原の上にも、原の下にも
翌日は霧立ち込める朝となった。
厚い霧が一面に降り、褐色の原はまっさらな綿を被ったようだった。手触りを感じさせるほど濃密な靄に、三軒先すら霞んで見える。
そんな中、ひとり家路を辿るセトの姿があった。
族長の目覚めを待って、ビルマと共に夕べ目にしたことの次第を報告したのちのことである。
族長の前ではふたり肩を並べて話をしたが、あのあと島へ戻ってからは、ビルマは寝所で、セトはその外で壁を隔てて過ごし、言葉を交すことなく夜を明かした。
時折漏れてくる啜り泣きを聞きながら待ちわびる夜明けは遠く、セトにとって長い長い一夜となった。けれどそれはビルマにとっても同じだろう。否、ビルマの方こそずっと長く感じていたに違いなかった。
結局その話のあとでは護衛解任を求めることはできなかったが、トウマもふたりの間に流れる雰囲気から何がしか察したようでもあり、気まずい空気の中族長宅を辞した。
眠気はないがやけに疲れた身体を引き摺り、ようやく家のそばまで来ると、霧の向こうから母の声が聞こえてきた。
「シャルカー! シャルカぁッ!」
切迫した悲鳴にも近い声。慌てて駆け出したセトは、戸口の外で叫ぶ母を見つけた。長いことそうしていたようで、服も髪も霧を吸い肌にまとわりついている。
「母さんっ」
駆け寄ると、ヴィセは青ざめた顔で息子を仰ぐ。
「シャルカがいないの! 朝起きたらもう姿が見えなくて……見て、こんな書き置きが」
そう言って握りしめていた紙片を開いて見せた。
おそらく、手習いのため譲り受けた紙の余白を千切ったものだろう。小さな小さなそれには、シャルカらしい一画も疎かにせぬ丁寧な筆致でこう書かれていた。
『父様、母様、あに様。どうぞいつまでもお元気で』
(これじゃあまるで今生の別れのようじゃないか!)
愕然と瞠った両眼で幾度それをなぞれど、したためられた文字はただその一言を投げかけるばかり。セトは夕べの恐ろしい想像を思い出し息を飲む。
そこへ、険しい顔のアトが駆けて来た。
「セト、戻ったか」
「あなたシャルカは?」
ヴィセが尋ねると、アトは眉間に皺を刻み、
「おかしい。島内は一通り見て回ったがどこにもおらん。だがあいつの馬は繋がれたままだった」
「そんな、それじゃあ……!」
島にいないのであれば、馬で原に出るより他ない。馬に乗らずして島を下りたとすれば、それはすなわち――
最悪の事態を予感し、母はもう卒倒寸前だ。その名を大声で呼ばわり探し回れども、心配し駆けつけてくれる者もない色付きの子だが、母にとっては一二年育てたかけがえのない愛息子。その思いは父も同じだ。
「……嘘だろ」
セトは荒々しく戸を開けると、居間を飛び越え寝所へ踏み入った。己の鼓動が早まっていくのを感じる。
きっとシャルカはどこかに隠れ潜んでいて、慌てふためく自分達を見てこっそり笑っている――そうであって欲しかった。質の悪い冗談だと思いたかった。
祈るように願うように、セトは寝床中をひっくり返す。昨日シャルカが全く同じことをしたとは知らずに。悪戯っぽく笑う紫の瞳を求め、雲越しの陽よりも眩い金の髪を探した。
そして己の枕を放った時、セトは――やはりシャルカとそっくり同じに――我が目を疑った。隠しておいた蒼鷺の羽根の横で、商人に渡したはずのバングルがひっそりと輝いていたのだ。
それを認めた瞬間、セトはシャルカのしたことを察した。
戸を蹴破る勢いで飛び出し、
「シャルカは原だ、水の商人と共にいる!」
「何だと?」
バングルを見せながら、セトはふたりに昨日広場であったことを急ぎ話した。
聞き終えるが早いか、アトの拳がセトの横っ面を強か打ち据えた。
「この馬鹿息子が! そんなことをすればシャルカが気に病むと何故分からん、もっと他にやりようがあったろう!」
「やりようって何だ! 俺が素知らぬ顔で並び直して、相場相応の値で引き換えれば良かったとでも? 出来るわけないだろ、シャルカの前でそんなこと! シャルカの存在を否定して見せるようなもんじゃないかっ」
互いに引けをとらぬ屈強な父子が掴み合う様は、傍目になかなか迫力ある光景だが、母は臆すことなくその腕々を引っ叩く。
「今は言い争っている場合じゃないでしょう、まったく男ってこれだから! その水源の民を追うのが先でしょうに!」
目を覚ましたふたりは互いに手を放すが早いか、我先に踵を返した。当然のようについて来ようとするヴィセに、アトは振り返りざま言い放つ。
「この霧では危険だ、お前は待っていろ」
「私だって馬は充分扱えます!」
濡れそぼる身で食い下がる妻に目を細め、
「シャルカも濡れておるだろう。部屋を暖めて待っていてくれ」
アトが優しく告げると、その足は歩みを止めた。
「……あなたもセトも、どうか気をつけて。必ずシャルカを連れ帰ってね!」
無事を祈る母の声を背に受けて、父子は濃霧の中を駆け出した。
今、この島は原野の北の際にある。
自らの郷へ向かう商人は、原野を出たのち陸路を行くため、馬を換えなければならない。四つのヒレを持つ馬から、硬い大地に適した蹄の馬に乗り換える必要があるのだ。
そのため原野と岩盤の大地の境である岸辺には、『鞍替え所』と呼ばれる小屋があちこちに点在している。岩盤の大地の商人達が乗ってきた蹄の馬を預かり、ヒレの馬を貸し付けるのだ。
鞍替え所は原野の島々がそれぞれに運営管理しており、島から大地へ交易に行く際の乗り継ぎにも使用される。日々原を移動する島々へ商人達が迷わず辿り着けるのも、そこで各島の現在地を知らされるからだった。
「ここから一番近い鞍替え所は、真っ直ぐ北へ行った所にあったよな」
「あぁ、だが弓島が管理する鞍替え所を使ったとは限らん。すぐそばに鷲島の鞍替え所があったはずだ。セト、お前はこのまま北へ行け。俺はそちらに向かう」
父子は頷き合うと、二手に別れ鞍替え所を目指した。
その頃、シャルカは馬に牽かれた筏の上にいた。
振り向けど、故郷の島は霧の彼方でおぼろげな影と成り果てている。桟橋も広場も、その先の家々も何ひとつ見せてはくれない。それでもシャルカが積まれた樽の間から熱心に見つめていると、舳先で馬を操る男が低く笑う。
「どうした、あんな島でもやはり恋しいか?」
「…………」
「昨日だって、誰も助けてくれんような薄情な連中ばかりじゃないか。お前さんにとって住み良い場所だったとは到底思えんがな」
そもそも誰のお陰で助けが必要な窮地に陥ったというのか。そう言いたげに、シャルカは横に広いその顔へ冷ややかな一瞥を投げた。
哀愁を漂わせつつもキッと睨み据える紫紺の眼差しに、男の身体が打ち震える。
怯えたのではない。その醜い顔に走ったのは、明らかに邪な驚喜の色。
夕べの切々と訴え縋る様も儚げで美しかったが、買われた身でありながら主である自分に反発してみせる気概、それに裏打ちされ凛とした姿もまた、男の興を大いにそそるものだったのだ。
男は自分が思うより余程強くシャルカに執心している。高価な鳥を他人に任せてあるのも忘れ、再びシャルカが現れるや否や出立したほどであった。
原野の民は人身売買を認めていない。この霧ではそうそう見咎められることもないだろうが、簡素な柵があるきりの筏の四方に樽を積み、その中へシャルカを隠した。この横柄な男がそこまで気を払ってでも連れ去りたいと思うほど、その執心は強かった。
それを知らぬシャルカはあまりに無防備だった。
湿った服から透ける無垢な肌に、男の喉が浅ましく鳴る。
夕べさんざ己で慰めたはずの劣情が膨れ上がり、男はその場で馬を止めた。シャルカは不審に思い首を傾げる。
けれど男は物問いたげな視線に答えることなく舳先の台を下りると、圧しかかるように華奢な肢体を組み伏せた。その衝撃で四方の樽が揺れ、乾いた音をたて転がり落ちたが、この強欲な男が自らの資産が流されても一顧だにしない。
「何をするんですっ」
男は分厚い唇を舌で湿らせた。ねとりと濡れた赤い舌の汚らわしさに、シャルカの背に悪寒が走る。威嚇する表情の裏に隠された慄きを見てとって、男は嗜虐的な笑みを閃かせた。
「なぁに、恐がることはない。お前さんの両親が閨でしていることと同じさ」
「え?」
男はほっそりとしたその首筋に食みつかんとする。察したシャルカはその胸に両手を突っ張って、押し返そうと試みた。けれど圧しかかる巨漢の重量を支えきれるはずもなく、濡れた唇がじりじりと迫ってくる。
必死の抵抗を嘲うように、男は少しずつ体重をかけていく。
「あの兄貴だってしていることさ。大方夕べもそうだったんじゃないのか? お前さんがあの兄貴に気付かれず家を抜け出て来られるなど……お前さんには似ても似つかんが、なかなかいい男ぶりだったじゃないか。連れ込んだ女に夢中で、お前さんが出たことに気付かんかったんだろう」
ようやく意味を悟ったシャルカは、兄を侮辱された怒りで頬を紅潮させた。
「違います! あに様はそんなふしだらな人じゃありませんっ」
「どうだか。お前さんが知らないだけさ」
「違っ……」
言いかけて、シャルカは声を詰まらせた。
その耳にカルムの言葉が蘇る。
『未婚の女性の寝所の警護をひとりきり任されるっていうのはね、つまりそういうことなのさ』
まるで今耳元で言われたかのごとく鮮やかに再生された言葉に、細い腕からすとんと力が抜けた。
支えがなくなった商人が歓喜して被さってくる。まるで腹を空かせた獣のように、唇を押しつけ、食みしめ、歯を立てて、首筋を蹂躙していく。丸々と太った指が性急に服をたくし上げ、霧に晒された肌が粟立った。
けれど我が身を蝕む感覚を、シャルカはどこか遠くに感じていた。
(……あに様も、夕べはビルマ様にこうされるつもりだったのかな)
苦痛も恐怖も遠くに置いて、ぼんやりとそんなことを考える。
男女共に貞潔を美徳とする原野の民でも、婚姻を前提とした関係ならば婚前交渉も非難されない。なので、仮にそうだとしてシャルカは兄を妄りがましいとは思わない。
けれど、あの兄もこんな風に――我を忘れ、獣じみて熱帯びた目で、息さえ乱して求めるのかと思うと、急に兄が知らない人になってしまったような気がした。
シャルカにとって一番近しく、慕っていた兄が。
(ぼくも、あに様の知らないぼくになるのかな)
不意に胸を過ぎったそれは、酷く哀しいことのように思われた。
素肌の胸をまさぐられながら、ふと視線を横にやった。頼りない柵の向こうに泥濘の原が広がっている。
(……あぁ、ぼくのおかしな身体を見たらこの人、諦めてくれないかな。いっそ気味悪がって泥の原に突き落としてくれたらいいのに。昨日ヨキに射られてしまえば良かった。馬から落ちてしまえば良かった。……ううん、今ならまだ間に合う)
思いかけて、目を逸らす。
(だめだ。この泥の下には、本当の母様が眠ってらっしゃるもの)
シャルカは島民達の聞こえよがしな陰口によって、実母が自分を産むことを厭い、自ら命を絶ったことを知っていた。
(ぼくは母様に嫌われているもの。ぼくが行ったら、きっと迷惑されるに違いない。原の上にも、原の下にも、どこにもぼくは居ちゃいけないんだ――)
知らず、目尻から溢れた涙がこめかみを伝った。
それを見た男はますます醜悪な笑みを深める。
「今更怖気づきおったか」
「……お願いです、せめてあなたの郷へ戻ってから……ここでは嫌です」
嗚咽交じりの懇願も、男の獣慾を煽るばかりだ。男はシャルカの前髪を掴み、ずいと顔を近づける。
「お前さんは買われた身よ。何でもすると言ったのはお前さん自身だろう」
そう言いつけた唇が、舌が、涙の跡をなぞろうと迫る。その生々しさから思わずシャルカが目を瞑ったその時。
ずぶり湿った音がしたかと思うと、男の喉からおぞましい絶叫がひりだされた。
思わず目を開けたシャルカの視界に飛び込んできたのは、苦悶に歪んだ男の顔。その背に突き立てられた刃。その刃の先を辿っていけば、柄を握る大きな手と漆黒の馬。そして――
「あに様っ!」
静かに、けれど未だかつてないほど怒り狂った兄がいた。
兄が男の背から剣を引き抜くと、再びの絶叫と共に夥しい血が溢れ出す。
彼はその長身に合わぬ身軽さで筏に飛び移るや、弟に被さったままの男を蹴飛ばした。
「退け、シャルカに血がかかる」
もんどりうって強か柵に背を打ちつけた男は、驚愕と恐怖に目を剥き、息も絶え絶えに泡を飛ばす。
「貴様ッ……わしは水源の民だぞ、分かっておるのか! こ、な真似をして、ただで済むと思うな!」
そんな男を、激しい憎悪を燃やしてなお冷たい双眸が見下ろした。
「お前は誰の弟に手を出したか分かってるのか? こんな真似をして、ただで済むなんざ思ってないだろうな」
言うなり、未だ情けなく服を押し上げている股間へ剣を突き立てる。ぶっつりと、張り詰めた皮の裂ける音がした。
鍛え上げられた褐色の腕は、耳障りな叫びを迸らせる喉を掴むと、いとも容易く肥えた巨体を吊り上げる。そしてそのまま無造作に筏の外へ放った。
投げられた勢いと自らの重みで、男の巨体は見る間に泥に呑まれていく。死の恐怖に引きつる男の全てが沈んでしまうまで、兄はじっとその様を見据えていた。
「俺は『揉めるな』と言われただけだ。なら口が利けないよう沈めればいい」
そう吐き捨てる横顔は、獲物にとどめを刺す時となんら変わらぬ、酷く淡々としたものだった。
兄が人を殺めるのを初めて目の当たりにしたシャルカは、身を起こすこともできずただただ彼を見上げていた。
幾度も戦場に立ってきた兄だ、手にかけた人の数はとうに両手の指に収まるまい。それは分かっていた。けれど分かっているつもりに過ぎなかったのだ。
濃厚な血の匂いに合わぬ歯の根。
男の断末魔が耳の中で反響し続けている。
自分には押し返すこともできなかった相手でさえこうも簡単に命を失うということ、そして兄や父が常に佩いている剣がその為の道具であることを、シャルカは今更のように思い知る。
目が離せぬままその横顔を見つめていると、こちらに向き直った。灰色の瞳と視線を交えた刹那、無意識に肩が大きく跳ねてしまう。それを見た兄は一瞬哀しげに目を伏せると、剣を収めて屈みこみ、
「嫌なものを見せてすまない。恐かったろう、怪我はないか?」
普段通り、気遣わしげに尋ねながら手を伸べてきた。
(――連れ戻される!)
シャルカは反射的に跳ね起きると、柵を掴み泥の原へ身を躍らせようとした。けれどすかさず兄の腕が後ろから抱きとめる。
「馬鹿な真似は止せ!」
その腕に爪を食い込ませ、シャルカは死に物狂いで身を捩る。
「離してください! こうなったらもう、迷惑承知で本当の母様の許へ行きます!」
「何を言ってる、」
「離して、離してくださいっ!」
もがいていると、力を緩めぬまま兄が呟く。
「……そんなに俺が恐くなったか」




