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すれ違う覚悟


 セトの背が通りの向こうへ消えてしまうまで、シャルカは静かに見送っていた。

 昔からの癖なのだ。

 後を追い、どこへでもついて行こうとする幼いシャルカを、兄はいつだって嫌な顔ひとつせず連れ出してくれた。一二も離れているのだから確実に足手まといだったろうに。精悍なその顔はなかなか笑顔を見せてくれないが、それでもシャルカにはその優しさが十二分に伝わっていた。

 そんな兄が「来ちゃだめだ」と言うのは、狩りか大事な用がある時だけ。だからシャルカはついていくのが許される戸口や桟橋の先まで出て、その姿が見えなくなるまで見送るのだ。

 南風に髪を揺らせながら見届けると、一息ついて戸を開けようと振り返る。と、シャルカは背後に佇む人影に気付き息を飲んだ。

 気配もなく立っていたのはカルムだった。片腕に広場で買ってきたのだろう果実を抱えている。驚くシャルカを嘲笑うように、垂れ目を三日月のごとく細めた。


「やぁ、さっきは大変だったね」


 シャルカは萎縮しそうになる心を励まし、目蓋の隙間から僅かに覗く灰色の瞳を見据えた。


「さっきって、どっちのこと?」


 ぴくりとカルムの眉が動いた。けれどそれもごくかすかで、カルムは不思議そうに首を傾げる。


「どっちって、何のことだい?」

「…………」


 シャルカは黙って見つめ続ける。

 初めての友人ができる喜びからついヨキ達に心許したシャルカだが、そう愚かなわけではない。虐げられてきたからこそ、他人の心の機微に人一倍敏感だった。

 カルムは誰よりも自分を憎んでいる。

 そして自分とは違う形で兄を慕っている。それはある種の崇拝を思わせた。

 その兄の義弟である自分を表向きは庇ってくれながらも、その実誰よりも冷ややかに、時に燃えるような視線で射ていることにも気付いていた。だからシャルカは彼に負けまいと、自身を奮い立たせてきたのだ。

 ヨキがカルムの幼馴染であること、そして時折ヨキがカルムに対して見せる忠誠にも似た献身を思えば、ヨキ達の所業とカルムが無関係ということはないだろう。

 その疑惑を突きつけるように見据えていたが、カルムは薄笑みを一向に崩さない。シャルカは小さく息をついた。


「ぼくは誰にも言う気はないよ。あに様にも」

「だから、何のことだい?」

「……もういい。話はそれだけ? あに様ならたった今、族長様のお宅に向かったよ」


 そう言えばすぐ追いかけていくだろうとシャルカは思っていたが、カルムは浅く頷いただけだった。代わりにシャルカに向かい一歩距離を詰めてくる。


「もう向かわれたのか。流石はセト隊長、勤勉でいらっしゃる。伯父もセト隊長になら安心して族長の座を譲れるだろうね」


 唐突な話にシャルカは小首を傾げた。そんな子供っぽいシャルカの仕草を、カルムは小さく鼻で哂う。


「分からないのかい? 君は案外幼いね。未婚の女性の寝所の警護を、ひとりきり任されるっていうのはね、つまり()()()()()()なのさ。任せた伯父もビルマ姉さんも、受けたセト隊長にもその気があるってこと」


 卑猥な響きをちらつかせた言葉に、シャルカはたちまち頬を染め俯いた。族長に願い出るため、セトがいつも以上に身なりを整えていたことも災いした。あの兄にそんな心積もりがあったなんてと動揺を隠せない。

 その反応に気を良くしたカルムは、寛容な微笑を湛え、芝居がかった所作で腕を広げる。


「セト隊長が次の族長になられれば、この弓島は安泰だよ。セト隊長ならきっと戦のない未来を築いてくれる。粗暴なアダンさんとは違ってね。素晴らしいと思わないかい? 君の義兄(にい)さんが族長になられるんだよ!」


 けれど熱っぽい語り口が、逆にシャルカを冷静にさせた。


「君の義兄(あに)様にもね」


 抑揚なく告げると、カルムの両目に恍惚と敵意とが揺らめいた。けれどそれはすぐに鳴りを潜め、力なく肩を落とす。


「だけどね。もしかしたらダメになるかもしれないのさ。今は好き合ってらっしゃるふたりだけど、きっと今夜セト隊長はフラれてしまうよ。姉さんに空の手首を見られたらね」

「……?」

「君はあのバングルについて、セト隊長から何も聞かされていないのかい? 義弟なのに」


 最後の一言を強調したのは明らかにわざとだ。そうと分かっても、シャルカの胸はちくりと痛んだ。


「……ビルマ様からいただいた、とだけ」

「そう。あれはね……」


 カルムが自慢げにバングルに込められた意味を語ると、シャルカの白い頬はますます色を失っていく。


「ね? それを、仕方なかったとはいえ商人なんかに渡してしまったセト隊長を、姉さんは許されるかなぁ? 相当悲しまれると思うよ? あれを手放したってことは、姉さんの想いを手放してしまったにも等しいからねぇ」

「そんな……」

「何とか取り戻せたらいいんだけど……あれはとても高価なものだからね、あの業突(ごうつ)くばりの商人に今更返してくれと言ったって、あれより余程値打ちのある物を持っていかなきゃ無理だろうね」


 シャルカはカルムの言葉を最後まで聞かず、急ぎ家の中へ取って返した。その勢いに驚いた母が声をかけて来たが、生返事を返し兄の寝所に駆け込む。震える手で蒼穹神の印を切り、兄が装身具を入れている小箱を開けた。

 ありえないとは分かっていたが、確認せずにはいられなかった。

 あの時渡したバングルは別物で、ビルマから貰った物は大事にしまってあるのだと思いたかった。

 けれど案の定、小箱には耳飾りや飾り紐がいくつか入っているきりで、シャルカは叫びだしたくなる。


(そんな……あに様にそんな大事な物を手放させてしまったなんて……ぼくのせいで!)


 その事実が受け入れ難く、闇雲に布団をひっくり返す。けれどシャルカの望む物は影も形もありはしない。


(どうして言ってくれなかったんですか、あに様……! カルムは知ってたのに!)


 嗚咽が喉許まで迫り上がり、目の奥がツンと痛んで、上手く思考がまとまらない。


(でもそんな……あに様に限って、そんな心積もりをしてお役目を受けるなんてこと……まして狩りよりも優先するなんてこと、絶対にない。ありっこない! ……あぁ、でもどうかあって! どこかに大事にしまってあって――!)


 シャルカはもう自分が何に打ちひしがれ、何に絶望しているのかさえ分からなかった。

 そうして枕を持ち上げた時、シャルカは瞠目した。

 指先を震わせ、そこに隠されていたものをそっと摘み上げる。


「……蒼鷺の、羽根……」


(カルムの話は本当だったんだ! あに様はこれを、ビルマ様に……)


 戦慄く唇を噛みしめると、シャルカはそれを丁寧に枕の下に戻した。

 兄の匂いが染みた毛布の上で、深呼吸を、ひとつ。

 それから荒らした寝床を丁寧に整えると、寝所の外で心配そうに待っていた母に告げる。


「母様。ぼく、昼間馬小屋に忘れ物をしてきたみたいです。ちょっと取りに行ってきますね」

「今から? もう暗くなるわ、明日にしたら?」

「すぐ戻りますから!」


 そう言い切って再び外へ飛び出すと、まだカルムはそこにいた。カルムは広場の方を顎で示す。


「あの水の商人ならね、雪白鳥の処理が終わるのを待って、今夜は宿で過ごすはずだよ。運が良かったね」


 その顔は先程までの薄気味悪い笑みとは違い、シャルカが今までに見たことがないほど晴れやかなものだった。

 カルムはシャルカがこれから何をするつもりなのか、全て分かっているのだ。

 分かっているからこそ、もう己の心を隠すつもりがないのだろう。

 そんなカルムを見ても、シャルカは自分でも驚くほど何の感情も覚えなかった。怒りも失望も困惑も何もかも、胸の中を通り過ぎて行ってしまったかのようだ。

 それでも、もし兄が無事にビルマと添えることになった暁には、自分にしてくれたように大事にされるだろう彼へ、一つだけ伝えておきたいことがあった。


「君はアダンさんを悪く思っているようだけど、本当は違うよ。君が知らないだけ」


 切り出すと、カルムは怪訝そうに首を捻る。


「君があに様を慕っているのは、最後の戦の時、君のお父様を背負って来たからでしょう? そして、早々(はやばや)と無傷で帰島したアダンさんを軽んじてる。

 だけどね。アダンさんが早くに戻ってきたのは、初陣の子達を真っ先に逃がしたからだよ。自分よりも年下の子達を死なせたくなくて。彼らの殿を買ってでて、急かしつつ精一杯駆けて来たから、結果的に早く島についただけなんだ。その背に誰も背負ってなくても、アダンさんはちゃんと他の人達を助けていたんだよ」


 カルムは咄嗟に何か反論しかけ、ぐっと飲み込んだ。

 あんなに酷い戦の中、初陣の若者達がひとりも欠けずに戻ってきたことは、戦中の奇跡として島の語り草になっている。その奇跡にアダンが寄与していたことを、彼を嫌うカルムは知ろうともしていなかったのだ。


「……それが何だって言うんだい? アダンさんの方が族長に相応しいとでも?」


 挑むように尋ねてきたカルムに、シャルカはいつものようにうっすら微笑む。


「あに様の()になるんだから、どうかあに様が大事にしている人のことも信じてあげてね」


 それだけ言うと、シャルカはカルムの脇をすり抜け駆け出した。先程彼が教えてくれた宿へと。

 その場に留まるカルムはシャルカを振り向いたが、シャルカの方は一度も省みることはなかった。宵闇が降りる中、影絵と成り果てた家々の向こうへ、鮮やかな金色の髪が尾を引くように遠ざかる。

 光の余韻が消えてしまうと、カルムは手にしていた生成り色の果物に歯を立て、皮さら齧み千切った。奥歯に挽かれた皮はざりりと不快な音を立て、実を飲み下せど砂のように舌に残る。


「……不味い」


 呟くと、唾と共に吐き捨てた。




 水源の民の商人は、宿の部屋にぶつくさと文句を垂れていた。


「何て殺風景な部屋だ。おまけに泥の匂いが鼻について、少しも眠れる気がしない」


 それでも男が確保した部屋は個室で、まだましな方だ。

 宿は簡素な作りで、懐に余裕のない商人達が雑魚寝する大部屋と、そうではない商人のための個室がふたつあるきり。大方の商人は、下手に装飾に凝られて宿代が上がるよりずっといいと考えているのだが、日頃贅を尽くした邸宅で暮らす男には不満でしかなかった。


「こんな足許の覚束ぬ浮島で一夜を明かすなど、鳥のことがなければ真っ平ご免だ」


 けれどせしめたバングルを取り出し眺めれば、たちまち男の口許が緩む。太い指で大きな琥珀を撫でつつ、


「一体どれだけの値がつくやら。この蛇皮も、どうやら原野の固有種のもののようだ。これをたった水二樽と引き換えたと言ったら、郷の仲間達は地団駄踏んで口惜しがるぞ」


その様を想像し、ますます愉快そうに目を細めた。

 その時、窓にかけられた簾越しにかすかな声がした。

 男はすぐさまバングルを懐深くしまいこみ、用心深く近付く。


「誰だ」


 尖らせた声で尋ねると、


「昼間貴方から水を買った者です」


鈴の音のような可憐な声が答える。聞き覚えのあるその声に、男がそうっと簾を上げると、表に昼間からかってやった妙な色の少年が立っていた。部屋から零れた灯りに、紫の瞳がやけに明るく輝く。


「何の用だ?」


 見とれながらも男が更に声を低くすると、少年は真っ直ぐに顔を上げて言う。


「お願いです。あのバングルを返してください」

「何を馬鹿なことを!」


 男は虫けらを払うように手を振った。


「あれはちゃんとお前さんの兄貴と交渉した上で受け取ったのだ、それを今更返せだと? 無理な相談だ、餓鬼はさっさと帰って、」

「ぼくの身では足りませんか」

「何?」


 頬の贅肉に押し上げられて細い目を更に細くし、食い入るように少年を見やる。少年はあくまで真剣だ。その上子供とは思えぬほどの決意を覗かせている。


「あなたは仰いましたよね、ぼくの身と引き換えるなら五樽でも六樽でも好きなだけやろうと。あのバングルには足りないでしょうが、ぼくにできることならなんだってします。あなたについて行きますから」


 口調は静かだが、幼い顔には不退転の覚悟が滲んでいる。その様に男は思わず見入った。

 改めて見れば実に整った顔である。かすかに寄った眉間の陰影は悩ましく、闇の中でなお光る赤い唇があどけない顔に不相応な色香を添えている。一心に縋る眼差しは男の獣慾を大いに刺激した。まだ二次性徴を迎えていないしなやかな姿態は、少年とも少女ともつかぬ中性的な魅力を醸している。


(こいつに幾らの値がつくかは分からんが、少しばかり手元に置き、飼ってやるのもいいやもしれん。なぁに、この年頃じゃ男も女も大差あるまい)


 背徳が男の背筋をぞくりと駆け上がる。ひと欠けの羞恥もなく、下衆な性根をそのまま歪な笑みに変えた。


「良いだろう」


 懐からバングルを取り出すと、伸ばされた細い手首を力一杯引き寄せた。少年は堪らず上体を崩して壁に胸打ち、喉の奥で小さく呻く。そのくぐもった声がますます男の劣情を煽った。


「これを兄貴に返してやりたいんだろう? 泣かせるじゃないか。持って行くがいい、けれど必ず戻って来るんだ。違えた時は……」

「分かっています、明け方までには必ずここへ戻ります」


 少年が示す恭順に気をよくした男は、捕らえた手の甲にねっとりと舌を這わせた。見た目通りに滑らかな肌はすぐに粟立ったが、そんなことは気にならなかった。

 少年は慌てて手を引っ込めると、バングルを大事そうに胸に押し抱き、深々と一礼し駆け去っていく。

 男は必ず少年が戻ると確信していた。一寸の不安もなく寝台に身を横たえると、郷に連れ帰った後のことに思いを馳せ、淫靡な夢に耽った。




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