プロローグ
『ユグドラシル』というゲームは、岳川だけでなく、世界のあらゆるゲーマーを狂わせた。
このゲームは胡蝶の夢の如く、現実世界とゲーム世界を区別することが困難になるほどのリアリティをもってプレイヤーを圧倒した。
コントローラーとなるヘッドギアを装着し、一度『ユグドラシル』の世界に入ってしまえば、肉体の生理現象が現実世界に引き戻そうとしない限り、『ユグドラシル』の住人になることができた。
一部のプレイヤーは肉体に逆らい、現実世界に帰ってくることはなかった。
◎
体すべてをバーチャル世界に投影する、フルダイブ式のゲームが登場してしばらく経つ。
そのリアリティは開発が進むに連れて増し、五感すべてが現実のものと変わらない。
頭にヘルメットのような形をしたコントローラーをつけることで脳波をキャッチし、その人の思った通りにゲーム内のアバターを動かすことができる。
はじめて市販されたフルダイブ式ゲーム『ドリームランド』は、遊園地の定番アトラクションがリアルに体験できるというもので、視野は180度まで、景色も完全に現実とまではいかなかったが、
キャッチコピーである「夢よりも夢みたい」という言葉に恥じることのない出来だった。
そして、次なる作品が発売された。その名も『ユグドラシル』。
フルダイブ式MMORPGである。いままで現実のような体験ができるまでにとどまっていたが、ついに現実を越えたといわれている。
コントローラーもほとんど眼鏡のような形だ。初期のヘルメット型は重くて、長時間使用していると頭が痛くなったものだ。
岳川は、机の上に置かれたポテトチップスを口いっぱいにほおばりながら、左手に印鑑を握り、宅配業者が来るのを待っていた。
右手は常にスマートフォンを握り、時間を確認している。15時46分。『ユグドラシル』は1万人限定で先行販売され、岳川は運よくその一万人に選ばれていた。
今日の16時に配送されてくる予定だ。岳川の傍らには大量のカップラーメンと水が用意されていた。岳川はしばらく外に出る気がなかった。
大学生の岳川は、長い春休みをすべて『ユグドラシル』につぎ込む予定だった。遊びに誘ってくれる友達もいない。
16時になった途端、インターホンが鳴った。岳川はすぐに扉を開けた。そこにいたのは配送業者の人ではなく、スーツ姿の男だった。男はメタリックな黒い箱を持っていた。
「岳川 朔様で間違いないですね?」
男は言った。岳川はそうです、と答える。男は手に持っていた箱を岳川に渡して去っていった。
箱は表面に白で『ユグドラシル』と印字されていた。
本当に眼鏡がひとつ入っているだけのように小さいが、重さはかなりあったので、これが『ユグドラシル』に違いないだろう。
岳川はすぐさま部屋に戻り家の鍵をかけ、届いた箱を開けた。とくに説明書の類はなく、ゴーグルのようなものがひとつ入っているだけだった。
左側に丸いボタンがあるだけで、他にはなにもない、シンプルなものだった。岳川はこんなものか、と半ば拍子抜けした気持ちで、ゴーグルを装着し、仰向けになった。
フルダイブ式のゲームを遊ぶ時は横になり、手の届く位置になにもおかないようにするのが鉄則だった。岳川は『ユグドラシル』へのスイッチを入れた。
ブラックに塗りつぶされた視界、体が宙に浮かんでいくような感覚。どこからともなく声が聞こえてきた。
「キャラクターを作成します。名前を決めてください」
ガク。岳川はキャラクターの名前をガクで統一するようにしていた。決まったものがないと毎回何時間も悩んでしまい、なかなかゲーム本編に入れないからだ。
ガクという名前は、初めてゲームを買ってもらった時に父が勝手に決めた。家族全員がガクという名前でプレイできるからと言っていたのを覚えている。
それ以来岳川は、ゲーム内でずっとガクだ。
「アバターを作成します。この作業はすべて自動で完了します」
どうやらビジュアルはすべて決めてくれるらしい。キャラクターの容姿を決めるのは嫌いじゃないので、少しがっかりした。
「オーケー、ウェルカムトゥザ『ユグドラシル』、ガク」
視界がまばゆい光に包まれ、突如、体に重力が戻る。しかし下にはなにもない。落ちる――
「うお、おおおおおおおおおおおおお!?」
空が見えた。ぽっかり浮かんだ黒い空間がみるみる遠ざかっていく。背中で空を切り、ガクは落下していた。
『ドリームランド』にバンジージャンプのアトラクションがあったけれど、ちゃんと命綱もカウントダウンもあったし、というより空がリアルすぎる――
じわりと手に汗がにじんできた。夢なら覚めてくれと願う。しかしここは現実より現実らしい夢の世界だった。
空はどんどん遠くなり、地上に叩きつけられる――前に、落下速度は緩やかに減速していき、ガクははじめて周りを見渡す余裕ができた。
こんな風景は写真でしか見たことがない、が、雄大な自然が眼前に、とどまることなく広がっていた。
360度開けた視界に、山が見えた。海が見えた。森が見えた。崖が、丘が、川が、街が、城が、遺跡が。
いままで画面越しにしか見ることのできなかったファンタジーの世界が、確かな現実としてガクの前にあった。
そして一際目立つのが、巨大な一本の樹木だった。『ユグドラシル』。世界樹が、現実とは違うファンタジー世界の象徴として世界に君臨していた。
だんだんと高度が下がっていき、ガクは小高い丘の上に降り立った。ガクはその丘に寝転がった。背の低い草が風に揺れていた。
本当にバーチャルの世界に来たのか怪しく思えるくらいに、なにもかもが自然だった。近くに流れる小川のせせらぎ、人の科学に汚染されたことのない空気、風。
上を見れば蒼い空が広がっていた。部屋にこもってゲームばかりしていたガクにとって、まぶしすぎる世界だった。
その曇りない空に、よく見れば黒点がたくさん浮かんでいることに気付いた。ガクと同じように、『ユグドラシル』のプレイヤーたちがたくさん降ってきていた。
かなりの数のプレイヤーがいるはずなのに、誰一人としてガクの近くに落ちてくる者はなかった。それだけこの世界が広いということだろう。
ガクは寝転がったまま、自分の服装をチェックした。部屋着であるグレーのスウェットのまま、ということはなかった。上下ともグレーということに変わりはなかった。
配色はどうやら着ていたものを継承するらしい。ほとんどゴーグルのようなヘッドギアでどうやってスキャンしたのか分からないが、謎テクノロジーである。
ただ、ファンタジー世界でモブキャラがよく身に付けているような、安っぽい布の服に変わっていた。
「これじゃスウェットのほうがまだましだな」
つい声に出して言った。ガクは自分から発せられた声に違和感を覚えた。どうやら声も現実のものとは違うらしい。ちゃんとゲーム世界のアバターになっているようだ。
ガクは次々と降ってくる人を眺めた。それは異様というほかなかった。てっぺん近くでは叫び声をあげているだろう。
速度が緩くなる中盤にかけては、世界を見渡し、驚嘆の声をあげるだろう。
このゲームに関して知っていることは、あまりにリアルすぎる多人数参加型RPGというだけで、具体的になにをするゲームなのかはなにも知らされていない。
コントローラーに説明書の類がなかったことを見ると、皆がオンラインしてからその全容が発表されるのだろう。
降ってくる人の数からして、ガクは早くオンラインした方のようだ。興奮もあったが、ガクは気長にこの場を待つことができた。
ガクは目を閉じた。目を閉じれば、完全な闇ではなく、透けて見える太陽の光、瞼の裏が見えた。どこにもバーチャルとしての綻びはなかった。
耳には風の音、水の音が入ってきた。そして、上からは人の声のようなもの。
「どいてどいてなんかとまらないいいいいいいいいいいいいいい!!!」
ガクは目を開いた。空からパスカルカラーの女の子が落ちてきていた。手で押さえられたスカートからは純白が見え隠れして、ガクはたちまちに元気になった。
そんなところまでリアルなのか!いや、リアルでこんなアングルからみたことなんてないけれど!
「むぎゅ」
動揺やら感動やらで動けないでいたガクの鼻頭に、女の子のお尻がめりこみんだ。
ほとんど勢いがなかったとはいえ、落ちてくる人を興奮してゆるゆるの顔面で受け止めるのはいささかつらいものがあった。
ガクは柔らかいと痛いを同時に受け、意識がどこかへ旅立ちそうになる感覚をもった。初めて酒をしこたま飲んだとき、こんな感じだったなあとぼんやり思った。
「だ、だいじょうぶですか!?あ、なんか自分の声違う!」
女の子はガクの顔面の上で言った。いやまずどいて、とガクはどいて欲しくないという欲望を隠し、極めて紳士的に言った。女の子はすぐさまガクの上からとびのいて、ガクを少しがっかりさせた。
女の子は色がパスカルカラー、スカートになっている以外はほとんどガクと同じような服装をしていた。彼女もプレイヤーのひとりであることは間違いないだろう。
この『ユグドラシル』に限らず、フルダイブ式のゲームはいわゆるネナベ、ネカマを許さない。よってプレイヤーが男なら現実でも男、女なら女である。
そしてガクは、大学生にも関わらずサークルなどに入らず、友達も作らず、講義が終わればすぐ家に帰ってゲームしたりアニメ見たりしているようなオタクである。
チャットくらいなら向こうが女でもできる。どうせおっさんだろと心内に余裕が持てるからだ。しかしここは現実よりも現実らしいゲームの世界である。
確かな実像としてここにいるのだ。ガクは緊張して顔すらまともに見ることができなかった。ましてスカートの中を見てしまった手前、ガクは気まずさやらで逃げ出したくなった。
「うーわ、スコールみたい!」
パステルカラーの女の子はガクの顔を見て言った。
「ええ、そんなに炭酸飲料みたいな顔してるかなあ」
ガクはショックを受けた。もともと自信のある顔をしてるわけではないけど、まさかそんなよくわからない例えをされるとは思わなかった。
「いやいやいや、飲み物の方じゃなくてレオンハートの方ね。FFの」
「まじで!そんなにイケメンなの!」
そうだ、このゲーム世界において現実世界の容姿などなにも関係ない。自動生成されるアバターがすべてなのだ。
そして未だかつてモテた経験のないガクは※ただしイケメンに限るという定型句を信じていた。
昔は呪縛だった※も、いまでは神の祝福となった。
「お気になさらずマスター、私めがあの丘で横になっていたのが悪いのです。こんなにも空が青く、雲が白いとは思わなかったもので、つい見とれてしまって」
ガクがあなたのあの白い雲のようなパンツにね、と言いかけてガクは言いとどまった。
それはガクが初対面の人と会話する上で最低限のマナーを思い出したからではない。
勇気をもって見た女の子が、今まで見たことのないような美少女だったからだ。