差し伸べられた手
シャルカは耳を疑った。その声は、あの兄の口から出たものとは思えぬほど痛々しく掠れていた。振り向けば、兄はきつく眉根を寄せ、苦しげに歪ませた顔で項垂れている。
「俺と居るのは嫌か。俺に触れられるのは……目の前で人を斬った手だもんな。お前が今しようとしていることを止めるなら、離す。だから思いとどまってくれ」
自分のとった反応のせいで、こんなにも傷つけてしまうなんて。それでも自分を案じ続けてくれる兄に一瞬でも恐れを抱いてしまった己を、シャルカは強く恥じた。
嗚咽が喉に迫り上がり、全身の力が抜けへたりこむ。
約束通りそっと離れていこうとする腕を、思わず掴み引き止めた。褐色の腕は自分がつけてしまった爪痕だらけで、そこここに血が滲んでいる。
それを見たらもう堪らなくなって、シャルカは柵に背を預けると、震える両手で顔を覆った。
「違うんです、そうじゃないんです……あに様ごめんなさい。島のために戦ってきたあに様を心から尊敬してます、それは本当です。今だってぼくを守るために……ごめんなさい……っ」
最後の方はほとんど言葉にならず、声を殺し泣きじゃくる。
兄の顔を見て安堵したのか、懸命に堪えていた寂しさや寄る辺なさ、男に組み敷かれた恐怖などがまざまざと蘇り、自己嫌悪と共に零れて落ちる。
兄の大きな手のひらが躊躇いがちに頭に触れた。自分が恐れてしまったために遠慮しているのだろう。そう思い、シャルカは顔から手を離すと、頭に置かれた兄の手に手を添え、いつものようにわしゃわしゃと撫でさせた。
目の前を覆うものがなくなると、驚いた顔の兄がすぐそこにいる。もう怯えてはいないと伝わったのか、もう一方の手が伸びてきて、濡れた頬を拭ってくれた。その手つきは、先程剣を振るった手によるものとは思えぬほど丁寧で、壊れ物を扱うかのようだった。
「なら、どうして身投げなんてしようとしたんだ」
「…………」
シャルカは答えられず俯いた。
問いかける兄の眼差しには、抑えているのだろう憤りが少しばかり滲んでいる。けれどそのことに怯んだわけではない。その灰色の瞳にありありと浮かぶ悲哀に居たたまれなくなったのだ。
黙りこくっていると、兄は深く息を吐き己が額に手を当てた。
「……あんな男に身売りしようとしたことだってそうだ、何故自分を大事にしない。あのバングルを取り戻してくれようとしたんだろうが……俺にとってあれとお前のどちらが大事か分からないのか。俺はそんなにお前を大事にしてやれてなかったか?」
咎めるでもなく、むしろ寂しげなその口調に、再び涙が堰を切る。
「だって! ……だって、カルムが言ってたんです。あのバングルに込められた意味……どんなにどんなに大切な物なのかって。あれがないと、あに様はビルマ様と結婚できないって!」
しゃくりあげつつ懸命に言い募ったが、
「……は?」
対して、兄から返ってきたのは気の抜けた声だった。それが妙に腹立たしくて、シャルカはキッと顔を上げる。
「あに様は島にとって必要な方です! あに様が族長様になったらいいって、そう思ってる人達はたくさんいるはずです。何より、あに様達が想い合われているなら……そうなるのが絶対良いんですっ」
「ちょっと待っ、」
「それが、あのバングルがないためにダメになってしまうくらいなら……嫌われ者のぼくの身ひとつで元に戻せるなら、迷うことなんてないじゃありませんか!」
「何?」
制止を振り切り、シャルカは胸の内をぶちまける。涙と共に激しく溢れ出す感情の奔流を、そのまま唇から吐き出していく。
珍しく感情的になったシャルカを、兄はもう遮ろうとはしなかった。
「どうしてぼくには教えてくれなかったんです! カルムは知ってたのにぼくは知らなかった、あに様がビルマ様を想ってることも、バングルの意味も……
どうしてそんな大事な物を手放したりしたんです! あに様こそ、そんなに大事な物と引き換えに庇ってもらって、ぼくが素直に喜べると思ったんですか? ビルマ様と結婚したいのに、その方に頂いた大事な物を手放すなんて……!」
そこまで吐露してしまうと、シャルカの内からふっと怒気が失せた。
バングルを取り戻しただけでは何の解決にもならないことに思い至り、そのわけを思うと急速に心が冷えていく。
顔を背け、泥の水面へ視線を放った。
「……でもバングルが戻ったって、どの道ぼくが居たんじゃあに様、ビルマ様のお婿さんになれませんもん」
「…………」
「分かってます。自分がどれだけ島の人達に嫌われてるのかくらい……いくら義理だっていったって、ぼくが弟として居たんじゃ、きっとあに様が次の族長様になられるのを反対する人もいるでしょう? だからぼくは、これ以上島に居ちゃいけないんです」
でも泥に身を沈めるわけにもいかない。自分を疎む本当の母が眠っているから。
「だけど、あに様の邪魔になるくらいなら……こんなぼくを、本当の弟みたいに扱ってくれたあに様が、好きな方と一緒になれなくなるくらいなら……顔も知らない本当の母様に迷惑かける方が、よっぽど良いかと思って……」
原の上にも原の下にも、ぼくの居場所なんてないんです。
ぽつりぽつり呟き、シャルカは顔を伏せた。
昨日から予期せぬ出来事の連続で、身も心もすっかり疲れ果ててしまった。
どこか心から安らげる場所で横たわり、泥のように眠りたい。けれどそんな場所、自分にはもうないのだ。そう思うと、泥濘の滑らかな表が酷く優しいものに感じられ、シャルカはそこだけが自分を受け止めてくれる場所のように思われてならなかった。
シャルカが焦がれるよう熱心に原を見つめていると、ふいに右手に温かなものが触れた。見れば、力なく垂れていた手を兄の大きな両手が包み込んでいた。
「言いたいことは全部言ったか? ……なら、今度は俺の話を聞いてくれないか」
落ち着いた声だった。耳馴染みの良い低い声音に釣られ、シャルカが小さく頷くと、兄は考え考えゆっくりと言葉を紡ぐ。
「まず、俺はビルマと添うつもりはないし、族長になる気もない。ビルマは俺にとってアダンとそう変わらない、幼馴染で親しい友人のひとりだ」
ここへ来てまだはぐらかすつもりなのかと、紫紺の瞳が非難と落胆を込めて兄を仰ぐ。
「でも隠してたじゃないですか、」
「隠す? 俺がお前に? 何を?」
「蒼鷺の羽根、枕の下にっ。ビルマ様に渡すつもりなんでしょう?」
兄は困り果てたように頭を掻いた。
「あー……その、何だ。あれはそうじゃなくてだな。貰い物というか、預かり物というか」
それをその場しのぎの嘘と取り、シャルカは顔を真っ赤に染め食い下がる。
「とぼけないでください、求婚したくても蒼鷺を狩れずに、高値で羽根を買う人だっているんですよ? そんな高価な物、誰が何でくれるって言うんです!」
「落ち着け、嘘じゃない。あれはアダンに、」
「子供扱いしてはぐらかしてっ!」
強引に手を振り解いたシャルカだが、それを上回る強引さですぐにまた捕まえられてしまう。
「最後まで聞いてくれ、頼むから。あれはアダンから渡された物だ。夜警を任されたと言ったら、さっさとビルマに求婚しろと押し付けられた、それだけだ。すぐに返すつもりだった。だからお前がこんなことをする必要は本当にないんだ」
焦っているのか、いつになく早口にまくし立てる兄。嘘をついているようには見えなかった。兄は父に似て嘘が下手なのだ。
「考えてもみろ。本当に俺がビルマが好きで、あのバングルが大事なら、端から引き換えたりすると思うか? 俺だぞ? 自分で言うのも何だが、寄越せとほざかれた途端後先考えず叩き斬ってるだろ」
確かに。
つい納得してしまいかけ、シャルカはぶんぶんと頭を振った。
「でもそれは、ぼくを庇ってくれるために仕方なく、」
「そう思い込んでるなら、尚更分かってくれても良さそうなもんだが」
兄はもう一度深々と息をつくと、改めて幼い弟を見据える。
「それ手放してでも庇ってやらずにはいられないくらい、お前を大事に思ってるってことじゃないか。どうしてそこに気付かない?」
実際は仕方なくでもなんでもなかった、比較になんてとてもならない。
そう告げる兄を、シャルカは呆けたように見つめた。思ってもみなかった言葉、その意味を、なかなか飲み込むことができない。けれど凍てついていた心の底が、じわりじわりと解かされていく。
「大事に思ってるお前が、自分自身を大事にしてくれないのは……大事に思えないのは、心底哀しい。誰が疎もうと、俺にとってはたったひとりきりの大切な弟なんだ」
解けた心が雫となり頬を伝う。けれどそれは先程までのものとは違い、温かなものだった。
兄の気持ちに応えたいとシャルカは強く思ったが、今まで向けられてきた悪意があまりに大きく、またそれに曝されていた時間が長すぎて、今すぐ自分に生きる価値を見出すことは難しかった。
(でも、せめて。せめて、あに様を哀しませないようにしよう。あに様に、二度とこんな顔させないように――)
そう心に誓って、
「……ごめんなさい。もう二度と、こんなことしません」
やっとのことで呟くと、兄はホッとしたように唇の端を緩めた。それを見たらまた泣けて泣けて止まらなくなって、シャルカは何だか悔しくなって言う。
「でもお相手がビルマ様じゃなくたって、ぼくが居たらお嫁さん来てくれませんよ? このままじゃあに様一生独身ですね」
叩かれた軽口に、兄はわざとらしく肩を竦め、ニヤリ笑って応じる。
「でも困ったことにまったく困ってないぞ俺。弟は可愛いし、息子の立場でいられる実家暮らしは快適この上ない。わざわざ嫁貰って出て行こうって気がまるでしない」
「うわぁ……それ成人男性として大分ダメな発言だと思います」
「大分と言うより駄目そのものだな。諦めろ、これがお前の兄貴だ」
「今の言葉、母様に言ってみてください。どうなると思います?」
「言えるかよ、間違いなく包丁が飛んでくるぞ」
その光景を想像し、ふたりは額を寄せ笑い合った。張り詰めていた空気が消え、普段通りの兄弟に戻る。
けれど冗談で気は晴れても、ふたりを取り巻く状況が変わったわけではない。これから島へ戻り、昨日までの日々がまた続いていくのだと思うと、シャルカは気が重くなった。
より酷い境遇に身を落とすだけだったにせよ、一度解放されたと思った悪意の中に再び戻るのは、とても勇気が要ることだった。
(それでも、常にそばに居てくれるあに様の気持ちが知れて、少しは心安くなったはずなのに)
臆病な自分に辟易しながらも、それでも塞いだ気持ちでいると、それを見透かしたように兄が言う。
「……とは言え、いつまでも息子でいるわけにはいかないしな。いっそふたりで出るか、島を」
「はい?」
冗談の続きだろうか。兄が何を言い出したか分からず、シャルカはまじまじと見やった。けれど軽口めいていた口調に反し、兄の顔つきは真剣そのものである。
「この原に居場所がないと言ったよな。ならこんな原野出ちまえばいい。
……昨日からずっと考えていた。なにも人が棲む場所はこの原野だけじゃない、岩盤の大地にだって幾らでも人が棲める場所はある。肌の色も瞳の色も、祈る神も習慣もまるで違う人間が沢山いるんだ、ありのままのお前を受け入れてくれる郷もあるかもしれない。ここに拘る必要はないんだ」
その言葉にシャルカは衝撃を受けた。
子供のシャルカにとってこの原野だけが、否、小さな島こそが世界の全てだった。岩盤の大地を踏みしめたことなど一度もない。そこへ自ら出て行こうなど、ましてどこかに自分を受け入れてくれる場所があるかもしれないなんて、夢にも思わなかった。
誰にも忌み嫌われることなく、萎縮することもなく、兄と共に自由に生きていくことができたら――まだ見ぬ地に思いを馳せ、シャルカの小さな胸は躍った。疲れた瞳が輝きを取り戻す。
けれどシャルカは、淡い期待に流されそうになる自分を必死に食い止めた。
「……でもあに様は、例え次の族長様にならなくたって、島にとって必要な方です。隊長だし、弓の手ほどきもしているし……いなくなったら皆が困ります」
「隊長も指導官も代わりはいる。でもな、」
兄は何故か誇らしげに目を細め、
「お前の兄の代わりはいないだろ」
大きな手のひらを差し出す。
「俺と来い、シャルカ。この世界を見に行こう」
――あぁ、どこまで『兄』であろうとしてくれるんだろう、この人は。
故郷を捨て、親も友人も立場も何もかも、平穏なはずの未来さえ手放してまで、どうして……
そう思いながら見つめていると、その顔がぎょっとしたように強張った。
「な、何だ? 泣くほど嫌か、俺と行くのは」
気付かぬ内にまた頬を伝っていた涙を、シャルカは手の甲でごしごし拭う。
「いえ、」
「なら何で泣く? さっきどこか痛めたのか?」
朴念仁の兄は、おろおろと忙しなく手を彷徨わせたかと思うと、男に噛まれ変色した首を見て激怒し、かと思うと今度は乱れたままにしていた服を甲斐甲斐しく直してくれる。
めまぐるしく変わる表情は、隊長でも戦士でもなく狩人でもない、シャルカだけが知る『兄』の顔だった。
シャルカはその筋張った手へ、震える手を差し伸べる。
――もし許されるなら。責任感だけじゃなく、ひと欠でもあに様がそう望んでくれるなら……
「あに様、ぼくは……」
指先が触れかけたその時、原野を揺るがすかすかな振動が、筏を通して伝わってきた。
「何だ?」
兄の顔つきが即座に戦士のそれへ変わり、素早く四方へ目を凝らす。
シャルカも慌てて辺りを見回すが、相変わらず濃く立ち込めた霧に阻まれ、何ひとつ窺うことはできない。馬達も異変を察ししきりに耳を動かしている。
揺れは徐々に大きくなり、泥の水面がさざなみ立つ。そのうち霧の向こうから、ガロガロという聞き覚えのない轟音が響いてきた。前方から何かが近付いてくるようだ。不安になったシャルカは思わず兄に縋りつく。
音のする方向を見据えていると、突如右手前方に巨大な影が浮かび上がった。見上げるほどの高さを持つ小山のようなそれは、その圧倒的巨体で薄布を払うがごとく霧を押しのけ、筏の横を悠然と過ぎていく。千切れた霞の隙間から、黒塗りの鉄と思しき一部が覗いた。
「……あに様……あれは、一体……」
轟音と地響きを伴い、それが後方へ去ってしまうと、シャルカは恐る恐る兄に尋ねた。
「分からない」
短く答え、兄はその何かが去った方角をじっと睨んでいたが、ややあって歯噛みする。
「……拙い」
言うなり舳先へ走った。
「どういうことです?」
答えるより早く、兄は筏を牽いていた馬を解き放つ。そして、
「お前がいた鞍替え所へ戻れ」
そう言い聞かせ首を叩くと、怯えていた馬は一目散に駆け出した。すぐに取って返し、今度は愛馬を寄せ手綱を取る。
「あれが向かった先には弓島がある」
「あっ……!」
シャルカはたちまち青ざめた。
何かは分からないが、あんな巨大なものが島へ衝突したらどうなるか。父母の顔が胸を過ぎった。
「戻るぞシャルカ!」
「はいっ」
シャルカも急いで立ち上がり、兄と共に馬へ乗り込んだ。




