第一章 『絵画』 第二話 「曼陀羅」
大学を、やめる?
入って半年を待たずして大学をやめるだと?
オレの腹の中でマグマが煮えたぎる。
「あ~ん北尾!ふざけた事抜かしてんよ~!一発ブン殴らなおさまりつくか~よ!」
木林がオレの怒りを代弁してくれた。
オレも木林もわかってはいる。
北尾は、情緒不安定だ。
それは、確実に『霊障』である。
しかし、北尾の『大学をやめる』という言葉がどうしても許せなかった。
一発と言わず、二発三発ブン殴ってやりたい気分である。
しかし、北尾をブン殴る為には北尾の所まで辿り着かねばならぬ。
すかさず携帯を鳴らすが、ガン無視である。
一体どうすればよいのか?
しばし二人で思案したあと、木林が呟く。
「しゃあないな…」
木林は北尾宅ではない別の部屋番号を入力してインターホンを押した。
すると、
「は~い」
と若い女性の声がした。
木林は
「あ、ヒカルさん!木林やけど!」
と気安い感じで名乗る。
「木林…あ、ヒデ君?」
ヒデ…?
ああ、そういう事かと合点がいった。
「そうそう、ヒデやな、ヒデて言わなわからんよね。はははっ!」
週三日ほど、夜の盛り場で女性向けのバーでバイトしている木林。
そこでは木林の名は『ヒデ』に変わる。
このヒカルさんという女性は、そこのお客さんか何かだろう。
「どうしたん?もしかして私に会いにきてくれたん?」
ヒカルさんとやらは嬉しそうな声を出している。
しかし、我々はヒカルさんとやらに会いに来たわけではなく、北尾をブン殴…北尾に会いに来たのだ。
「うん…何かヒカルさんの顔見たなってな…気ついたらここに来てた…」
どう切り返すのかと木林を見ていたが、こいつはとんでもない優男だ!
いや、プロだ!
まだ学生であるにも関わらず…いや、学生故にその初々しさを武器に年上のお姉さんの心を巧みに掴んでいる!
「…開けるわ」
ヒカルさんは女の声で答える。
「うん…お願いします」
木林の言葉の後、インターホンが切れてロックは解除され、自動ドアが開いた。
「あ~ん!道開けてんよ~!」
木林が笑う。
しかし、我々の目的地は北尾宅であってヒカルさん宅ではない。
ヒカルさん宅の方が魅力的ではあるが…
一体どうするのかと木林に尋ねると、
「武市君、オレがそんな事も考えずに行動すると思うのかね?」
というと、すかさず携帯を取りだして何処かへ電話する。
数秒後、相手が出たようだ。
「あ、ヒカルさん?ごめん!ここに友達住んでるんやけど、今電話あってな…何かめっちゃ悩んでるみたいやねん…うん…ちょっとそいつのとこに寄っていくから…うん…当然やん…うん…ほな、ごめんな…うん…ほな、ちょっと遅くなるけど、必ず行くから…うん…うん…じゃあ切るね?うん…ほな、後で…」
何故かは全くわからないが、その話を聞いていると照れてきた。
鼻の穴が膨らみ、ニヤけてしまう。
少しの罪悪感もある。
しかし、木林は平然と
「ほな行くぞ武市!」
とエレベーターに向かう。
木林との間には、圧倒的な差がある、とオレには感じた。
エレベーターは上の階で止まっていた。
木林は早く北尾をブン殴りたいのだろう、エレベーターのボタンを連打している。
エレベーターが下りてきて、ドアが開く。
そこには、歳の頃五、六歳の全裸の男の子が立っていた。
オレはエレベーターに乗り込もうとする木林を引っ張る。
「な、何なよ武市?」
ていう木林にこう答えた。
「いてんよ~…全裸の少年いてんよ~…」
木林は目に見えない先客在りとわかってくれて、
「ヤバイ?」
と尋ねてきた。
オレは一つ頷いた。
すると木林、
「あ、あ~ん…階段使わなしゃあないな…」
とエレベーターから離れる。
あの少年、ヤババイ。
目と口が暗闇のように真っ黒なのである。
そういう霊は、危険度が高い。
まるで砂を詰めたバスケットボールを腹に落とされたような内臓にズシリとくるプレッシャーが半端ではなかった。
オレは胃のあたりをさすりながら階段へ向かう。
北尾宅は五階。
ちなみにヒカルさん宅は最上階であるらしい。
階段を登りだしたオレ達だが、脚が重い。
登るに従って少しずつ重力が増しているような感じがする…
木林も少しそれを感じているようだ…
無言で階段を登るオレ達…しかし、ようやく四階と五階の間に辿り着いた時…
ゾォン!
と、極めて強力な悪寒がオレの前進を貫いた。
脚が止まる。
オレより前を行っていた木林がそれに気づいて振り返る。
「武市?」
と呼び掛ける木林の背後にオレは見た。
黒く長い髪…
ガリガリに痩せた体に、無数の傷やミミズ腫れを浮かばせた全裸の女性が、膝を抱えて丸まった形で空中に浮かんでいる…
いや、液体の中を漂っているようにも見える…
それは、子宮の中の胎児を連想させた。
激しい頭痛がして、鼻の奥が鉄臭いと思ったら、ツーと血が垂れてきた。
「武市、鼻血!」
木林がポケットにいれていたティッシュをオレに差し出すが、オレは手も出せないプレッシャーを、目の前に浮かぶ女から受けていた。
これはヤババイ…
いや、ヤバババイ…
霊感の鈍い人間でも、こんな所に住んでいたら健康に深刻な悪影響が出る事必至である。
木林はティッシュを数枚引き出し、オレの鼻を押さえて血を拭くと、ティッシュをちぎってオレの鼻にねじ込む。
「何か、見えてんか?」
木林が尋ねてきた。
オレは一つ頷いて
「こら、何とかせんと、このマンション自体がヤバイ…」
女は膝を抱えながら、こちら横目でじっとを見ている…
内臓が熱い…
北尾が見たのは、おそらくこいつだ…
オレがそう思った時…
『おいで…』
という女の声が脳内に響いた。
木林もはっとして振り返った。
木林にもそういう素養がある。
今の声が聞こえたのだろう。
「この声か?」
木林の口角が上がる。
オレも自然と口角が上がる。
しかし、オレが瞬きした瞬間、女は消えていた。
プレッシャーが緩まる。
二人してしばし固まった後、オレは口を開いた。
「今、そこにおったやつ、たぶん北尾が見た女の霊やと思う…」
木林はまた後ろを振り返る。
「あ、あ~ん…何かしんどいと思ってたけど、そいつのせいか?」
と尋ねる木林。
「かなり危険度高いぞ…北尾の様子おかしいのもわかる…そら大学もやめたくなるわ…」
オレはそういいながら、また階段を登り始めた…
ようやく五階に辿り着き、北尾宅前へとやってきた。
ここに来るまでに、オレは体力をかなり消耗し、もはや北尾をブン殴る気力は失せていた。
しかし、木林はまだその気力旺盛のようだ。
「北尾め~!数々の非礼、この木林ナックルにて償わせてやるんよ~!」
と拳を握りしめる木林。
木林はインターホンを押さず、鉄製のドアを叩いた。
「北尾~!出てこい!」
ガンガンとうるさい音を立てるドアと木林。
しかしドアは開かない。
木林は目を血走らせて更に激しくドアを叩く。
すると、北尾の隣宅のドアか開き、気弱そうな男性がおそるおそる顔を出した。
木林はあろう事か、
「何見てんな隣人!!」
と理不尽極まりない八つ当たりの言葉を吐いた。
これは通報されて然るべきレベルの無礼である。
オレはすかさず木林の前に立ち、
「すみません、ちょっとここの北尾君ともめてしまいまして…迷惑かけてすみません…あの、静かにさせますので、安心してください。」
と頭を下げた。
すると隣人は会釈した後、ゆっくりとドアを閉めた。
落ち着きを取り戻した木林がインターホンを押す。
すると、ガチャッという音と共に鍵が空いた。
ドアが開き、北尾が顔を出す。
「ああ…来てくれたのか…」
という意外な言葉より、北尾の顔色の悪さが気になった。
北尾の目は死んでいる。
かなり疲れた様子で、目には隈ができている。
やはり、北尾の精神は不安定…しかも体調にまで影響が出ているようだ。
木林も北尾の顔を見て、
「お前、その顔色…」
と絶句している。
わずかな時間で、北尾の霊障から受ける影響がかなり進行しているのだと思った。
「まあ、入ってくれ」
とドアを全開にする北尾。
その瞬間、
『おいで…』
と、またあの声が聞こえた。
オレは確信した。
このマンションの異変は、北尾宅からひろがっている。
なぜなら、玄関に立つ北尾の背後…廊下の奥にある、おそらくリビングてあろう部屋から、今まで感じた事のない、異常なプレッシャーを感じるからだ。
元凶はそこにある。
しかし、正直、北尾宅には入りたくないという思いもある。
生命の危機すら感じるからだ。
心臓に
『ミシリ』
とくるプレッシャー…
北尾宅はもはや、非日常の空間へと変貌している…
こんな空間に長い時間いたら正気を保てるはずがない…
それは霊感の鋭鈍に関係なく万人に平等に影響を与える。
要は、気づくか気づかないか、それだけの違いてある。
「何をしているんだ?早く上がるでっさ…」
北尾の声が日常のそれではなく、別人のように聞こえる。
「き、北尾?大丈夫か?」
ブン殴る気満々だった木林だが、北尾の異変に気づいたのだろう、その気は失せたようだ…
「大丈夫とは言えんな…何だか体調が悪い…まあ、はやく上がれ…」
北尾はそう言うとリビングへと歩いていく…
やはり、そこに行くのか…
木林は靴を脱ぎ、
「お邪魔するで…」
と律儀な挨拶をして、上がり込む。
オレもそれに続く。
リビングのドアを開けてなかに入る北尾。
木林はそれに続いてリビングに入ろうとしたが、立ち止まっておれに小声で
「なあ武市…玄関のドア開いた時から思ってたんやけど、景色が黒くないか?」
と尋ねてきた。
それは、木林の霊感が周囲の異変を察知し、それを脳を使って木林にそう見せているのだ。
危険を知らせる為に…
「お前には黒く見えてるんか…オレには…」
とオレが答えかけた時、
「何をしているんだ?」
リビングから北尾の声がした。
その声はまた、一層異様に聞こえた。
歪んだような耳障りな声である。
木林が
「すまんすまん」
と中に入る。
オレは心臓に重みを感じながら、木林の後についてリビングへと足を踏み込んだ。
ゾォン!!
また全身を悪寒が走り抜け、毛穴という毛穴が総毛立つ。
左手に…
リビングに入って左手にとんでもないモノがある!
何かはわからない。
ただ、それは人が視てはならないモノだ。
それだけはわかる…
ソファに座っている北尾はオレの知っている北尾ではないようだ…
木林もこの部屋の雰囲気を感じ、立ち尽くしている。
オレはたまらず
「北尾…オレの左の方に、何かある?」
と、右の方に顔を背けながら尋ねた。
北尾はまた異様な声で答える。
「絵をかけてあるが?」
絵?
その絵から発せられているのだろうか…
このプレッシャーは?
…
…
…
見なければならない…
見て確認しなければならない…
気づくと木林がソファに座っている。
その絵の真正面の位置にだ…
木林の目は光を失い、口を半開きにしている…
おそらく、その絵に魅入られている…
ここに長居は無用だ。
オレには覚悟を決めて左手を向いた!
…
…
…
その絵を見た瞬間、オレは何者かに心臓をワシ掴みにされた感覚に襲われた。
ミシミシと音を立てる心臓の鼓動は乱れ、呼吸ができない…
スーと血の気が失せ、じわっと尿意が忍びより、足がすくむ…
思ったとおり、それは人が見てはいけない絵だった…
油絵のように見えるが、何の塗料で描かれているのかわからない…
それは、炎のように真っ赤に塗られた背景の上に、老若男女問わず無数に描かれた骸…
首を切られた者…
腹から内臓を引き出された者…
手足がありえない方向に曲がっている者…
からだの半分が何かにた潰されている者…
毒に侵されたのか全身が紫色の者…
それら全てが全裸で描かれている…
そこにはありとあらゆる死…いや、殺人の方法が描かれているように感じた。
しかし、最も引き付けるのは中央に描かれた
『生きた男』
である。
この男だけ、どんな手法を使ったのか、浮き出たように見える…
その男も全裸である。
黒い長髪を振り乱し、
その全身は血にまみれ、右手には切断された人間の腕、左手には同じく切断された足を握り、口には人間の指らしきものを数本くわえている。
男の下には全身傷だらけの女が這いつくばる形で描かれており、男はその上にあぐらをかいて座している。
男は笑っている。
仏像や仏画で描かれている仏や明王の顔で恐ろしい表情で描かれているものがある。
それは憤怒相と呼ばれ、その中でも極めて恐ろしいものは暴悪大笑面と呼ばれる。
怒りが限界を越え、笑っている相だ。
男の表情はオレにはそう映った。
仏教で宇宙の真理を図で現したものを曼陀羅と呼ぶ。
オレにはその絵が人間の怒りを現した曼陀羅のように映った。
この絵を見ていると心が砕けてしまいそうだ。
「き、木林、北尾…とにかく外に出よう…この絵、やばすぎる…」
と、オレはよろめきながらリビングから出た…
一刻も早く、このマンションから離れたかった…
第三話へ続く