踵を返した。島の縁を走りつつ指笛を鳴らすと、すぐに黒鹿毛の馬が泥を掻き分けやってくる。期待した通り、シャルカを連れ出した男達は納屋の戸を開けっ放しにしたらしい。飛び乗るが早いか手綱を捌き、船の後を追いかける。


 彼が何を考えているかと言えば、何も考えていなかった。

 ただ。

 島の誰からも見捨てられてしまったシャルカを、兄の自分だけは見捨ててはならない。

 共に帰れる故郷がなくとも、島中から捨てられたと思わせたまま行かせられない。

 自分が不要な子だったのだと思って欲しくない。

 せめて、自分にとってはかけがえのない存在であることを知って欲しかった。

 それを伝えることさえ叶うなら、あの外輪に砕かれ生を終えようとも構わない。

 そんな思いが彼を突き動かしていた。


 ところが、すぐに行く手を阻む人影に行き当たる。

 アダンだった。



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