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午睡の夢


 奥の部屋では、何も知らぬセトが寝息を立てていた。

 常ならば些細な物音でも目を覚ますのだが、午睡の心地よい夢がそれを阻んだ。


 懐かしい夢だった。

 夢の中でセトはまだ少年で、シャルカはようやく歩けるようになったばかりの幼子だった。


 シャルカはとろとろに煮込んだ粥を食べ終え、ご機嫌で部屋の中を歩き回っている。ふくふくと丸みのある足で、掴まれる物から物へ渡り歩いては、褒めてとばかりに家族を見上げた。

 その上目遣いの愛くるしさと言ったらない。

 ちょっぴり得意気にそびやかした小さな鼻、桃を思わせる細かな産毛に包まれた頬。紫の瞳が瞬く度、長い睫毛が灯火の明かりを反射しきらきら輝く。ぽってりと形のいい唇は濡れて艶やか。その照りの原因は間違いなくよだれなのだが、それすらも愛しいと思わせてしまう可愛さだ。

 父も母もこれ以上垂れようがないくらい目尻を下げる。


「ほら、母さんのところへいらっしゃい」

「おいでシャルカ」


 ふたりともシャルカを我が膝に招かんと呼びかける。顔は微笑んでいるがその実必死だ。二親が言外に繰り広げる熾烈な争いを、思春期のセトは少し気恥ずかしく思いながら眺めていた。

 気持ちは分かる。痛いほど分かる。

 ややもするとセトの頬もだらしなく緩んでしまいそうだった。

 けれども心のまま自分まで参戦するのは、もっともっと気恥ずかしい。年頃の男子にとっては絶対に避けたいやにさがり顔になるなんて。

 セトは部屋の隅に下がると、無関心を装い弓の手入れを始めた。


「ほらほら、こっちへおいでなさいな」

「危ないぞ、父さんの手に掴まれ」


 両親がひっきりなしに声をかけるものの、シャルカは全く意に介さず、足裏で敷物を踏みしめる感触に夢中になっている。あっちへよちよち、こっちへよろよろ、抱えた弓に視線を落としながらも、危なっかしい足取りが気になって仕方なく、セトはちらちらと目で追った。


「あぅ……とぉー、んん」


 ますます上機嫌になったシャルカが甘えた声で喃語(なんご)を発し始めると、父は興奮して拳を握る。


「おい聞いたか? 今『父さん』って言ったぞ!」

「聞き間違いよ、言ってない」

「いいや言った!」


 反論する母に対し、父はむきになってシャルカに手を伸べる。


「ほぉら、もう一度言ってごらん? 『父さん』だぞ『父さん』」

「シャルカ、『母さん』って言ってみて? 『母さん』よー」


 こうも小競り合いがあからさまになると、流石にシャルカも察したらしい。幼子は物を知らなくとも、その五感で様々なものを敏感に感じ取っている。

 セトが顔を上げると、当惑に揺れる紫紺の瞳と目が合った。するとシャルカは短い腕を精一杯セトへ伸ばす。


「ん、んにぃ……」


 手を差し出したものか戸惑っている間にも、シャルカは頼りない歩みで真っ直ぐに近づいてくる。

 それを見た父がすかさず言う。


「シャルカ、それは『兄さん』だぞ」

「『兄さん』って言いづらいかしらね? 『にぃに』よシャルカ」


 話しかけられ、振り返ったシャルカは、バランスを崩し尻餅をついた。


「あっ」


 セトはすかさず弓を放って抱き起こそうとしたものの、シャルカはその腕をとらず自力で立ち上がる。そして身を乗り出したままのセトへ一歩一歩近付くと、小さな小さな手のひらでセトの頬をぺちんと挟んだ。ようやく届いた兄の顔に、シャルカはこの上なくにっこりと――それはそれは幸せそうに、


「ん、にぃ……にぃに!」


そう言って微笑んだ。

 セトが年頃の妙な意固地さをかなぐり捨てた瞬間である。


「……っんだお前、可愛いなぁっ!」


 このとろける様な笑顔の前では、意地も見栄も用をなさない。思春期ならではの意固地ささえ呆気なく溶けていく。セトは柔らかく温かなその身体を、大事に大事に抱きすくめる。

 今までは人目がない時にこっそり可愛がるに留めていたが、最早どうでもよくなった。

 シャルカが生まれて初めて発した単語は、父でも母でもなく『にぃに』。

 やっぱりこの子は一生俺が守ってやらなきゃと、決意を新たにした瞬間でもあった。

 同時に、少なくとも家の中では無関心の仮面を捨て、兄馬鹿でいいやと開き直ったのだった。



 そんな幸福な夢に揺蕩(たゆと)うていると、家族の笑い声にぼんやりと弟の声が重なる。


「いってきます!」


 何だ。

 どこへ行く。

 置いて行くな。

 さっきはあんなに一生懸命近寄ってきてくれたのに。

 夢と現の線引きができないまま、それでも最愛の弟が離れていってしまうのが嫌で、セトは重い目蓋をこじ開ける。

 身を起こすと、表へ駆けていく軽やかな足音が聞こえた。


「母さん、シャルカは? 戻ってきたのか?」


 寝床からのっそり這い出すと、母はセトを見るなり呆れ顔で溜め息をついた。寝ぼけ眼の冴えない寝起き姿は、とても一隊を預かる隊長には見えない。もっとも母にしてみれば、どれだけ大きくなろうが偉くなろうが子は子なのだが。


「ちょっと凄い寝癖ねぇ、父さんに見せたいくらい」


 からかい混じりに指摘され、セトは仏頂面で頭を掻く。


「……シャルカは?」

「たった今戻ってきたわ。馬から落っこちかけたって、怯えて帰ってきたのよ」

「馬から?」


 セトは耳を疑った。毎日のように共に原へ出ているが、もう何年もシャルカが手綱捌きを誤ったことなどない。馬も大人しく経験豊かな古馬(こば)を宛がってある。

 練習中に何か不測の事態でもあったのだろうかと考え込んでいると、母が言葉を継いだ。


「でも水が少なくなってるから買いに行くって、広場へ行ったわ」

「水?」


 瞬間、寝ぼけ眼がしゃきりと開き、


「水なんて重いもの、俺に頼んでくれればいいのに」


慌てて身支度を始めだす。

 部屋の中を右往左往するセトは、まだ小さくて可愛らしい弟とは違い、とっくに母の背を追い越している。母は再び溜め息交じりに彼を見上げた。


「そのおっきな身体でうろうろされると、それだけで家が窮屈になった気がするわ。ちょっと落ち着きなさいな」

「シャルカを迎えに行ってくる」

「あのねぇ、ちょっと過保護過ぎやしない? セト、あなたももう良い歳なのよ? シャルカにばかり構ってないで、恋人のひとりも連れてきたらどうなの」


 その台詞で、セトは蒼鷺の羽根を懐に入れたままなのを思い出した。小言から逃げるフリで寝床に引き返し、どこに隠したものかと頭を捻る。しまうのではなく()()。家族に、こと母に見つからぬように。さもなくば、


「シャルカのことは何にも心配いらないのよ、父さんだって母さんだっているんだから。早く孫の顔を見せて頂戴な。まずその前にお嫁さんの顔なんだけれども。

 ビルマちゃんはどうなの? とっても素敵な子じゃないの、利発だし美人だし。ただそうなるとあなたが次の族長様になるのよねぇ、あなたがさつだから母さんちょっと心配だわ。

 そうそう、案外『蒼穹神(カーヴィル)の乙女』達にも人気あるみたいじゃない、セト。幸い父さんに似て顔はいいんだから、だらしないところがバレる前にさっと捕まえてしまいなさいな。父さんがあなたの歳の頃なんてねぇ……」


このいつ終わるとも知れぬ煩わしい小言が、高揚した質問の山に変わるのだ。

 その羽根を誰に渡すの、いい子なの、どんな子なの、いつから良いと思ってたの……想像するだに恐ろしい。セトはぶるり身震いした。

 けれどこの家の中に、母の目につかなさそうな場所などない。家の中は全て主婦である母の領分(テリトリー)。何よりセトは早くシャルカを追って行きたかった。ついでにこの小言からも逃れたい。

 彼は一先ず寝床の枕下に羽根を押し込めると、何とか母をかわして表へ出た。戸の向こうからはまだぶつぶつと不満気な声が漏れてくる。

 大きく息を吐いたセトは、直らぬ寝癖をわしゃわしゃと掻き乱し、大股で広場に向かった。




 もうじき夕暮れを迎える広場には、商人達の声が溢れ喧しいほどだった。彼らの声には、朝の気忙しさとは違う必死さに似たものが含まれている。日暮れまでに売りきらなければ、今夜は島で過ごすことになってしまうからだ。

 夜の原野は、慣れぬ者にはあまりにも危険な場所のため、日没以降彼らに渡ることはできない。広場の隅には宿もあるのだが、岩盤の大地に暮らす彼らにとって、泥の上で一夜を明かすのはなかなかに恐ろしいことらしかった。

 そんな商人達が並べる茣蓙ござの合間を、狩りから戻ってきた男達や、異郷の品々に興味津々の子供達が行き交って、広場は今日最後の一賑わいを見せていた。

 その人の流れの中に、果実を小脇に抱えたカルムの姿があった。母に頼まれたお遣いを終え、品々を見るともなしにそぞろ歩く。優等生を気取る彼はほとんど寄り道などしないが、今日ばかりは口笛でも吹かんばかりに上機嫌で、気ままに道草を食っていた。

 しばらくそうしていると、カルムは桟橋の方からヨキ達が駆けて来るのを見つけた。三人の顔は心なしか引きつり青ざめているように見える。カルムは人波を離れ彼らの方へ歩み寄った。


「やぁ、どうしたんだい三人とも?」


 そう尋ねる声は、気遣う素振りも忘れすっかり弾みきっている。

 ここのところ彼らがシャルカを原へ連れ出していたのを、カルムは把握していた。

 無論その狙いも。

 ヨキがカルムの心の内を読むように、カルムもまたヨキの企みなど手に取るように分かる。

 彼らの顔色が悪いのは、事を成し終え、わずかばかりの罪悪感に苛まれているのだろうと、そう思い込んでいたのだ。

 ヨキは縋るようにカルムの服を掴むと、


「……やっちまった」


噛みしめた奥歯をぎりりと鳴らし呻く。


「そう」


 対照的に、カルムは最上級の笑みで頷いた。整った顔満面に広がる冷酷な微笑に、後ろのふたりは慄いた。けれどヨキは力一杯頭を振る。


()っちまったんじゃねぇ、やっちまったんだ! 失敗した!」


 ようやく己の思い違いに気付いたカルムは、服を握る手をすげなく振り払い、狼狽するヨキを厳しく睨みつける。


「まさかこんなに馬鹿で情けないとは思わなかったよ」

「何だと!? オレが何する気だったか気付かねぇお前じゃねぇだろうが! ……なぁ頼むよ、お前族長様の甥じゃないか、上手いこと取り成してくれよ」


 詰め寄る幼馴染に、カルムは冷ややに告げる。


「一体何をだい? 僕は何も知らないし、聞いていない。当然指示したわけでもない。お前達が勝手にしたことだろう?」


 ヨキは信じられないものを見るように、カルムの顔を凝視した。

 ヨキにしてみれば、従えたふたりはともかく、自分がこうも易々と切り捨てられるとは思ってもみなかったのだ。

 カルムは食えないところがあるものの、自分達は上手いことやっているとヨキは信じていた。互いが互いの無二の親友であるとさえ。

 だからこそ彼はカルムの望みを叶えるため、族長の甥という立場にあり表立って動けぬ彼に代わって、こうして立ち回ったのだ。自らの手を汚す覚悟までして。

 今回のことばかりではない、昔からそうだった。ヨキは知っていた。誰よりもカルムこそがシャルカを疎んでいたことを。

 憧れるセトの隣を当たり前のように占めるシャルカを、常に羨み嫉妬していた。訳知り顔でさも同情しているような口ぶりで、少年達にシャルカの異質な生まれを広めたのもカルムだ。そうしてシャルカに対する敵愾心を煽り、疎外するよう誘導していたのだった。

 だから彼はそれに乗った。率先してシャルカを苛めていたのは、祖母の偏見に満ちた恨みつらみを聞き育ったことだけが理由ではなかったのである。

 そんな彼を、カルムはいとも容易く切り捨てたのだ。

 ヨキは激しい憎悪を燃やし、友だった少年を()めつけた。

 その時だ。

 広場から緊迫した声が上がった。


「そんな、どうしてですか? 困りますっ」


 少年達は一斉に振り返る。

 その声変わり前の甲高い声音は、紛れもなくシャルカのものだったからだ。

 見れば、広場の隅に小さな人だかりができている。

 とっくに家族か族長の所へ駆け込んだだろうと思っていたシャルカが、訳は知らないがともかくすぐそこにいる。

 カルムは人だかりに向け駆け出した。もうヨキ達には一瞥もくれない。

 三人は少しの間黙って視線を交わし合うと、カルムの後を追うことはせず、騒ぎを窺えそうな建物の陰へ足を向けた。



 広場にとって返したカルムは、半円形に群がる人々の後ろから中を覗き込んだ。

 人だかりの中心は、白い肌の商人の露店だった。茣蓙(ござ)に見るからに高価な絨毯を重ね敷き、横に広い身体を商品である水樽にもたせかけている。

 白い肌に黄土色の目をした彼らは『水源の民』と呼ばれる民族で、水源地一帯を牛耳り、他の民に水を売り暴利を貪る商売人だった。労せず稼ぐものだから、水源の民は大人も子供も皆大柄でよく肥えている。

 この中年の商人も例外ではなく、芋虫のような丸々とした指で樽を叩きながら、いやらしく目の前の客を値踏みしていた。相対しているのはシャルカだ。

 麦の袋を抱えたシャルカは、商人に言い募る。


「どうしてです? 一昨日は麦一袋と水一樽を交換していただけたのに!」

「一昨日は一昨日さ、相場というものは日々変動しておるんだよ」

「そんな……だって、ぼくの前に買われた方は……」

「さっきはさっきさ、相場というものは日と言わず刻一刻と変動しておるんだよ。ほれ、交換して欲しけりゃ二袋持って来るんだな」

「一樽で二袋?」


 法外な要求を吹っかけられたシャルカは、途方にくれ立ち尽くす。周りを見回せど、集まった島民達は揃って顔を背けてしまい、助け舟を望むべくもない。

 誰も割って入らないのは、相手が水を支配する絶対的優位な民だからというだけではない。絡まれているのが『色付き』シャルカだからだ。

 シャルカの孤立を見て取った商人は、分厚い唇をにぃっと歪める。


「さぁどうする? 躊躇している間にまた相場が変わるかもしれんぞ? とっとと取りに帰ったほうが賢明というものだ」

「そんな……お願いです、引き換えてください」

「おぉっと、もたもたしてる間に一樽三袋になった。あぁそれとも……」


 蛙に似た商人の顔に、にたりと醜怪な笑みが広がる。


「お前さんの身と引き換えるなら、五樽でも六樽でも好きなだけやろう。知っとるか? お前さん、他の民の間でもちょいと噂になっておってな、この島におかしな色した子供がいると。お前さんを連れて行けばいい見世物になる。物好きがいい値で買いとってくれるかもしれん」


 シャルカの顔に怯えの色が広がったその時、商人の上に影が落ちた。


「何だ?」


 視線を上げた商人はぎくりと身を強張らせた。カルムも商人の視線を追いあっと息を飲む。

 勇猛な戦士として名高い原野の男の中でも、一際逞しく上背のある青年が、西日を遮るようにして立っていた。腰には太身の大剣が下がっている。


「あに様!」




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