広場の騒動
「あに様!」
ホッとして呼ばわるシャルカの言葉に、商人の顔から血の気が引いていく。セトは侮蔑を込めた視線で商人を見下ろすと、ぞんざいな口調で尋ねた。
「随分と阿漕な商売してるじゃないか。自分がどこで店出してるか分かってるのか?」
年嵩の商人からすれば、セトは随分年下の若造である。横柄な物言いに憤慨し、腰の剣から目を逸らし胸を張る。
「フン、泥っ原で獲物を追い回すだけが能の狩人風情に、商いについて口出しされとうないわ。売値を決めるのは商人よ、客じゃあない」
「獲物を追っかけ回すだけが能、か」
セトは剣の柄を爪で叩き、逸らした視界へねじ込んでやる。すると商人は真っ赤になって唾を飛ばした。
「貴様、分かっておるのか! わしが郷へ戻らなければ、この弓島に二度と水売りは来んぞ! そうなって困るのはどちらだ、己の立場を弁えるんだな!」
俺に斬られたか、原で落馬し自滅したかなど、分かりようがないじゃないか。
そう応じようとしたセトの首筋に、物言いたげな視線が幾つも刺さる。ちらりと横目で見やれば、人垣を作る大人達が「揉め事は困る」と必死に目で訴えていた。一方、老人達の視線はことの発端となったシャルカへ注がれている。お前のせいだと言わんばかりに。
水源の民の安い脅しなどセトは全く気にならなかったが、ここで我を通してしまえば、後々自分ではなくシャルカが責められるのだと嫌でも分かってしまった。
シャルカを買うなどとほざいた男を看過するのは癪だが、自分の行いのせいでこれ以上シャルカの肩身を狭くするわけにもいかない。セトは目を閉じ小さく嘆息すると、灰色の空へ視線を放った。
「麦三袋だったな……なら、雪白鳥一羽で足りるな?」
その申し出に商人の目が輝く。
雪白鳥は翼を広げると大人の背丈程もある大きな鳥で、白く柔らかな羽毛をしており、その需要は非常に高い。低く見積もっても一羽で麦八袋は下らない。魅力的な提案を前に、商人の頭からは先程のいさかいなど綺麗さっぱり吹き飛んだようだった。
「いいだろう。だがお前さん手ぶらじゃないか」
「今はな」
そう言うとセトはざっと辺りを見回す。建物の陰からこちらを窺っている少年が弓を手にしているのを見つけ、大声で呼びかけた。
「ヨキ! その弓と矢、ちょっと貸してくれ」
呼ばれたヨキも、ヨキの名を聞いたシャルカもびくりと肩を跳ねさせる。けれど未だヨキをシャルカの友人だと思っているセトは、気付かず急かすように手招く。
「頼む、早く」
「はっ、はい、隊長!」
ヨキは大急ぎで飛び出すと弓を手渡し、背に背負った矢筒を下ろした。
セトが筒から矢を引き抜くと、現れた鏃の鈍い光沢に、商人は震え上がって樽の陰に身を隠す。
けれどつがえた矢の向けられた先は、彼の喉許ではなく真上の空。釣られて宙に目を凝らすも、商人の目には雲の他映るものはない。
それでもセトは躊躇うことなく弓を引く。子供用の弓矢は、普段彼が使っているものよりも短く軟い。指先で感じ取った感覚をつぶさに腕へ伝え、巧みに力加減を調整する。
期を見て放つと、弦が鳴り、矢は真っ直ぐ天へ駆け上る。そして瞬く間に雲に紛れ見えなくなった。
矢の行く先を見届けると、セトは蒼穹神の印をきり、黙って樽を肩に担ぎ上げる。我に返った商人は、
「おい待て、話が違うぞ! 鳥はどうした!」
喚き散らし食い下がったが、セトは見向きもせず傍らに立ち尽くす弟を引き寄せた。
次の瞬間、今まさにシャルカが立っていたそこへ、胸を射抜かれた雪白鳥がどさりと落ちてきた。血と羽根を撒き散らしながら激しく痙攣する鳥に、商人は腰を抜かしてへたり込む。
「血抜きくらいは自分でしてくれ、随分儲けたはずだろ」
言いながら矢を抜くと、鳥は細い首から金切り声を迸らせる。傷口から飛び散った鮮血が豪奢な絨毯に染みを作った。狩りをせぬ水源の民の男にはそれだけでも失神ものの光景だったが、セトが血を払うため矢を一振りすると、男の裾までもが赤く汚れた。おまけに代金として渡された鳥は、まだ断末魔の叫びを上げながら絨毯の上をのた打ち回っている。
これを侮辱ととった商人は、萎えた腰を叱咤し立ち上がる。
「ふざけるな! こ、こんな物、これをわしにどうしろと言うのだ! 畜生を屠り解体するまでが貴様ら蛮族の役目だろうが!」
刹那、猛禽のごとき双眸が肥えた商人を射抜く。心臓を鷲掴み引き千切らんばかりの殺気を叩きつけられ、商人の干上がった喉がごくりと音を立てた。
けれど商人は思い直す。
いかに狩人として優れていようが、所詮この青年も人の子である以上、水なくしては生きていけぬと。その上ここ数日原野は雨知らずで、水を渇望しているはずだ。あくまで優位は自分であると。
周りに目をやれば、蛮族の一言に憤っているのはセトだけで、褐色の肌の島民達は目を合わそうともせず惨めたらしく俯いている。水を支配するということは、やはりそれだけ強いのだ。
心に余裕を取り戻した商人は、改めて対峙するセトを眺めた。そして左手首に光る物に目を留める。
「なんだ、随分とご立派な物を持ってるじゃないか。そのバングルと交換してやろう、それなら今までの無礼を許してやってもいい」
「何だと?」
セトは今度こそ男に掴みかかろうとしたが、背後でぼそりと誰かが呟いた。
「早く水を買って帰りたい……」
無感情なその声に振り向けば、
「『色付き』さえ広場に出てこなけりゃあねぇ」
「セト隊長には同情するけれどもさ」
今度は反対側で苛立ち混じりのぼやきが聞こえた。
それがじわり、じわりと、人々の間に広まっていく。セトの視線を避けながら、聞こえよがしにじわじわと。
そのざわめきに、セトはバングルが重くなっていくのを感じた。束の間目を閉じ、これを贈ってくれた時のビルマを思い出す。
(――なぁ、ビルマ。俺達が好きで、守りたいと思ってた島は、いつからこんな風になっちまったんだろう)
次いで、今朝蒼鷺の羽根を託してくれたアダンの顔が浮かんでくる。
(アダン、俺には背負えそうもないし、とてもそんな気になれない。こんなものを背負うくらいなら……)
目蓋を開け、傍らのシャルカを見やった。シャルカはセトの裾をぎゅっと握り、背中にかかる悪意と懸命に戦っている。じっと俯き、唇を噛みしめて。
セトは担ぎ上げた樽を下ろすとバングルを外した。
雲の向こうで沈みゆく陽が最後に投げかけた光の中、琥珀は煌く軌跡を描き、絨毯の上に落下する。すかさず芋虫じみた指が拾い上げた。
「おぉ、確かに確かに。こんな色艶の良い琥珀は久々に見たわ、泥っ原の土民風情には過ぎたる代物よ。族長殿にも訴えずにおいてやろう」
もうこちらには目もくれず、琥珀に見入る卑しい商人に、セトは低く悪態づく。
「水源の白豚が」
それからヨキに弓矢を返すと、約束の一樽に加え、断りなくもう一樽抱え上げた。正当な相場で言えば、この場の水全て買い占められる程の対価を払ったのだ。セトは茨のような視線からシャルカを庇うよう、傍らに添い踵を返した。
そうして兄弟が立ち去ると、広場は少しずつ喧騒を取り戻していく。人々は散り、また思い思いに露店を巡り始める。何事もなかったかのように、あるいは『色付き』を小声で罵りながら。
その只中でカルムだけはしばしその場に佇み、兄弟が去った方を見据えていた。事の成り行きを全て映していた眼を光らせ、垂れた腕の先で指を忙しなく蠢かせながら。
家々の間を、セトは苛立ちを隠しもせずずんずん進んでいく。その肩へシャルカの控えめな声がかかった。
「あの……あに様、ごめんなさい。またぼくのせいで迷惑を……」
気付けば、傍らに添うシャルカはほとんど小走りになっている。セトは息をひとつつき怒気を払うと、シャルカに合わせ歩調を緩めた。
「お前のせいなんかじゃない。水源の民は皆強欲だ。子供のお前を捕まえて吹っ掛けてきただけだ」
「でもあのバングル、ビルマ様に頂いた大切な物だったんじゃ」
「手放すと決めたのは俺だ、お前が気に病むことはない」
含めるように言うと、シャルカの足がつと止まる。
「だけど、ぼくが……『色付き』のぼくが、ひとりで水を買いに出たりしたから」
呟き目を伏せ、唇を噛む。余所者の商人の対応ではなく、島民達の態度に傷ついているのだとセトには分かっていた。一旦樽を置き、シャルカの蜜色の髪をわしゃわしゃと掻き乱す。
「水を買いに出ることの一体何が悪い。お前は三島長の一人、軍団長アトの息子だぞ? それに一隊を率く俺の弟でもある。やましいところなぞあるもんか。
お前が助けを求めてくれさえすれば、俺はいつだろうがどこだろうが乗り込んで行ってやる。独りで抱え込んでくれるな。困ったこと、嫌なこと、何でもいい。言ってくれ」
不器用ながらに言葉を精一杯尽くしてみても、シャルカの顔は伏せられたまま。ならばとセトはしゃがんでシャルカを見上げ、金の髪を一筋指に掬った。
「誰がなんて言おうが、俺はお前のこの髪が好きだ。父さんも母さんもな。それだけじゃ不満か?」
するとようやく紫紺の瞳と目があった。シャルカは今にも泣き出しそうな顔で、薄く開いた唇を戦慄かせていたが、やがて、
「……いいえ」
いつものようにうっすら微笑んだ。そうして涙をいっぱいに溜めた目を閉じ、セトの手に甘えるように額を擦りつける。なのでセトはすっかり安堵してしまった。目の前の弟が昼間友人に裏切られ、命を狙われ、それでも口を閉ざし続けていようなどとは思いもよらず、シャルカが嫌と言うまでその頭を撫で続けた。
そうしてふたり家に戻ったあと、沈んだ陽の残光がまだ雲の縁を白く染めている内に、セトは愛用の弓と剣を携え早々に族長宅へ向かった。
族長の具合が悪くないようであれば面会を求め、直に話をするつもりだった。夜警の任を解き、他に適役を探して欲しいと。
広場での一件は、今まで揺らいでいたセトの腹を括らせるのに充分な出来事だった。
今度はきちんと寝癖を直し、相応に身なりを整え、口を引き結び歩く。そんなセトへ行き過ぎる人々が声をかける。
「やぁ、どうしたんだいそんな恐い顔して」
「こんな時間からどこへおでかけ?」
ビルマの寝所へ賊が入ったこと、セトが夜警を命じられたことは、まだほとんど広まっていない。だからこそ彼は急がなければならなかった。曖昧な笑みでかわし足を早める。
幼い頃は大好きだった夕暮れの道も、今では少しも彼の心を動かさない。
(歩いているのが隊長の俺じゃなく、シャルカだったらどうだ。どうせ皆そそくさと背を向け、声ひとつかけやしないだろうに)
ついそんな風に考えてしまい、苛立ちと一抹の寂しさが胸を占めるばかりだ。
重く淀んだ心の内で、セトは改めて思う。
やはり自分は、島を背負う族長たる器ではないと。
こんなささくれた気持ちで、一生をかけて真に島のため尽くすことなどできはしない。かつては、父がそうであるように、島を支える一助となりたいと願っていたが、その気持ちは年経るごとに萎んでいった。
今まではそんな己を騙し騙し過ごしてきた彼だったが、今日否応なしに自覚してしまった。子供の時は何も知らず無条件に愛していた島を、否定的な目で見ていることに。
彼が少年だった頃――あの大嵐の前までは、弓島の民は狩猟民族らしい快活さと力強さ、そして広大な原野に棲む民らしい伸びやかさを持ち合わせていた。
けれど今はどうだ。痩せた原で日々生きることに追われ、戦に疲れ、その鬱憤を寄ってたかってたったひとりの子供にぶつけている。
セトの目から見れば異常極まりなく、あまりの陰湿さに嫌悪を通り越して胸糞悪くなるのだが、今やこの島ではそう感じている彼の方こそ少数派なのだ。
あの大嵐が変えたのは原野の環境ばかりではない。人々の心をも存分に苛み、捻じ曲げてしまったのである。
島を、ビルマを支えようという気概のある若者はいくらでもいるだろう。けれど色も出自も何ひとつ自分のせいではないのに、不当に責められ、言い訳ひとつせず耐え忍ぶシャルカを守れるのは家族だけだ。ならば己の持てる力はそちらへ注ぎたい。
それが今のセトの素直な気持ちだった。
であれば、ビルマの寝所の夜警の任を――それを任されている以上、婿候補と捉えかねられない役目を――島民達に知られる前に、一刻も早く辞さねばならない。後にビルマの夫となる男も、他の男に寝所を守られていたと知れば面白くないだろう。ビルマ自身に良からぬ噂を立てられても困る。
(アダンにもあの羽根を返そう。なるべく早いうちに、できれば明日にでも……)
そう決め込み、セトは一層足を早めた。




