原野の民
泥、泥、その先も泥。
見渡す限り、褐色の泥濘が大地を覆いつくしている。
そこここに穂草や枯れ葦が群生しているものの、濃淡の差はあれどみな土色なため、一見すると酷く濁った海のようでもある。そんな泥の原が地平の果てまで続いていた。
遥か西方に山々の連なりが見てとれるが、岩肌剥き出しのそれはのっぺりとした鈍色の影と化している。
仰げば曇天。ここでは日中、絶えず厚い雲が垂れ込めていて、わずかな隙間から陽光が差すばかり。
おそろしく色彩に乏しい眺めだった。
一匹の大蛇が、枯れ葦の根元を這っている。大人の腕ほどもある太い胴をくねらせ、柔らかな泥の上を泳ぐように進んでいく。その身が蠢くたび、薄日を受けた細かな鱗が、銅じみた硬質な輝きを放った。
と、蛇は何者かの気配を察し鎌首をもたげる。
次の瞬間、その喉許を一本の矢が貫いた。
突然の襲撃に慌てて身を捩るが、貫通した矢の先は泥深くまで食い込んでいてびくともしない。逃げあぐねている間に第二、第三の矢が更に蛇を地に縫いとめる。やがて蛇は小刻みに痙攣し、果てた。
それと前後して、泥を蹴立てる派手な音が近付いてくる。音の主は実に奇妙な生き物達だった。
ヒレ状の四肢を持つ馬や牛と思しき一群。胴から上は陸上生物、下は海獣といった風の奇態な姿だが、このぬかるむ泥の原で生き抜くため適応してきた結果なのだろう。
その背にはそれぞれ弓を手にした少年が跨っている。十数人の少年達は十二かそこらの子供だったが、見事な手綱捌きで愛騎を蛇に寄せた。
一面土色の景色に対する鬱屈など誰一人感じていない様子で、溌剌とした笑顔で口々に叫ぶ。
「見ろよこの蛇、ヤーンの背丈くらいあるぞ!」
「大物だぁ!」
「射止めたのは誰だ?」
その言葉に、右頬に横一文字の傷をもつ少年が胸を張った。
「オレだな、確かに手応えがあった!」
「何言ってんだ、おれだよアダンっ」
「皆落ち着きなよ、ほら下がって!」
少年達を制したのは、凛と澄んだ少女の声だった。
紅一点の彼女の一声で、獲物を囲んでいた少年達は口を噤んで後退る。一番勢いづいていた、アダンと呼ばれた少年も例外ではない。
その反応に満足気に頷くと、少女は跨った白い牡牛を蛇の許へ向かわせる。彼女の牛の鞍には、彼らの島を統べる族長家の紋章が刻まれていた。
少女が蛇を覗きこむと、短く切り揃えた髪がはらりと頬を撫でる。この泥の原に住む『原野の民』らしい、暗紅色でハリのある髪に褐色の肌。勝気に切れあがった灰色の瞳は、この蒼然たる地に生きる者とは思えぬほど精気に溢れ煌めいている。
少女は蛇の喉に刺さった矢を認めると、目を細めて引き抜き高々と掲げた。
「見なよ、この黒の矢羽根を。射止めたのはセトだ!」
少年達はその矢を眩しそうに仰いでから、一斉にセトを振り返る。
「またセトかよ」
アダンは舌打ち交じりにぼやいた。
一際背が高く大人びたセトは、我先に獲物へ群がった仲間達の後ろで、ひとり静かに黙祷していた。
それはこの原野で狩りをする男達の礼儀である。本来ならば獲物に手を触れる前に、糧を与えたもうた母なる大地神と犠牲になった獲物とに、まずは感謝の祈りを捧げなければならない。族長の娘たるビルマもハッとなり、
「ほら、皆もお祈りを」
興奮し忘れてしまったことを恥じてか、赤い頬で仲間達を促した。
短い祈りが済むと、ビルマはセトを手招く。
「来なよセト、これはお前の獲物だ」
仲間達の羨望の視線を浴びながら、セトは首を横に振った。
「俺はいい。お前にやるよビルマ」
「どうして? 蛇肉はお前の好物じゃないか」
驚くビルマに、セトは黒鹿毛の愛馬につけた籠を目で示す。
「俺にはさっき仕留めた鳥があるし……それにお前、前から蛇皮のベルトが欲しいって言ってたろ」
視線を合わさぬままぶっきらぼうに放たれた言葉だが、初心な少女を赤面させるには充分だった。それを見た仲間達が囃したてる。
「見ろよぉビルマの顔」
「こりゃ次の族長はセトかぁ? ビルマを嫁にもらってさ!」
「ばーか。族長になるには婿入りすんだよ、この物知らずっ」
ますます赤くなったビルマは、握りしめていたセトの矢を振り回す。
「うるさい、そんなんじゃないっ。誰がこんな無愛想な朴念仁を婿にするもんか! ちょっと狩りがうまいってだけで、族長になれると思ったら大間違いなんだからな!」
「だってよ、セト」
意味ありげな目つきのアダンに話を振られ、セトは疲れたように肩を落とした。もう毎度お決まりと言っていいほど繰り返されてきたこのやりとりに、
「俺にだって嫁を選ぶ権利はある。それに俺は族長になんてなりたくない。族長になったら、こうやって好きに駆け回って狩りなんてできないだろ」
この返しもいつもの通り、お約束の答えだった。それもそうだと笑いあう少年達のただなかで、ビルマは小さく唇を噛む。けれどそれを誰かに気取られる前に、持ち前の気丈さで笑顔を作った。
「そうだ、こうしないか? 折角のセトの好意だ、皮はわたしが貰うとして……これだけの大物、わたしと父様だけじゃとても食べきれない。今夜は皆うちに来るといい、ご馳走するよ。それならセトにも恨まれないしね」
そう言って片目を瞑るビルマに、少年達は歓声をあげた。セトだけは仏頂面のまま彼女に近付き、
「俺は肉くらいで恨んだりしないぞ」
「ふふん、でも食べられるものなら食べたいだろう?」
「……皮はお前のだからな」
「そこは間違いなく。ありがとう」
小声での礼を受け取ると、横たわる蛇を無言で拾い上げ、彼女の荷籠に押し込んだ。セトが離れるとビルマはこっそりと荷籠をひと撫で。それに気付いたアダンは小さく鼻を鳴らす。
「さぁ、そろそろ日暮れだ。引きあげるよ!」
ビルマの号令で、少年達は揃って愛騎の首を巡らす。めいめいの馬や牛達は、湿って重い泥をものともせず、風を切って走り出した。
この泥の原野は、とても人の足では立つことができない。
一歩踏み出せばたちまち粘度の高い泥に足を取られ、自力で引き抜くことさえ容易でない。運良く浅い場所なら立ち往生するだけで済もうが、深みであればゆっくりと緩慢に泥の中へ沈むことになる。おまけに湿度や気温で泥の固さは変わるため、深さは常に変動してる。故に、どこに行くにも騎乗用の家畜が欠かせない。
では何故歩くことも叶わぬ泥の原野で、彼らが暮らしていけるのか。
答えは彼らの『島』にある。
ビルマの先導でしばらく駆けると、彼らの島が見えてきた。泥の原野に突如ぽっかりと姿を現す島――その地面は乾いた土や岩盤ではなく、きつく編まれ、幾重にも重ねられた葦だ。
立つことすらできない、文字通り一歩間違えば呑まれてしまう恐ろしい泥の原だが、多種多様な生き物が棲む絶好の狩場であり、麦や粟などの穀物が自生する沃野でもある。棲家と移動手段さえ確保できれば、人々にとってこの上なく魅力的な土地なのだ。
この地で生きるため、人の手で作り出した葦の浮島。
風に吹かれるまま、泥の海原をゆるり彷徨する巨大な筏。
それが『弓島』と呼ばれる彼らの故郷だった。
少年達は島の西側に突き出た桟橋へ回り込むと、そこで馬を降りた。脇に並ぶ各家の小屋へ愛騎を収め、水と飼葉を与え労ったあと、桟橋前の広場で再び顔を合わせる。
「それじゃあ一刻ほどしたらうちへ来てくれ。それまでに支度しておくから」
「あぁーっ!」
ビルマの言葉に再び歓声で応じようとした彼らを遮り、背後から甲高い子供の声が響いた。そろって振り向けば、頬を膨らせた男児がひとり、転がるように駆けてくる。
「げっ、ヤーン」
それを見たアダンはすかさずセトの後ろに身を隠した。けれどもう遅い。ヤーンと呼ばれた男児は真っ直ぐ駆けてきて、アダンの腕をむんずと掴む。
「ひどいよ兄ちゃん、またボクを置いてけぼりにして! 今度の狩りには連れてってくれるって言ったじゃない!」
「何だアダン、そんな約束してたのか?」
セトが肩越しに尋ねると、
「シッ。そう言わねぇとコイツうるせぇんだよ、一緒に馬に乗せろー連れてけーって」
「してたんだな」
アダンは悪びれずに舌を出す。セトは呆れ顔で親友の肩を掴むと、まだ頬を膨らませている弟の前へ突き出した。
「ごめんな、ヤーン。お前の兄ちゃん忘れっぽいよな。次の狩りには必ず連れてくってさ」
「おいセト、勝手にそんな!」
「守る気のない約束したお前が悪い」
抗議するアダンにぼそっと耳打ちすると、すかさず横からビルマが言う。
「ヤーン、今夜は皆でわたしの家に集まって食事をするんだ。良かったらお兄ちゃんと一緒においで」
「ホント? やったぁ!」
島一番の美少女と言って差し支えないビルマの誘いに、ヤーンは手鞠のようにそこらを跳ね回る。そんな弟を横目に、アダンは小さく悪態づく。
「ったく……セトもビルマも、ヤーンに甘ぇんだよ」
「可愛い弟じゃないか」
「わたしもセトもひとりっ子だからね、兄弟がいるお前が羨ましいのさ。さぁ、それじゃあ一旦解散だ。またあとで!」
少年達はやり込められたアダンにニヤつきながらも、今度こそあげ損なった歓声をあげそれぞれの家へ散っていく。アダンは恨めしそうにセトを睨んでいたものの、ヤーンに手を引かれ家路についた。
けれどセトだけは、彼らを見送るビルマのそばを最後まで離れようとしなかった。
「どうした?」
ビルマが尋ねると、セトは彼女が傍らに置いていた荷籠を抱え歩き出す。
「重いからな、俺が仕留めた大物は」
セトの足の向く先は、彼女の自宅でもある族長の家の方角だ。
少年らしいささやかな気遣いを見せながら、それでもさっさと先に行ってしまう背中に、ビルマは小さく息を吐く。
「……だから嫌いなんだ、お前」
呟きを聞き咎め、セトが振り返る。
「なにか言ったか?」
仲間達よりも一足先に声変わりした低い声。あどけなさと精悍さが混在する横顔は、少年から青年へと変わりつつある。
ビルマはもう一度ため息をついてから、小走りでその横に追いついた。
組んだ木枠に藁を葺き、なめしっぱなしの牛革で覆った三角錐の家々の間から、夕闇が滲みだしてきている。なめし革特有の艶やかな琥珀色の家々が、足許から影に浸されシルエットとなりゆく様を、セトは細めた目で眺めて歩く。
厚すぎる雲に阻まれ、柑子色の夕日もそれに染まる大地も臨めることはないが、わびしいと思ったことはない。セトは、否この世界に住む誰もが、灰色の雲の向こうで日々美しい黄昏が繰り返されていることなど知る由もないのだ。
夕時の広場は、夕餉の支度を始める女達や、狩りから戻った男達で賑わっていた。ふたりが肩を並べて歩けば、
「あらふたりとも、お帰りなさい」
「ただいま、カダクのおばさん」
「よぉ、今日はどこまで行って来たんだ?」
「南の原へ」
「何か獲れたかい?」
「嘴黄鳥と水蛇を一匹ずつ」
「大したもんだ、流石はアトの息子だな」
周りの人々が気さくに声をかけてくる。
ここ弓島には五百あまりの民が暮らしているが、他所からの民の流入がほぼない土地だ。数世代遡ればどこの家とでも親戚か姻戚関係にあり、島民全員が顔見知りでひとつの大家族のようなもの。
温かな声に応えながら歩き慣れた道を行く時、セトの鼓動は高らかに弾みつつも、胸の芯は穏やかな充足感で満たされる。ことこうして狩りを終えたあとの、獲物を追う興奮と、馬で駆ける爽快さの余韻に、それらが合わさった時の心地よさは例えようもない。
戸口から漏れる煮炊きの香り。おかえりと子を迎え出る母親の声。家は目と鼻の先なのについ駆け出したくなるような、それでいて家に入ってしまうのは勿体無いような、甘やかさと切なさが混在する時間。
島を囲む泥の原野は陰鬱だが、狩猟民族である原野の民は皆快活だ。セトはこの島での生活を心から好いていた。
知らず緩んでいた頬を、ビルマの指がつつく。
「何にやけてるんだ、やっぱり蛇肉が嬉しいか」
「違、」
否定しかけたものの、愛郷の念を口にするのは面映い年頃である。そういうことにしておけばいいかと、彼はむっつり黙り込んだ。
そうしてまた足を速めたセトの裾を、ビルマの指がそっと握りしめた。