第ニ章 『八龍』 第ニ話 「中古でない煙草」
益井と名乗る男は、ガサガサという物音を気にするでもなく、植え込みから出てきた。
上半身には白いランニングシャツ…公園に備えつけられている照明に照らされたランニングシャツは、やはり黄ばんで見える。
下半身には紺色の作業ズボンをはいている。
ベルトは巻いておらず、デップリと突き出た腹によってズボンが下がらずにいるらしく見える。
怪しい人物の登場に木林の本能が危険を察知したのか、木林が得意の鋭い中段蹴りを繰り出すモーションに入ったのをオレは見逃さず、くいっと木林の黒い袖を引いた。
木林は一歩後ずさりながらオレの顔を見ていた。
「いや、驚かせてしまって本当に申し訳ない!」
益井はそう言いながら両の掌をオレ達に見せる。
「オッサン何者な︎」
木林が敵を見る目で益井に怒鳴る。
「怪しい者ではありません!私はただの市井の心霊現象研究家です!」
これほど信用できない言い訳を聞いた事がない。
「何が怪しい者じゃないや!どない見ても、明らかに曲者やんけ!」
木林がまた怒鳴る。
曲者…
彼にはふさわしい身分であろう。
「何をそんなにお怒りなのか?私はただ、あなた方の魅力的な会話に混ぜて頂きたいと思う一心で…」
そういえばそんな事を口にしていた…
この益井という男、自分の事を心霊現象研究家と名乗ったな…
オレ達はここでよく怪談話で盛り上がったりしていた。
この間の北尾の絵画事件についてもここで語りあったりしていた。
もしかして、この男は以前からオレ達の会話を盗み聞きしていたのではあるまいか?
木林はまだ敵意むき出しの眼差しで益井を睨みつけている。
益井は額に汗を滲ませてまだ両の掌を見せたままだ。
オレは、このまま睨みあいを続けるのも不毛と思い、
「益井さん、でしたっけ?とりあえず、こっちに座りません?」
と立ち上がって席を空けた。
木林は
「おい、待てや武市!」
木林が声を荒げる。
しかし、オレはニヤニヤしながら木林に
『まあ、ええやん』
と視線を送った。
木林は
『嘘やろ?』
という顔でこちらを見たが、それは無視して益井をオレが座っていた場所に座らせた。
憮然とする木林は席に座らず、完全に益井に背を向けている。
益井は木林に警戒心を向けつつ、
「いや、かたじけない…あ、トマトジュースの方…」
トマトジュースの方?
益井は木林の方を向いている。
トマトジュースの方とは木林の事であろう。
確かに木林は普段からトマトジュースを愛飲し、ここでもトマトジュースを飲んでいる。
木林は自分がトマトジュースの方と呼ばれたのだと気づくと凄い早さで振り向き、
「誰がトマトジュースやねん!」とまた蹴りを繰り出そうとする。
オレはまた木林の黒い袖を引っ張り、
「木林、やめとこ」
と一言お願いした。
木林はまた益井から目を背けた。
木林をトマトジュースの方と呼ぶなら、
「益井さん、僕はコーヒーの方ですかね?」
と笑いながら尋ねた。
益井はそれにこう返してきた。
「ああ、誠に申し訳ない…実は、以前よりあなた方の魅力的な会話が拙宅まで聞こえてきておりまして…」
拙宅?
という事はこの近くに自宅があるのか?
ここは市が運営する公園、つまり公共の土地であって、決して宅地ではない…
オレは益井の身分がただの曲者ではなく、違う何者かである事を理解した。
益井は続ける。
「心霊現象研究家である小生にとって、あなた方の会話は実に、実に魅力的なのです。小生は時折聞こえてくるあなた方の会話に混ざりたい、混ぜてもらいたいと悶々としておりました…で、会話の中からあなた方のお名前は存じてはいたものの、親しみと尊敬の念をこめて冨田さん、あなたをコーヒーの方、木林さんをトマトジュースの方と呼ばせて頂いておりました…無礼は承知…何卒お許し願いたい…」
益井は深々と頭をさげる。
見た所、四十くらいの中年である。
その中年がまだ成人式を迎えていない我々に深々と頭を下げているのである。
身なりは悪く、喋り方に強い癖がある…
また、宅地でない土地に家を建てる事はよくない事だが、精神的には高潔な人物であろう、とオレは感じた。
そして、何故かはわからないが、この益井という人物を愛らしく感じる自分がいた。
「あ、益井さん、煙草吸います?」
オレは自分の煙草を益井に差し出した。
銘柄は『LOWLIGHT』だ。
「あ、これは…実は小生、若き頃より愛煙家でありましてな…よろしいのですか?」
益井が目を輝かせて前のめりに確認してくる。
「遠慮せんとやって下さい。」
そういって一本抜きとって益井に手渡した。
少し高揚した表情で煙草を受け取ると、口へ運ぶ益井。
横では木林が信じられぬという表情でその様を見ている。
それに構わず、オレは益井が咥えている煙草に火をつけるべくライターを点火した。
「至れり尽くせり、申し訳ない!」
益井はクイっと首を出すとライターの日に煙草の先をつけると、一息、ゆっくり大きく、吸い込んだ。
目を閉じ、深く、おそらく久しぶりであろう煙の味を満喫する益井…
その姿が何故か絵になった…
益井は口から一筋の煙柱を立てた後、
「う〜む至福…中古でない煙草を味わったのは何年ぶりの事か…」
と独り言のように呟いた。
『中古でない煙草』…?
それが未開封の煙草を指すのではない事はわかる。
それはおそらく、他人の吸いかけでない煙草を指しているのであろう…
彼は、何者からも守られる事のない、ハングリー極まりない野生に近い生活をしているのであろうと、オレは確信した。
木林は一言も声を発しない。
しかし、手で口を押さえ、その肩は揺れている。
『中古でない煙草』…
そのワードが、木林の笑気を刺激したのだろう。
オレは益井の横に腰をかけた。
「益井さん、中古でない煙草を楽しみながらでいいんですが…益井さん、心霊現象研究家っておっしゃってましたよね?どんな研究をされてるんですか?」
オレは益井に尋ねた。
すると益井は目つきを変え、姿勢を正すと、
「聞いて頂けますか?」
と尋ね返してきた。
「もちろん…聞かせてもらいたいのはこっちの方ですよ…」
オレは笑顔で答えた。
益井は一つ頷くと語り始めた…
「実は小生、若かりし頃は高校の教員の職にありまして…」
意外と言えば意外だが、喋り方から、何か納得させられた。
「小生は社会科教師で、担任も持っておりました…あ、お二人は高校はどちらを御卒業で?」
益井の問いに、オレは即答した。
「二人共、耳塚南ですが…」
すると益井は目を丸くして答えた。
「何という運命の悪戯!小生、その耳塚南に勤務しておりました!」
偶然とは恐ろしいものだ。
こんな事があるものか?
木林も目を丸くしている。
「いやあ、我々はここでこうして出会う運命にあったのでしょうか?はははっ!」
益井は上機嫌でまた煙草をふかす。
「しかし小生が勤務しておりましたのは、もう十年も前の事…あなた方には無関係な人間になりますな…まあ、それはさて置き、ある日、小生は生徒達数名から誘いを受けました…一緒に心霊スポットに行ってみないか?と…」
今、益井は心霊現象の研究を始めた理由から話してくれている…
こちらはそこまで遡って話してくれとは言っていないのだが…
しかし、生徒から誘いがあったということは、それなりに人気のある先生だったたのだろう。
「しかし、当時の私は心霊現象など信じておらず、ただ単に危険であると判断しました。ゆえに、教師として生徒を危険な場所へ連れていくわけにはいかない…当然、小生はやめるよう指導しました。しかし、生徒達はしつこく誘ってきました…当時は小生も若かった…それが嬉しく、ついに承諾してしまいました…それから数日後の夜、小生は生徒六名と共にある廃屋に忍び込みました…そこは『八龍』という看板が上がった元は旅館らしき廃屋でした…』
八龍…
明日の夜、オレ達が乗り込もうとしている心霊スポットだ…
木林もそのワードに反応している。
「先ほどあなた方の会話の中にその八龍という言葉が出た瞬間、小生は半ば本能的にあなた方の前に出てしまいました…木林殿、いきなりの無礼、平にご容赦願いたい…」
益井はまた、深々と頭を下げた。
木林はさすがに許さざるを得ないといった表情で、
「べ、別に、もういいっすよ…」
と、声はまだ憮然としているが、謝罪は受け入れたようだ。
「かたじけない…して、小生はその八龍での体験により、心霊現象の研究に人生を捧げる事となったのです…」
益井は、表情は緊張の色を強めた。
「八龍は極めて危険な場所です…小生はあの場所で、大事な教え子を一人、失ってしまった…」
益井は目を閉じて、うなだれた。
失ってしまった…
それはそこで、命を落としたというう事か?
「益井さん…いや、益井先生、それはどういう事ですか?」
オレは話の続きを待てずに、益井に尋ねた。
益井は顔を上げると力のない笑顔で話を続けた。
「厳密には、彼女が亡くなったのかどうかもわからない…消えてしまったのです…私の目の前で…」
彼女という事は女子生徒だったのだろう…
しかし、消えたとはどういう事なのか?
「小生を始め、他の生徒もあそこで何も見ていない…しかし、彼女が消えた瞬間を、そこにいた人間全てが目撃したのです…我々が地下室に足を踏み入れ、探索していた時です…各自、手に持ったライトで辺りを照らしていました…その最中に彼女が『あっ…』と声を上げました…我々は一斉に彼女にライトを向けました。
ライトは一瞬、彼女の姿を照らし出しました…しかし、その瞬間に彼女は何かに引っ張られるように闇の中に消えたのです…!』
益井の目には、それを作り話ではないと確信させる、何らかの強い意志がこもっていた。
「我々は何が起こったのかもわからず、しばらくその場に固まってしまいました…しかし、正気を取り戻した後、必死で彼女の姿を探した…しかし、手がかりすら見つからない…朝になり、多少は明るくなったものの、彼女の姿は見つからない…小生、覚悟を決めて警察に届け出ました…しかし、警察の捜索もむなしく、彼女は現在も行方不明のままなのです…小生は当然、罪に問われましたが、生徒達の証言もあり、罪はごく軽いものになりました…しかし、小生は全てを失った…大事な教え子を許さざるを知れずにしてしまった、当然の報いです…いや、小生はその罪を全く償えていない!」
益井は、今も教師としての魂を失っていないのだ、とオレは感じた…
「故に小生、決意しました…必ず彼女を取り戻すと!その為には彼女に何が起こったのか、知らねばならない…そうして行き着いたのが、心霊現象に対する研究でした…しかし、それに没頭するあまりに今のような生活に…彼女に対しても申し訳ない事です…」
益井はそう言って、摺り切れそうな膝を叩いた。
益井の胸中には、オレが想像もつかない壮絶な罪悪感で満たされているのだろう…
「小生は、様々な書物を読み漁り、多くの人物から話を聞かせて頂き、彼女に起こった事についての手がかりとなる心霊現象についての記述がある、ある書物に辿り着きました…それは、甲塚誓ノ介という人物が書いた『ある失踪事件の真相について』という論文的な小冊子でした…」
甲塚誓ノ介…
一度しか会った事はないが、オレが在籍する形民…形而上民族学の教授の名である。
甲塚教授はオカルト界では知らぬ者のない権威中の権威である。
「うちの教授ですね、その人…」
ボソっと呟いたオレの言葉に益井が凄い勢いで食いついた!
「何と︎あなたは泉大の形而上民俗学部に御在籍で?」
オレは益井の勢いに気圧されながら答えた。
「は、はい…でも、入学直後に一回会っただけで…」
それを聞いた益井は落胆の色を見せて
「一度お会いして教えを乞いたいと思っていたのですが、やはり御多忙のお方、難しそうですな…」
と下を向いた…
「その書には、こんな記述がありました…今から何十年も前の事…場所は記述されていませんでしたが、小生の体験と瓜二つの事件があったようなのです…甲塚師は、それについてこのように記述なさっておられた…霊体は本来、同次元にある霊体にのみその影響を及ぼせるものである。しかし、時にその念の強さ故か、次元を飛び越えて肉体に影響を及ぼせる事もあるようだ。金縛りや虫の知らせといったものはその代表的な例であろう…其れ等は、甚だしい場合には生きた者を生きたまま死したる彼らの住まう次元へと引き込む事も可能のようである、今回の事件の真相を私はそう結論づけた。しかし、その原理は未だ不明であり、現在の私の研究対象である…と。その書物が書かれたのが今から五年ほど前…甲塚師は、その原理について何らかの結論を出されたのか…御存知ではありませんか?」
オレは益井の迫力の気圧され、ただ首を横に振るしかできなかった…
益井はまた落胆の色を見せる。
「それはそうでしょうな…いかに甲塚師とて、簡単に結論にたどり着くような簡単な問題ではない…」
しばらくの沈黙のあと、木林が口を開いた。
「しゃあないな…」
オレと益井は目を丸くして木林を見た。
「オレ等、明日八龍に行く事になってるから、一緒に来たらいいっすやん…こいつ叔母さんがあの甲田福子先生で、めっちゃ霊感強いから、何かわかるかも知れんし…」
木林…こいつが女性にモテるのがわかる。
困っている人は、放っておけない質なのだ…
益井は顔を紅潮させ、
「よ、よろしいので?」
と尋ねる。
木林は溜息をつきながら、
「アカンかったらこっちから言わんでしょ?明日の八時頃迎えに来るから…ここで待ち合わせでいいですね?」
と言ってあちらを向いた。
「感謝いたします、木林殿!」
と、益井は歓喜の声をあげ、
「実は小生、あれから何度か八龍に足を踏み入れたのですが、根っからの鈍感なのか何を感じる事もありませんでした…しかし、あなた方の会話から冨田殿が霊感の鋭い方である事は存じておりました!しかも叔母御があの甲田福子師とは!誠に申し訳ありませんが、木林殿、あなたのご好意に小生、甘えさせて頂きます!」
紅潮する中年の横顔を見ながら、このオッサン、実は計画的な確信犯ではないのか?と、オレは思った…
第三話に続く