プロローグ『そして僕のリアルが終わりを告げた』
若干見切り発車ですがよろしくお願いします。
プロローグ
『そして僕のリアルが終わりを告げた』
心臓が破裂しそうな程に強く激しく弾んでいた。
キンと甲高い耳鳴りが響き、水を吸わたスポンジをじわじわと握り締める様に背筋から止め処なく汗が浮いているのを感じる。
現実世界では主人公の状況に応じて話を盛り上げるBGMが流れることはないんだけど、それでも、今この瞬間に自分の体が発する以外の一切の音が消失していることは、決して僕の気のせいなんかじゃないだろう。
僕はまさに、生まれて初めて経験する津波のようなプレッシャーに耐えているのだから。
湧き上がった唾を飲み下す音が、こんなに印象に残ったことなど滅多にない。
他人の一挙一動に全身の神経を本気で集中したことも、だ。
人差し指で突かれただけでも崩れ落ちそうなほど、まるで世界が酷く歪んでいるような、重力の向きが壊れてしまったかのような、そんな足元の覚束なさもある。
そんな状態でよくも一言一句間違えることなく、ハッキリと自分の意思を相手に伝えられたものだと思う程に、さっきの自分が発した堂々たるセリフはこの高鳴る胸にじわりと熱を帯びさせていた。
「財木さん、僕は君の事が好きです。 僕と付き合ってくれませんか」
入学初日の登校日、校門前で見かけた彼女を僕は一目で気に入っていた。
それまで公言していた異性の趣味とはハッキリ言って違っていたのだが、きっとあれは一目惚れだったんだろう。
運良く彼女と同じクラスになり、一年間を通して学校の行事などでも無難に交流を重ねて来た。
その中で、この想いがだんだん一目惚れから恋へと変わっていったのを感じて来た。
自然と僕は彼女に相応しい自分になりたいと、興味の無かった勉強や苦手意識のあった運動に精を出したことで、こうして少しばかりの自信を持てるくらいには成長できた。
憧れの彼女に、告白をするくらいには。
もちろん、結果は分からない。
俺は別にイケメンではないし、歌が上手かったり、スポーツマンだったり、芸能関係に詳しかったり、クラスのムードメーカーだったりもしない、自分で言うのも何だが特徴のない人間だと思う。
だから決して自惚れてはいないが……同時に、悪く無いはずだと言う思いもあった。
真剣な思いを伝えたい、少しでも彼女に伝えたい。
この想いの答えを知りたい。
そう、思ったのだ。
だから、結果がどうなっても後悔はしないと決めていた。
告白の言葉も考えに考えた結果、シンプルにまとめた。
冴えたセリフの一つも浮かべば漫画やドラマの主役になれるのかもしれないが、僕にはそんな俳優の真似なんて冗談でもできないだろう。
だから、やれる範囲で精一杯やった。
雨の日も、風の日も、日課のトレーニングは欠かさなかった。
台風が近い日や雪の日だって、無遅刻無欠席を守り抜いた。
宿題だってズルをせずに全部自力で解いて、テストの点数だって上から数えた方が早いだろう。
ルックスだって、身長は180と高い方だし日々のトレーニングでそれなりに筋力もついている。
毎朝の洗顔は面倒でもしっかりやっていたから、少なくとも無精な印象は抱かれないだろう。
自分に出来る限りの努力はそれなりに積んできたはずだ。
だから。
「ごめんなさい」
……だから、何だと言うのだろうか。
浮ついていた体の軸が急に平静を取り戻した。
足元からは地面の伝える硬質な触覚が戻り、ざぁっと風に靡く木の葉の音が波の様に広がった。
彼女は小さな手を胸の前で合わせ、震える様な仕草で小さくお辞儀をする。
「えっと、その、横島くんの気持ちは嬉しいよ?」
まるで言葉を探すかのように視線を彷徨わせながら彼女は続ける。
「でも私は横島くんとは付き合えないって言うか、その、横島くんのことをそんな風に見れないって言うか、見てなかったって言うか……えっとね」
どこか泣きそうな顔で、弁明するかのように言葉を紡ぐ。
「気持ちは本当に、嬉しい……うん、でも私は、誰かと付き合うとか考えたこと無くて……」
どんな結果になっても良いと思ってた。
ぶっちゃけ振られるだろうなって、どこかで分かってたのは事実だ。
だって、僕と彼女の間にはクラスメイト以上の関係性は無く、いわばこの告白も自分の独善でやったことだから。
僕が自分の気持ちに従って、やりたいようにやっただけなのだ。
振られたっていいと、ちゃんと気持ちに整理が付いたから告白したのだ。
なのに、これはどういう事だろう。 こんな話は聞いていない。
「その、だから、私は横島くんのこと嫌いじゃないよ。 クラスの事にも積極的に参加してくれてたし、文化祭や体育祭でもみんなと頑張ってたよね?」
後悔はしないと決めていた。
いや、後悔しない為にこそ告白を決意したはずだ。
なのに、なのに、なのに!
「……ごめんなさい。 上手く言えないんだけど、私は横島くんとお付き合いできません……本当に、ごめんなさい」
深々と頭を下げる彼女は、まるで僕に許しを請うかのように申し訳なさそうにしているのだ。
……違うんだ、そうじゃない、そうじゃないだろう!
告白って言うのは、惚れた方が自分の気持ちに決着をつける為の行為のはずで、こうして相手に謝罪されるようなことじゃないはずだ。
まして、断る側の彼女が辛そうな表情で謝るなんておかしいじゃないか。
むしろ告白に失敗した僕の方が、愛想笑いで誤魔化す彼女に涙を堪えて去っていくのが普通だろう?
どうして告白を断った彼女の方が辛そうにしているのか。
僕は今のこの状況が理解できなかった。
一つだけ分かるのは、僕はきっと大きな思い違いをしていたと言う事だ。
そして、彼女を傷付けてしまったのだと言う事。
返す言葉を見つけられないまま立ち尽くす僕は、逃げる様に去っていく彼女を見送ることしかできなかった。
一生懸命に積み上げてきたモノが、ガラガラと大きな音を立てて瓦解した。
そんな言いようのない喪失感と、禁忌に触れてしまったかのような罪悪感がある。
……あぁ、これが現実なんだなって、ようやく気付かされた気がした。
***********
「征士郎、荷物が届いたわよ?」
翌日の昼下がり、母さんが僕を呼びに来た。
ぱたぱたとスリッパを鳴らしエプロンを揺らして歩いてくる姿は、年相応の雰囲気は微塵もない。
身長が女性としても低く、童顔だからかたまに兄弟に間違えられるくらいだ。
流石にそれはお世辞が多分に含まれているのだとは思うけど。
少なくとも、僕にとってはこんな風でも優しくて頼りがいのある母さんなのだ。
「分かった、すぐに行くよ」
部屋でネットを回遊していた僕は、すぐに用件を済ませに玄関へと向かう。
そこには、宅配の人が置いて行ったであろう段ボール箱がドンと存在感を放っていた。
僕はそれの宛名と品名を確認し、確かに自分あての荷物だと確信する。
心構えをしてから全身に力を入れて持ち上げると、流石にずっしりとした重みが両手を通して伝わって来た。
「随分大きくて重そうだけど、お母さんも手を貸そうか?」
心配してくれるのは有難いが、この年にもなって母親に頼るってのは男として頂けない。
「大丈夫、このくらいなら一人で平気だから」
「あらそう? それにしも、そんなに大きな箱で一体何を買ったのかしら?」
「んー、VRマシンを買って見た」
「へぇ、そうなの。 高かったんじゃないの?」
「バイトしてたから大丈夫」
「分かったわ、遊ぶのも良いけど程ほどにしなさいね」
「んー」
そんなやり取りを交わしながら、僕は二階の隅にある部屋まで必死に荷物を運ぶ。
慎重に重心を移動させながら、壁にぶつけて傷つけてしまわないように懸命に。
それ程大した距離を運んだわけじゃないが、この箱の中身が原付バイクくらいは軽くする値段と言うのが大きなプレッシャーだったように思う。
告白に失敗したその足で、この一年間にデート代として貯蓄していた軍資金の一部を開放して趣味に充てることにしたのだ。
そこで、思い切って今まで興味はあったが金銭的な面や、自分の性格を考えてハマってしまいそうだから敬遠していたVRマシンを購入してみたのだ。
VRとはバーチャルリアリティーのことで、仮想現実とか仮想世界とか呼ばれる電子空間上でリアルに再現された空間のことで、VRマシンはそれを体感できるハードウェアのことだ。
特にVRMMOを始めとしたリアルな体感を伴うVRゲーム市場は拡大の一途を辿っており、毎年様々なタイトルがリリースされていたりする。
元々、親父の影響かゲームが好きだった俺はVRゲームにも興味があったのだが、一度やり始めると深みにはまってしまいそうだと意識的に遠ざけていたのだ。
何より、今年一年は自分を磨こうと決心していたからだったのだが……夢破れた今となっては、遠慮する理由も一切なくなってしまったと言う物だろう。
フラレたその日の内に駅前の家電量販店に行って最もスペックの良いマシンを購入し、ついでとばかりに気になっていた最新の大型タイトルのパッケージも購入してきたのだ。
大外の梱包を開けると空間を埋める緩衝材の上に、もう一つ小さな箱が鎮座していた。
『HeavenSward Online』
これこそが、僕がPVを見て気になっていた最新のVRMMOタイトルだ。
既にアーリーアクセスの権利を持つ先行開始組が全世界で百万人を突破しているらしい、世界的なビッグタイトルだそうだから期待感は否応にも高まってしまう。
パッケージはシンプルそのもので、よくある美麗なグラフィックのキャラや迫力のモンスターが対峙している構図だったり、風光明媚で広大な背景が描かれたものではなく、黒一色のバックに顔すら見えない全身甲冑の騎士が右手に剣を、左手に緑色に輝く炎を手にしているだけで、唯一派手な点と言えば装飾に凝ったタイトルロゴが金の箔押しなところだろうか。
ハードカバーの洋風ファンタジーを思い出させるその装丁も、僕がこのタイトルに惹かれた理由でもある。
剣と魔法のファンタジーは、これも親父の影響だと思うが家の蔵書を読み漁っていたので馴染み深い存在だと感じている。
むしろ、現代日本に生まれていなければいっそそういう世界で生きてみたいと思っていた程だ。
今でもそんな感情は胸に燻っていたし、そういう所が今までVRゲームを避けていた理由でもあるのだが……今は、胸の高鳴りが抑えきれない。
逸る気持ちを抑えつつ緩衝材の底に沈むマシンの箱を取り出し、丁寧に開封して中身を手早く取り出してテキパキと起動の為の設置と準備に取り掛かる。
この手の工作がどちらかと言えば特異な僕は、あっさりと一時間もかからずに通電まで済ませることが出来た。
マシンの稼働状態も問題ないようで、自己診断機能は全て問題なしと解答していた。
続いてパッケージも開封し、中から板状のデータディスクを取り出す。
中のデータだけをマシンに取り込んでも良いんだが、僕が購入した最新モデルのマシンには普通は一つしか存在しないスロットが三基も存在している。
他のゲームで遊ぶ予定も当分ないし、仮に遊ぶことになっても予備のスロットが空いているのだから気兼ねする必要はない。
ここはインストールの時間を省く為にも直接起動する方式で良いだろう。
マシン本体の保存領域はデータディスクよりも格段に上だが、かといって無駄遣いしたいものでもないしな。
何より、早くVR世界を体感してみたいと言うのが正直なところだ。
梱包の類を大箱の中に仕舞いこんで、ざっと部屋を片付けて後顧の憂いを絶つ。
VRマシンのヘッドギア端末を装着してベッドに横たわり、端末の起動ボタンに触れる。
すると、バイザー越しに見えていた天井や部屋の様子がすぅっと溶けていくように遠退いて行き――。
***********
――私は追われていた。
いや、だからどうしたって言われたら困るんだけど。
心の中で誰にともなく断りを入れながらも、現状を再確認するために第三者の自分視点が当事者である自分の様子を冷静に見下ろしていた。
こう言っては何だが、私はこの世界ではちょっとした有名人だ。 美少女でもある。
総資産だって決して少なくないし、冒険者としての実力だって堂々としたものだ。
「待てぇ!」
「待たない!」
この世界は甘くない。
魔物はおっかないし、ダンジョンは罠だらけだし、油断するとすぐに足元を掬われる。
そして何より一番おっかないのは同じ人間――冒険者だ。
私は美少女だし、お金も持ってるし、有名ゆえの僻みもあるが、それより何より運の良さも大きいと思うのだ。
日頃の行いが良いからだろう、私は自分で言うのも何だがとても運が良いのだ。
今日もたまたまふらっと足が向いた先の狩場でレアなモンスターに遭遇し、しかも運良くレアな素材が手に入ってしまった。
あぁ、神様って本当にいるんだな……なんて暢気に思ったのも束の間、数日かけてキャンプしてその魔物を狩ろうとしていた冒険者のグループにイチャモンを付けられてしまったのだ。
完全に向こうの逆恨みであり、冒険者同士のルールとしても私の言い分が全面的に正しい。
感情論としては同情しなくもないが、それとこれとは話が別なのだ。
だから、こうして追われているのは完全に向こうのルール違反なのだ。
……だけど、それを口にしたところで彼らが止まる道理もない。
彼らとしても、行き場のない感情の吐口を求めているのだろうから。
私としてはいい迷惑でしかないが。 本当に迷惑。
じゃあ、レア素材を彼らに渡せば済む話じゃないかって?
そうかもしれない……でもね、私はこう見えて一端の冒険者だから彼らの身勝手な主張を認めるわけにはいかないと思っている。
ここで私が屈してしまえば、彼らが更に犯罪行為に手を染めてしまうかもしれない。
それじゃあダメだと、私は思うのだ。
――ただ、その考えは私の傲慢だったのかもしれない。
最近、冒険者として色々と大きな成果を上げた事や、私生活であれこれとイベントがあったせいで自意識過剰になっていたのかもしれない。
常識的に考えればすぐに気付いていたはずなのだ。
向こうはキャンプを構築して狩りに臨んでいた冒険者であり、それは私たちの常識に照らし合わせればそれに関与している人間の人数を表すキーワードだったのだ。
そこを私は見誤ってしまっていた。
「……っ!!」
誘導されていると感じていたが、相手のプレッシャーが緩んでこちらが安堵した隙を突かれた形で無数の矢が私目掛けて飛来してきた。
咄嗟に大木を利用して身を守るが、運悪くそのうちの一本が太ももを深く抉る。
身軽さを武器にした軽魔法戦士の私にとって脚は生命線だ。
高位治療魔法を扱えない自分にとって、この深手は戦力の大半を失ったことに等しい。
脚の痺れも痛みからではなく、矢に塗られた麻痺毒か何かの影響だろう。
「観念するんだな」
森の奥から姿を現した男の顔を見て、私は凍り付くような寒気を感じてしまう。
そいつは賞金首として有名な悪名高い冒険者崩れの男だ。
まさか、そんな奴が裏に潜んでいたとは夢にも思わなった。
この近くには多くの冒険者が存在する規模の大きな都市があるので、そういう後ろ暗い奴らが徘徊しているとは想像したことも無かった。
「ほう、中々いい女じゃねぇか……これは随分とレアな獲物だな!」
嫌らしい笑みを浮かべる男に、私は剣を構えて威嚇の意思を示す。
しかし対して効果は無いのだろう、クックッと低く笑いながらじわりじわりと距離を詰めくる。
私の後ろには盾にした大木があるが、今は逆に退路を断たれている形だ。
内腿を這う血の流れが、何とも言えない寒気を感じさせていた。
ぞわぞわとした言いようのない恐怖が、足元から這い上がってくるようだった。
初めて感じる得体のしれない恐怖感に負けそうになる気持ちを奮い立たせるために、私は強く声を張り上げて自分を鼓舞する。
「それ以上近づかないで! 今すぐこの場を去れば見逃してあげるわよ、賞金首さん……」
「ハァン! 俺も有名になったもんだ……俺のファンだって言うなら、ますます可愛がってやらねぇとなぁ?」
「っ! だ、誰が!」
「シッ!」
目にも止まらぬ早業で抜かれた投げナイフを間一髪で叩き落とす。
ホッとしたのも束の間、続けて放たれていた二投目のナイフが、私の股の間に突き刺さっていた。
それに気付いた瞬間、腰が抜けそうになるのを必死に大木にしがみ付くことで耐える。
荒くなる息を隠すことが出来ず、精々泣きそうになるのを堪えて相手を睨むしかできなかった。
「んー、プリティな表情じゃないか……実に燃える。 いいよいいよ、最高だよ!
恐怖に抗おうとする強い意思、本能を押さえつけようとする鋼の理性、実に才能のある冒険者なんだろうなぁ! いいねぇ、君みたいな可愛い子は実に俺の好みだぁ……」
舌でナイフを舐める様は爬虫類を思わせる君の悪さがあったが、まるで蛇に睨まれたかのように私は目を逸らすことが出来なかった。
「そういう健気な娘や、強気な娘をね? 少しずつ、すこーしずつ俺の好みに躾けていくのが堪らなく楽しいんだよ! そう、趣味だよね。 マイフェイバリット!
君は実に良い……とてもいい声で鳴きそうだ」
背筋を悪寒が這い上がる。
上擦ってしまいそうな声を必死に抑えて、体を大木に押し付ける。
少しでも気を抜けば全身から力が抜けてしまう……それほどの恐怖を私は感じていた。
今までも変な冒険者を相手にしたことはあるが、目の前の男はもっとヤバイ奴なのだと勘が告げていた。
しかし、自力ではもうどうすることも出来ない状況だった。
絶望感と敗北感で、意識が朦朧として来る。
いっそ、このまま気を失ってしまえば楽になれるかもしれない……そんな風に、心が折れかけていたまさにその時だった。
「誰だ!」
蛇目の男が気勢を発したその先から、一頭の野良モンスターが飛び出してきた。
イノシシ型の突進力に優れたそのモンスターの突然の乱入に、多少は焦りを見せた男だったがすぐにナイフを閃かせると瞬く間にモンスターを打ち倒した。
「ケッ、雑魚が驚かせやがって……」
ピリピリとした雰囲気を発した男はぎらついた目をこちらに向けて来た。
次の瞬間、八つ当たりの様な感情が私に向けられることは明白だっただろう。
彼が現れたのは、まさにそんな瀬戸際だったのだ。
「あちゃー、まーた逃がしちゃったか。 あ、取り込み中すいません、そこのブルを追ってたものですが皆さん怪我はありませんか?」
張り巡らされた緊張感の糸の巣を全く意に介していないのか、マイペースな調子で男は場違いな言葉を発していた。
呆れる程に自然体で、それでいて空気の読めていない彼の発言にいち早く気が触れたのは蛇目の男だった。
振り向きざまにナイフを投擲する卑怯な奇襲で闖入者にトドメを刺すつもりだったのだろう。
「おわっ!? あ、あぶねー!」
それを無様な格好ながらも彼は躱して見せたのだ。
蛇の男が放つ雰囲気が、苛立ちの色よりも警戒の色が濃くなる。
「……てめぇ、何もんだ?」
「だから、そこのブルを追いかけてた冒険者ですって。 そっちこそ、そこの可愛い子とこんな森の奥で何を……え、あれ、もしかしてそんなタイミングでした? うわ、本当にごめんなさい!」
何を勘違いしたのか顔を青くしながら頬を染めると言う器用なことをしてのけた彼は、へこへこと頭を下げて謝っていた。
情けないと思わなかったと言えば嘘になる。
装備を見るに、彼はまだ駆け出しどころか初心者丸出しだったのだから。
男もそれに気づいたのだろう、私が動けないのをいいことにこの場を取り繕って切り抜けようと考えたようだ。
後ろ手で私にナイフをちらつかせながら、彼に対しては明るいトーンで語り掛けていた。
「いやぁ、本当に困っちゃうなぁ。 まぁ、大事にならなくて良かったですよ!
そこのブルは俺が仕留めておいたけど、君に上げるからさっさと帰って欲しいなぁ」
「良いんですか!? ははは、本当にご迷惑をお掛けしました……」
嬉しそうに感謝を述べる彼の様子に言葉に出来ない苛立ちを感じてしまうが、ここで彼を見逃せばこの先に待っている私の未来は絶望しかないのは明白だった。
一か八か、いや無駄なあがきだとは知りつつも、彼に助けを求める事しか私に出来ることは無かったのだ。
冷静に考えれば、初心者装備でブルを取り逃がすような素人丸出しの冒険者が、目の前の危険な男に勝てる可能性は無い筈だった。
それでも、私は自分が助かる為に藁をも縋る思いで震える唇を動かしたのだ。
「…………!」
喉の奥に詰まった声は、一つも音にならなかった。
麻痺毒の影響か、それとも別の何かが原因か。
私はその事実に絶望を感じてしまう。
唯一の藁にしがみ付く力すら、自分は奪われてしまったのかと。
今まで堪えていた涙が、目から溢れてきてしまった。
そのことが悔しくて悔しくて、私は思わず顔を伏せてしまった。
「……ところで、そこの蛇目のおっさん」
「んー、何かね?」
「あんた、悪者だな」
だから、唐突に鳴り響いた金属音が何か、一瞬判断が付かなかった。
急いで顔を上げると、彼が蛇目の男に切りかかっていた。
間一髪で受け止めた男も、じわじわと押されているようで表情に焦りが見える。
「て、てめぇ……いきなり何しやがる!」
男の冷たい怒気をはらんだ声が私を震え上がらせる。
だが、次の瞬間それすらも凌ぐ覇気で彼が吼えた。
「女を泣かせてる屑が! 粋がってんじゃねぇ!」
甲高く響いた金属の擦過音が、閑静な森に響き渡る。
深い緑の樹海に鮮血の虹が昇った。
切られていたのは蛇目の男の方だった。
「ガハッ……嘘、だろ……」
深手は負ったのだろうが、まだ余力のある男はすぐにその場を離れて森の闇深くに溶けて行った。
周りを取り囲む気配もいつの間にか消え去っているようだ。
彼は周囲を見渡し、剣を鞘にしまうと私の方へとゆっくり近づいてきた。
「ちょっと失礼するよ」
そう言うと彼は私の股の間に刺さっていたナイフを抜き、動けなくなっていた私に肩を貸して地面に座らせてくれる。
内腿に軽く触れ、刺さった矢を抜くと腰のポーチから瓶を取り出してガーゼを湿らせ、傷口に当てて治療をしてくれた。
「大丈夫、辛くない?」
「……平気、ちょっと染みるけど大丈夫」
「それは良かった……済まない、すぐに気付けなくて怖かっただろう?」
そう言うと彼は私の頭を抱いてくれた。
何て事の無い行為なんだけど、それが無性に嬉しくて私は涙を抑えきれなかった。
それからしばらく、私は彼の胸を借りて泣いていた。
――これが、彼と私の馴れ初めの話である。
***********
大型VRMMOタイトル『HeavenSward Online』。
発売一月で全世界に一千万以上のユーザーを獲得している最新のVRMMO。
剣と魔法のファンタジーという世界を強く前面に押し出しつつ、プレイヤーの創造する偶発的な物語を第一に考えている。
広大なワールドと幅広いカスタマイズ性、そして独自の育成システムから、同じキャラは二人と生まれないと豪語している。
VR機能を駆使したリアルな体験を、最新技術の豊かな表現力で彩っている。
プレイヤー同士の競争を煽る要素も多く、そういった意味でも意欲的なタイトルとなっている。
一方ではそういう運営の姿勢が問題視されている部分もあり、VR環境ならではの倫理観、道徳観からのアクシデントも多い。
良くも悪くも様々な可能性と要素を内包した魅力的なタイトルと言えるだろう。