第一章 『絵画』 第三話 「AYA」
足が言う事を聞かない…
これほどのダメージは初めてだ…
改めて『霊障』というものの恐ろしさを確認する…
あの絵からは、作者の凄まじい念…
この世の全てを憎み、全ての人間を
『殺してやる』
という『怒り』の念を感じた…
「おい武市!」
後ろから木林が北尾を引っ張って追いかけてきてくれた。
「ちょっ、そんなにヤバかったんか、あの絵?」
歩きながら木林が訊ねてくる。
「…あの絵は、それ自体呪いみたいなもんや…とにかく、場所変えよ…」
オレは情けなく、喘ぐように答えた。
エレベーターにはまだあの少年がたっているかも知れない…
しかし…オレはエレベーターに辿り着き、ボタンを連打した。
「あ~ん武市、お前ヘロヘロやないか…」
リビングであの絵を見た時の木林の顔はオレが知る木林の顔ではなかった。
しかし、今の木林はいつもの木林だ…
エレベーターが到着した。
ドアが開く。
しかし、少年はいない。
オレはエレベーターに倒れるように乗り込んだ。
続いて木林が北尾を引っ張って続く。
一階のボタンを押し、ドアが閉まる。
ドアが閉まるとそのガラス窓の向こうに少年の顔があった…
オレは目を背けた。
…
…
…
エレベーターが一階に到着した。
ドアが開くと同時にオレは走った。
もう、限界だった。
マンションの外に出て、マンション前の歩道の植え込みに嘔吐した。
後から木林が駆けてきて、オレの背中を擦ってくれる。
周りの明かりに照らされた嘔吐物には、赤い色が交じっていた。
オレは脱力感から、大の字になって歩道に寝転がった。
北尾がようやく口を開いた。
「た、武市?一体どうしたんだ?」
北尾は目を丸くして狼狽している。
今の北尾はいつもの北尾だ…
「だ、大丈夫や…」
まだ体がだるくて仕方無いが、オレは体を起こした。
木林の姿がないと思ったら、近くの自販機の前にいる。
木林は自販機で購入したペットボトルをつかんで走って戻ってくる。
「武市!とりあえず飲む~!」
とスポーツドリンクのペットボトルをオレにくれた。
キャップをはずし、口の中に注ぎ込む。
スポーツドリンクが不快感を洗い流す。
ようやくひと心地着いたオレは、北尾に尋ねた。
「北尾…あの絵…どうしたんや?」
北尾は少し考えて
「あの絵?」
と聞き返してきた。
北尾の言動はおかしかった。
しかし、今の北尾はまともだ。
たぶん、北尾は無自覚であるが、あの絵の影響により、精神や記憶が錯乱していたのではなかろうか…
しかし、大事な事だ。
流す事はできない。
「あのリビングに飾ってる絵の事や…」
オレはもう一度尋ねた。
北尾はようやくハッとして答える。
「うむ…あの絵か…あの絵…ん?」
北尾が固まった。
「あ~ん北尾!フリーズしてる場合に非ず!」
木林が催促するが、北尾は困り顔だ。
「う~む…」
やはり北尾は記憶が錯乱しているようだ…
今はとりあえず北尾をあの絵から遠ざける必要がある。
そして、あの絵を処分しなければならない。
出所は二の次だ。
「北尾…お前はとりあえずマンションには帰るな。今日はとりあえず実家に帰れ。」
オレの言葉を聞いて、北尾はいちど頷き、
「あ、ああ、お前がそうしろというなら、そうした方がいいんだろうな…わかった。そうする。」
と、答えた。
北尾の声にはハッキリとした意志が感じられた。
大丈夫だろう。
しかし問題はあの絵である…
極力世話になりたくはないが仕方無い。
オレは携帯を取り出し、電話帳である名前を呼び出した。
『甲田福子』
テレビ出演も多く、高名な霊能者であるオレの叔母だ。
「武市?いずこに電話かけるんよ?」
との木林の問いに、
「叔母ちゃん」
とだけ答えて通話ボタンを押した。
叔母のファンである木林は腹を抱えて笑っている。
事情を知らない北尾は木林になぜ笑っているのか尋ねている。
数回のコールの後、伯母が出た。
「もしもし?」
あまり機嫌がよさそうではない。
「あ、伯母ちゃん?武市やけど…」
と名乗るオレを遮るようにして、
「アンタどこにおるん?」
と尋ねてくる伯母。
「えっ?友達のマンションの前やけど…?」
オレが答えると、
「こん馬鹿が!私の言う事聞かんと、また馬鹿な事に足突っ込んでからに!」
と叱責された。
「アンタの周り、よくないもんがウヨウヨしとうばい!早よそこから離れり!」
と矢継ぎ早に叱責を受ける。
それはわかっている。
「そんなんわかってるよ!とりあえず話聞いてや伯母ちゃん!」
と、とりあえず叱責を終わらせる。
「こん馬鹿が偉そうに…で、何ね?一体どんな状況ね?」
オレは伯母に、今日の出来事を報告し、絵の処分方法を相談した。
伯母はしばらく思案した後、
「わかった。ばってん、私は仕事あるからそっちに行かれんけん…ちょうどそっちに私の優秀な弟子がおる…明日その子に行かせるけん、その子にその絵を預けなさい。私が処分しとくけん…」
と、指示してくれた。
「ごめんな、叔母ちゃん迷惑かけて…」
オレは素直に御礼を述べたが
「これは貸しやけん…しっかり帳面につけとくけんね?明日、その子からアンタに連絡させるけん、すぐそこを離れて家に帰ったら塩で清めてから寝なさい。ええね?わかったね?切るからね?」
と返され、電話を切られた。
木林はまだ笑っている。
北尾は
「悪いなあ武市…オレのせいでお前には大変な迷惑をかけたようだ…」
と頭を下げてくる。
オレは気にするなと言ってから、叔母からの指示を説明した。
二人共真摯に聞いていたが、話終わった後、木林が信じられない事を言う。
「ほな解散やな?ほなオレはヒカルさんとこに行くわ!」
絶句した。
「約束は破れんし、欲望は満たす為にあるからなあ…」
木林はじゃあと敬礼すると颯爽とマンションに消えていく…
オレはただだだ、木林の豪胆さと欲望への素直さに心の中で最敬礼をして見送った…
翌日…
オレは朝早く目が覚めた。
まだ倦怠感はあるが、叔母の指示通り塩で清めたのが効いたのか…
塩は最近叔母が大量に送ってくれたので、何か特別な物なのだろう…
で、昨日の晩の事…
家に帰ると両親はすでに寝ていた。
『塩で清める』というのは以下のような事だ。
まず風呂を沸かす。
風呂が沸いたら、その塩を手で適当にすくい、風呂に投げ込む。
叔母が
『アンタやったら勝手に適量になるけん、思っただけ放り込み』
と言っていたので、それでよい。
よくかき混ぜて、その風呂に浸かる。
浸かっていると、ポカポカして、寝てしまっていた。
眠ったまま、一時間以上は浸かっていた。
目が覚めるとお湯が濁り、うっすら赤黒く変色していた…
オレは湯船から出て、すぐにお湯を抜いた。
入念に体を洗い、湯船もシャワーで流しておいた。
そして自室に向かう…
よく考えたら布団を干したまま忘れていたのだが、母親が取り込んでくれたのだろう、部屋には布団が敷かれていた。
その布団に倒れ込む。
あのグッショリ湿っていた布団が嘘のようにフカフカで、優しい日向の匂いがする。
オレは安心感の中眠りについた。
一人で朝食を食べた後、居間で扇風機の風を受けながら寝転がっていると携帯が鳴った。
見ると、知らない番号からだ。
叔母の言っていた弟子の人であろうと電話に出る。
「もしもし…」
すると、若い女性の声がする。
「あ、冨田武市さんの携帯電話でしょうか?」
上品そうな、キレイな声だ。
「あ、そ、そうです。間違いないです。」
その声から相当な美人を連想して、緊張してしまう。
「よかった。ふふふ…あ、私、福子先生の弟子でAYAと申します。
先生から話は聞きました。
早速なんだけど、お昼の二時頃にそちらに到着予定になります。
申し訳ないんだけど、最寄り駅まで迎えに来てもらってもいいかな?」
優しそうな人だ。
しかも、結構フレンドリーな感じがする。
叔母の弟子だというから強力なキャラを想像していたが、違う意味で『強力』そうだ。
「あ、も、もも、もちろんお迎えに伺います。あ、何か目印持っときましょか?」
オレは少々舞い上がっているようだ。
「うふふ、大丈夫。たぶん何となくわかるから…それに、携帯もあるしね?」
AYAさんは、キレイな声でクスクスと笑う。
AYAさんの声からはやはり相当な『力』を感じた。
叔母が『剛』ならAYAさんからは『柔』を感じる…
オレが感じたそれを『何となくわかるから』というセリフがそれを確信させた。
「は、はははっ!」
オレは照れを笑いで誤魔化した。
AYAさんは
「はい。では、お願いします。では、また後でね…うふふ。」
と、電話を切った。
オレの鼻の穴は膨らんでいた…
オレは北尾と木林に連絡した。
北尾は
「本当にすまないなあ…いや、申し訳ない」
と恐縮しきりてあったが、木林はと言うと…
「昨日よ~ヒカルさんとこ行ったら、遅いってめっちゃ怒っててよ~!なだめるの大変やったけど、その分燃えたわ~!」
と聞いてもいないのに元気一杯で昨晩のアバンチュールを報告してくれた。
AYAさんとのやり取りを説明すると、
「あ、あ~ん!美人霊能者とは、これほど燃えるシチュエーションあるか~よ!そんなもん、行かずにおれるか~よ!」
と鼻息を荒くする木林だった。
かくして、昼の二時を迎えた。
木林は一時間前に親父さんの国産高級車に乗って颯爽とあらわれた。
「美人を北尾宅まで歩かせるわけにいくか~よ!」
木林の言葉はもっともである。
それをすぐ行動に移すのがオレと木林の差であろう…
オレ達は早めに駅に移動してAYAさんの到着を待った。
二時になった。
駅に電車が到着する。
降車して駅から出てくる明らかに地元民であるである客の中で、光輝く美しい女神が異彩を放っている。
明らかに、AYAさんだ。
「武市、彼女に間違いあるまい?」
木林がAYAさんから視線をはずさずに尋ねてきた。
「うむ…」
オレがそう答えると、木林は常備しているサングラスを外して颯爽と歩き出す。
するとAYAさんはこちらに気づいたようで、少し大きめのカバンを持って小走りに駆け寄ってくる。
声をかけようとする木林だったが、完全にスルーされ、振り返る姿に、オレは唇から笑気が漏れた。
オレの眼前に女神が立つ。
「武市君だよね?」
ニコっと笑う女神。
真夏の熱さの中でサラリとなびく落ちついたブラウンのセミロング…
色白の小さな輪郭の中に配置された、黒目がちな切れ長の目に、小さいが肉厚の唇…
ブルーの半袖ブラウスからは細く白い腕が伸び、
タイトな白いスカートから下には同じく白く長い脛が伸び、足元はエナメル質のブルーのハイヒールだ。
年の頃二十代後半の、紛れもない美人である。
見とれて言葉の出ないオレに
「AYAです」
と、再び笑いかけてくれた。
控えめな香水のいい香りが鼻をくすぐる。
「あ、あ、す、すみません、あの、冨田武市です。」
オレはようやく名乗れた。
木林が駆けて戻ってくる。
「あ、AYAさんですよね?僕、武市君の親友の木林と言います。」
木林が自分を『僕』と言ったのは何年ぶりの事だろう。
すると、AYAさんは笑いだして、
「あ、さっき擦れ違ったよね?あははっ!ごめんね~!」
木林も同じ事を思ったはずだ。
『か、かわいい』
オレ達三人は車に乗り込む。
木林め、珍しくミスりやがった。
運転手は無論、木林。
ミスにきづいた木林は小声で
「武市!助手席乗る~!もしくは運転する~!」
と言ってきたが、そんな戯言は無視無視無視の完全無視である。
オレはAYAさんと後部座席に乗り込んだ。
後部座席はいい香りのする天国であった。
ルームミラー越しにオレを睨む木林の視線などまた無視。
そんなものより、細い割りには膨らんだAYAさんの胸元にオレの興味は集中していた。
こんな美人と肩を並べた事などない。
もはや、夢見心地である。
「武市君?」
突然のAYAさんの声にオレは焦って、
「は、はい?」
と頭の天辺から発声してしまった。
木林の肩が揺れている。
「その、北尾君の絵なんだけど…私、心当たりがあるかも知れないの…」
AYAさんの言葉がオレを夢見心地から現実に引き戻した…
「心当たり…?」
オレは尋ね返した。
木林も黙って聞き耳を立てているようだ。
AYAさんは眉を潜めて語り出す。
「私がまだ高校生の時なんだけど…あ、私元々東京出身なの…それでね、それは東京の地元であった事なんだけど…私が通っていた高校の友達から相談があって…私、高校の頃から霊能者やってて…」
高校生でありながら霊能者?
漫画みたいな話だが、AYAさんなら、何故か納得できる…
「私の実家がそういう家なの…でね?その子の友達のお父さんが絵画好きな人で、どこからか絵を買ってきたらしいの…でも、その絵が家に来てから、まずお父さんの様子がおかしくなって…どうおかしいって言うと、まず自分の部屋に飾ってある絵の前から動かなくなって、仕事も休むようになった…お母さんと病院に連れて行ったら鬱病じゃないかと言われて…でも、ある日ね…無気力になっていたお父さんがキッチンで楽しそうに料理しているのをお母さんが見たらしいの…フライパンで、何か肉を焼いていたらしいのね…でもね…流しに何か毛がついた肉片があったらしいの…お母さんが『何をやいてるの?』とお母さんが聞いたら、こう答えたらしいの…『ああ、猫だけど?』って…その猫、近所の飼い猫だったらしいのね?その後、お母さんもおかしくなってしまって…その子は絶対に絵のせいだと思って、私の友達を通じて相談してきたの…
でね、私はその子の家に様子を見に行ったのね…すると、その子の家には全裸の霊が数体浮遊していたわ…」
全裸の霊…
同じだ。
木林も反応している。
「私を寄せつけまいとする凄いプレッシャーも感じる…正直、入るのは怖かったけど…私は中に踏み込んで友達とその子でお父さんの部屋に入ったの…その時、お父さんとお母さんは私の助手の人が押さえてくれていたの、暴れるから…」
北尾も放っておいたらそうなっていたのだろうか…そう考えるとゾッとする…
「私は絵を見た…武市君?君は北尾君の絵を見た時、曼陀羅みたいだって感じたんだよね?」
オレは、一つ頷いて
「は、はい…」
と答えた。
オレの目をじっとみつめるAYAさん…
その目に吸い込まれそうな感じがした。
「私も、そう感じた…正直、足が震えたわ…結局、その絵は私が預かって処分する事になった…私は師匠である祖母に相談した。祖母もその絵を見て絶句したわ…それで祖母は福子先生に相談した…その二日後に福子先生が家にきて、三人で儀式を行って、その絵を、焼いて処分したの…」
焼いた?
焼いたなら、今その絵が存在するわけがない…
木林の視線はルームミラーに釘付けだ。
「木林、すまん、前見てくれ…」
オレの言葉に木林はフッと息を吐いて運転に集中する。
「焼いたんだから、今、その絵が存在するわけがない…でも…確認しないといけない…北尾君の絵が、私の見た絵と同じものなのか…」
喉がカラカラになってきた。
オレはゴクリと唾を飲んだ。
北尾宅は、もう目と鼻の先だった…
第四話に続く