夜更けの原にて
「シャルカだな」
相変わらず顔を押し付けているため、彼女の表情は分からない。
「バングルを手放した理由さ。大方シャルカが絡んでいたんだろう? さすがにあれと水二樽を理由もなしに引き換えるほど、お前も馬鹿じゃない……と思いたい」
「本当にごめんなビルマ。とても気に入っていたし、大事にしてたんだが……」
無意識の内に口調も砕け、セトは心から詫びた。それを受けようやくビルマが顔を上げる。
「まぁいいさ。日々馬で駆け回っていたお前だ、四年間もよく失くさずに持っていたと言うべきなんだろうね」
悪戯っぽい笑みと口調に胸を撫で下ろす彼に、「でも」とビルマは口を尖らせた。
「わたしが手ずから作った物を、まさか義弟のために水ニ樽と引き換えてしまうとはね。あぁ、まったくお前は兄馬鹿だ。島一番の美人と謳われるわたしの自尊心はズタズタだよ」
「面目ない」
項垂れるセトの肩を、ビルマの拳が軽く突く。
「面目ないで済むか! ……お前がいつまでも嫁をとらずにいるのも、シャルカのせいなんだろう?」
「別にこの歳で未婚なのは俺だけじゃないだろう。アダンだって、ビルマだってそうじゃないか」
吐息がかかる距離で、猫目がちな瞳が探るようにセトを見つめた。真剣な眼差しに知らず彼の喉が鳴る。ごまかすなと叱られている気がして、セトは仕方なく口を開いた。
「シャルカのせいじゃない。……ただ、あいつが皆からどう思われているか知ってるだろ?」
「まぁ、な」
「俺が嫁を得て家を出てしまったら……どうしたって親は子より先に逝くものだ。そうなればあいつを独りきりにしてしまう」
「同居すればいい」
気軽な調子で言うビルマに、セトはきっぱりと頭を振る。
「そんなことをすれば、あいつは余計気を遣って遠慮する。自分から家を出て行くと言いかねない」
「それもシャルカの意思だろう」
「そんな放り出すような真似できるか」
彼は奥歯を噛み天を見上げた。蒼穹神がおわすという空。夜だからこそ、雲に邪魔されることなくその全貌を仰ぐことができる。
「シャルカを生かすと決めたのは俺だ。だからこの命が続く限り、シャルカのため持てる全てを尽くす義務がある」
「違う。生かすと決めたのは父様だ」
「それはそうだ、でもそれは族長様が俺の意見を採択してくださったからだ。族長様は俺がその務めを果たせるよう、俺の弟としてくださった。だから、」
「違う」
ビルマはセトの言葉を遮ると、両手で彼の頬を包んだ。そのまま引き寄せ、鼻先が触れ合う距離で見据える。知的な煌きを秘めた瞳が真っ直ぐにセトを射抜いた。
「お前の生はお前だけのものだ。お前がそんな風に思い詰めているとシャルカが知ってみろ、それこそ家どころか島を飛び出すぞ」
咎めるように言われ、セトの胸がずきりと痛んだ。
確かに彼女の言う通りかもしれない。普段から自分が家にいることを申し訳なく思っている節があるシャルカだ、兄の考えを知れば行方をくらましてしまうかもしれない。他に頼れる者もないのに。
シャルカが目の前から消えてしまう――セトはその恐ろしい想像を目を瞑って追いやった。そして無理に笑って見せる。
「いや、そもそもこんな朴念仁に嫁の来手なんてあると思うか?」
「わたしは構わない」
「そりゃ奇特なこ……何?」
予想だにしない切り返しに、セトは思わず固まった。
「血迷ったのか?」
「そう見えるか?」
訊き返すビルマはいたって真剣に彼を見つめている。
「わたしは構わない。朴念仁でも、『色付き』の義弟がいようと。お前が望むならシャルカを連れて来るのもいい。お前が次期族長として起てば、父様も安心されるだろう」
『色付き』の言葉にぴくりと眉を跳ね上げたセトだったが、後半の言葉に脱力した。
「あぁ、やっぱり族長様に言われたんだな。族長様に見込んでもらえるのはありがたいことだが……ビルマ、お前の夫となる男だぞ? 自分が添い遂げたいと思う男を選ぶべきだ。お前ならやたらに変な男を選んだりは……」
「馬鹿なのか! お前本気で馬鹿なのか!」
ビルマは耳まで真っ赤にすると掴んだ頬に爪を立てた。セトが痛みに顔を顰めるのも構わず、声を振り絞る。
「夜警をつけると仰った父様に、ならお前がいいと名指したのはわたしだ!」
「族長様の言いつけだったんじゃ、」
「慕いもしない男に寝所の警護を任せるものか! 父様の見立てたどんな立派な男とてご免だ! というか、今の今までわたしの気持ちに気付いてなかったのかお前は!」
「皆目」
反射的にそう答えたものの、セトに心当たりがないではなかった。
彼は、いつもビルマの視線が自分を追っていることに気付いてはいた。けれどそれは物心ついた時からずっと変わらないことだったので、特別意味のある行為と捉えていなかったのである。アダンの言葉を借りるならば、知ってはいるが分かっていない、正にその状態にあったのだ。
「さすが筋金入りの朴念仁だな! それなら他に嫁の来手はあるまいっ」
怒鳴り散らすと、ビルマは強引にセトの唇に口付けた。呆気にとられるセトがその感触を味わう間もなく歯が立てられる。痛みに低く呻くと、ビルマは濡れた唇を離した。
「……だから観念してわたしの婿になれ。それとも他に想う女がいるのか?」
命じるような口調だが、その瞳は切なげに揺れている。湿った唇を噛み、セトは目を伏せ逡巡した。
幼い頃には、ビルマが常に自分を見ているのと同じくらい当たり前に、いつか彼女と結婚するんだと漠然と思っていた時期もあった。初恋と呼ぶにはあまりに拙く、夢と言うよりただ「そういうものだ」と、根拠もなく描いた未来像。否、もしかしたら親友同士である父達や、周囲の人々の期待を察し、己にそう刷り込んで込んでいたのかもしれない。
少年時代を終える時、セトが無意識に手放したそれを、ビルマは今も持ち続けていたのだ。より具体的なものへ育てながら。
ビルマより親しい異性がいるかと問われれば、いない。
けれど想う女と言われて思い浮かぶ顔もない。
たった今、初めて口付けを交わしたビルマの顔さえ浮かばないのだ。
何より、妻を娶ると告げたらシャルカがどんな反応をするかという不安がちらつき、結婚というものに真っ向から向き合えない。
セトは顔を上げると、正面からビルマの瞳を見据えた。
「すまない」
短い返答に、ビルマの双眸が見開かれる。服を掴む手にますます力を込め、
「待っていてはいけないか? シャルカがひとりでも何不自由なく生きていけるくらい大人になったら、その時はお前だって……!」
言い募る眼差しに、セトは重々しく首を横に振る。
「お前は族長様のひとり娘だ。次世代の族長か、その妻となる子を産まなきゃならないだろ」
「わたしは……っ!」
カルムにも投げつけた言葉を口にしかけ、ビルマはぐっと唇を噛む。
彼女も分かってはいるのだ。セトが言うことも、己に課せられた責務も。『女』としての時間が有限であることも、何もかも分かっている。
しかし、だからこそやりきれないのだろう。
彼女がもしもごく一般家庭の子女であったなら――そうでなくとも、責任感に乏しい質であったなら――いっそ連れて逃げてくれと、身も世もなく泣き縋り懇願することもできたろう。
けれど生まれた時から島を担う族長の一人娘として育ち、その使命感に裏打ちされた強かさと高潔さを持つ彼女自身の魂が、そんな醜態を曝すことを許さないのだ。
かと言って、物心ついた時から抱いてきた一途な想いは、そう簡単に手放せるものでもあるまい。
『族長の娘』と『ひとりの女』、相対するふたつの心が、彼女の心を責め立てる。絶えず揺らぐ表情からも、その葛藤が見て取れた。
彼女の声なき慟哭は、いかな鈍感なセトでも気付けるほど痛々しいものだったが、既に心を決めている彼にはかける言葉もなく、ただ押し黙っているより他なかった。
彼女は随分長いことじっと顔を伏せていたが、やがて静かに顔をあげた。『族長の娘』としての彼女が打ち勝ったのだ。
けれど、彼女は問うた。
「……分かった。でも、ならせめて聞かせて欲しい。もし……もしも、シャルカのことがなければ……お前はわたしを妻にしてくれたか? 少しはわたしを見てくれたか?」
それは彼女の、『ひとりの女』としての最後の未練に思われた。
けれどセトは再び首を横に振る。
「それを聞いてどうする」
「どうもしない。ただ、聞きたい」
「言って何が変わるわけでもないだろう」
「それでも……!」
「止せ」
セトは頑として答えなかった。
ビルマがいくら縋り仰げども、彼女が慕い続けたその顔には、少しばかりの迷いもない。未練も、悔いも、切なさも、今ビルマの胸を苛むありとあらゆる感情の内たったひとつすら見出せなかった。
添えぬ悲しさよりも感情を共有できない哀しみが、強く彼女を打ち据えた。
「わたしは……わたしはお前の真の心にすら触れられないのか!」
美貌にさっと翳りが落ちたかと思うと、絶望がほの暗い憎悪にとって変わる。
「そんなにシャルカが大事なんだな……シャルカのせいじゃなく、シャルカのためにということか……」
「…………」
「そうなんだな」
沈黙を肯定と受け取ると、ビルマはセトの胸を突き飛ばし、身軽な動作で立ち上がった。鞍を蹴り、そばで控えていた仔牛の背に飛び移る。長い髪が夜空に舞った。
「……分かってはいたさ。お前がわたしを女として見てないことくらい」
「そんなことは……ビルマはとても美人だ。賢いし、それに……」
「世辞は不要。気付きもしなかったクセに」
ビルマは唇の紅を手の甲で拭い去る。けれどこの暗闇では朴念仁には伝わらない。
「滑稽だ」
まだ紅が僅かに残る唇を自嘲に歪め、ビルマは目を伏せた。
「あのバングル、蛇皮だったろう? 何故アダンのものと色違いだったか分かるか?」
「……いや、」
「お前は忘れてしまったろうが……お前のものに使っていた蛇皮はな。一二年前、形に残る物で初めてお前がわたしにくれた水蛇の皮だったんだ。ベルトに加工して余した分、馬鹿みたいに後生大事にとっておいてたのさ」
セトはハッとして彼女を見やる。言われてみればそんなこともあった気がする。
自分はどれだけビルマの想いが込められた品を手放してしまったのだろう――それも一時の感情に任せて。彼は自らの行いを深く悔いた。
ビルマはそんなセトを一瞥し、
「あの時のわたしの見極めも、あながち外れてはいなかったようだ。まさかここまでセトの心を占める存在になるとはね……わたしにとってはなによりも恐ろしい化け物になったわけだ」
呟くと、くるり仔牛を反転させ、力一杯鐙を蹴る。油断しきっていた仔牛は甲高く鳴くと、島へ向かい全速力で駆け出した。セトも慌ててその後を追いかける。
「待てビルマ!」
「ついて来るな!」
「俺はお前の護衛だぞ」
「こんな時までお役目大事か、鬱陶しい! ならこの場で解任してやる、可愛い義弟の許へ帰るがいい!」
感情的になるビルマを、セトは歯噛みしつつ猛追する。と、視界の隅に小さな灯りの瞬きを捉えた。
「ビルマ、止まれ!」
返事はない。
「北の方角に舟がいる、うちの島のものじゃない!」
その言葉でようやくビルマは手綱を引いた。
「舟?」
「静かに、こっちへ」
手近な葦の群に身を潜め手招く。戦士の顔つきになったセトに、もうビルマは逆らわない。やや癇は強いが、不測の事態に際し、己の感情を優先したりはしない。原野の女故の強かさだった。
草陰に牛馬を並べ、セトが視線で示す先を追った。
遠くの暗がりに浮かぶ一艘の小舟。
闇に慣れた目を凝らせば、舟の形からしてやはり弓島の物ではない。舟上には四つの人影があり、時折人影の隙間から灯火の光が零れた。
「どこの島の者だろう。セト、何か見えるか?」
今この辺り一帯は弓島の支配下にある。夜陰に紛れ、他島の民が狩りを行っているのであれば、即座に咎めなければならない。次第によっては戦にもなりうる。
けれどセトは低く唸った。
「あんな舟は見たことがない。他所の島の者じゃない」
「なら商人か」
胸を撫で下ろすビルマに、セトは小さく頭を振る。
「俺だって商人達が使う舟は見ている。水源の民のものでも、機織の民が使う舟とも違う……古森の民のものでもない」
「何だって? それじゃあ、」
「分からない」
彼が短く答えた時、舟が動き出した。こちらへ近付いてくる。ふたりは愛騎の背に伏せ息を潜めた。馬も仔牛も主人に倣い、首を低くして待つ。
しばらくすると、舟はふたりのすぐそばまでやってきた。何やら言い交わす声が聞こえる。灯火がふたりの隠れる葦の群を照らした。固唾を飲み気配を押し殺す。舟が通り過ぎる際、虫の羽音に似た奇妙な音がした。
やがて舟が去ると、セトはビルマにそのままでいるよう合図し、そっと伸び上がって様子を窺う。大分遠ざかっているが、闇に慣れた目が辛うじて男達の姿を捉えた。
黒い肌に黒い髪。
「……山岳の民だ……」
「山岳の民?」
ビルマが吐息だけで聞き返す。セトもビルマも、これまで山岳の民を直に見たことは一度もなかった。
彼らは岩肌剥き出しの険しい山脈の奥深くに棲み、滅多に山から下りてこない。他民族との交流を一切拒み、隠れるように暮らしている謎めいた民だ。邪神を崇め、夜な夜な妖しげな儀式を行っているという噂もある。
「原野に何の用だろう。夜狩りをしている風でもなかったが」
「……気付いたか?」
首を傾げるビルマの横で、セトは舟から目を離さぬまま硬い表情で呟く。
「舟を牽く家畜はいなかったよな。櫓で漕いでいるわけでもなかった。なのにどうやって進んでるんだ……?」
弾かれたようにビルマも身を乗り出した。改めて確認すると、確かに動力となりそうなものは見当たらない。風を受ける帆すらないのだ。
「まさか山岳の民は、妖しの術で舟をも動かすというのか?」
信じられないものを目の当たりにして、ビルマは小さく身震いする。
「明日の朝一番に、父様に知らせよう」
ふたりは頷き合うと、舟が豆粒ほどになるまで待って、急ぎ島へ駆け出した。